1873年ウィーン万博
明治政府初参加
- 名称
- :Weltausstellung 1873 Wien
- 開催期間
- :1873年5月1日~11月1日
- 場所
- :オーストリア・ウィーン(プラーター公園)
- 入場者数
- :725万人
1873年、皇帝フランツ・ヨゼフ一世の治世25年を記念して、ウィーンのドナウ河に沿ったプラーター公園で開催された。
主会場となったのは産業館で、中央に鋳鉄製ドームが建てられ、それを中心に展示場が16ずつ両側に建てられた。参加各国は、オーストリアを中心として西は西欧諸国、東はドイツ、東欧諸国と櫛の歯型に配置された。日本のパビリオンは中国の隣、メインパビリオンのほぼ東端であった。ドームの屋根には宝石のイミテーションを使い、オーストリアの王冠を模した細工を施していた。この主会場の他に機械、農業、美術などそれぞれに個別の展示館が建設された。周囲の林と公園の中に展示会場が立ち並ぶ様は、斬新かつ壮麗な会場配置と言われ、高い評価を得た。
ウィーン万博は日本政府がはじめて公式に参加、出品した博覧会であり、敷地内に設けた日本庭園は、開園式を兼ねた橋の渡り初めに皇帝・皇后の来場もあり、人気が高かった。
ウィーン万博はウィーンの都市改造に大きな影響を与えた博覧会として知られている。1857年のフランツ・ヨゼフ一世の勅書以来、ウィーンでは都市改造計画にとりかかっていた。旧市街と拡大を続ける市街地とを接続するために、旧市街を取り巻く形で築かれていた城壁が取り払われ、城壁の跡地は広大な環状道路に変貌した。この万博で、近代化した都市としてのウィーンを世界にアピールするため、道路、公園の整備や公共建築物の建設が次々と進められた。
また、特許制度に関する国際的な取り決めの必要性について真剣に討議されるようになったのは、このウィーン万博以来である。オーストリア政府は、万博への最新技術の出展を促すため、工業所有権についての特別法を制定した。しかし、30カ国、7万以上の出展品が寄せられたにもかかわらず、イギリス、フランス、アメリカの3大国はあまり革新的な発明、製品を出品せず、産業技術という観点からは目新しさに欠けた。一方で、イギリス植民地であったインドや中国、日本は、珍しく優れた工芸品を数多く出品し、特に万博公式初参加となった日本については日本ブーム(ジャポニスム)を巻き起こした。
- 参考文献:
Inaxギャラリー企画委員会企画 『万国博の日本館』 Inax 1990 <D7-E56>
永松栄 『図説都市と建築の近代 : プレ・モダニズムの都市改造』 学芸出版社 2008 <KA421-J78>
吉田光邦編 『万国博覧会の研究』 思文閣出版 1986 <D7-71>
Finding, J. E., Pelle, K. D. ed.: Historical dictionary of world's fairs and expositions, 1851-1988 (Greenwood Press, 1990) <D7-B3>