第5回内国勧業博覧会
最後にして最大の内国博
- 開催期間
- :1903(明治36)年3月1日~7月31日
- 場所
- :大阪市天王寺今宮
- 入場者数
- :4,350,693人
1903(明治36)年に大阪で開催された博覧会である。第5回内国勧業博覧会は当初、1899年に開催予定だったが、1900年のパリ万博、1901年のグラスゴー万博への参加準備のため延期されたという経緯がある。日清戦争(1894-95年)の勝利により各企業が活発に市場を拡大していたこと、鉄道網がほぼ日本全国にわたったことなどがあり、博覧会への期待は大きく、敷地は前回の二倍余、会期も最長の153日間で、最後にして最大の内国勧業博覧会となった。
会場には、農業館、林業館、水産館、工業館、機械館、教育館、美術館、通運館、動物館のほか、台湾館、参考館が建設された(写真)。建物はこれまでの仮設ではなく漆喰塗りで、美術館は大阪市民博物館としてその後使われている。第二会場として、堺に水族館も建てられた。
将来の万博を意識して建てられた参考館は、それまで認められていなかった諸外国の製品を陳列しており、イギリス、ドイツ、アメリカ、フランス、ロシアなど十数か国が出品した。その中で新しい時代を強く印象付けたのはアメリカ製の8台の自動車であった。内国博覧会といえども、念願の万国博覧会に近づいていると言えよう。
初めての夜間開場が行われ、会場にはイルミネーションが取り付けられた。大噴水も5色の照明でライトアップされ、エレベーターつきの大林高塔も人気を呼んだ。これらは、日本にも本格的な電力時代が到来したことを示している。また、茶臼山の池のほとりに設けられた飛艇戯(ウォーターシュート)、メリーゴーラウンド、パノラマ世界一周館、不思議館(電灯や火薬を用いた幻想的な舞踏、無線電信、X線、活動写真などを見せた)、大曲馬など、娯楽施設が人気を呼んだ。堺の水族館は二階建ての本建築で、閉会後は堺水族館として市民に親しまれた。各館は夜間は閉館していたにもかかわらず、多くの入場者はこれらのイルミネーションや余興目当てで来場し、入場者は内国勧業博覧会始まって以来の数を記録した。
本来、国内の産業振興を目的としていた内国博は、入場者の消費等による経済効果に重点が置かれるようになり、事実、大阪市は莫大な経済効果を受けた。博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、万国博覧会の日本開催へ期待が高まり、1907年に予定された第6回を万国博覧会に、という声も上がる。しかし、日露戦争ののち財政難に陥ると、産業振興の費用対効果を疑問視されて第6回は延期、ついには中止されてしまう。その後、府県による博覧会は開かれるものの、国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の大阪万博まで待つこととなる。
- 参考文献:
國雄行 『博覧会の時代 : 明治政府の博覧会政策』 岩田書院 2005 <D7-H68>
國雄行, 東京都立短期大学 『近代日本と博覧会-明治政府の内国勧業博覧会・万国博覧会・共進会政策』 1999-2002 (文部省科学研究費補助金研究成果報告書)<Y151-H11610365>
吉田光邦編 『図説万国博覧会史 : 1851-1942』 思文閣出版 1985 <D7-66>
吉田光邦 『万国博覧会 : 技術文明史的に』 改訂版 日本放送出版協会 1985 <D7-67>
吉見俊哉 『都市のドラマトゥルギー : 東京・盛り場の社会史』 河出書房新社 2008 <EC122-J31>