1862年第2回ロンドン万博
日本人がはじめて見た万博
【コラム】日本使節団
1862(文久2)年、幕府は、直ちに開港を迫るヨーロッパ諸国に対して、開市・開港の延期についての交渉をするため、イギリスを含む6カ国の条約相手国に使節団を送った。竹内下野守保徳を正使とする総勢38人の使節団、いわゆる竹内遣欧使節団には、福澤諭吉、福地源一郎らも含まれていた。
この使節団は、1862年4月30日(文久2年4月2日)にロンドンに到着し、翌日5月1日の第2回ロンドン万博の開幕式に賓客として出席している。福沢諭吉をはじめ日本使節団の主なメンバーは羽織袴で登場し、地味な色合いの服装や髪型などは奇異の目で見られ、また生真面目で礼儀正しい振る舞いは感心され、英国人たちに終始好奇の目で見られた。
日本使節団は何度も会場を訪ねて熱心に見物し、特に機械に興味を示した。また、万博会場以外にも電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを見学した。1855年に発明された速射砲であるアームストロング砲の製作過程のメモを取ったりしている。アームストロング砲は戊辰戦争で使われている。
この万博には、日本からの正式な出展はなかったにも関わらず、日本の工芸品が展示されていた。使節団のヨーロッパ派遣の手配や現地での面倒を見てくれたイギリスの初代公使オールコック(R. Alcock)が自身で集めた日本の品々を出品していたのである。漆器や刀剣といった工芸品だけでなく、蓑笠や提灯、草履なども展示されていた。これらは、ヨーロッパの人々には絶賛されたが、日本使節団の感想は違ったらしい。一行の内の一人、淵辺徳蔵は『欧行日記』に「全く骨董品の如く雑具」だと嘆き、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と書き残している。
※参考 コラム「ウィーン万博とジャポニスム」
日本人、日本や工芸品が西洋人に見られ、また日本人が西洋文明を見る、博覧会はその接点であった。ちなみに、Exhibitionを「博覧会」と訳したのはこの使節団に参加していた福沢諭吉だとも言われている。
- 参考文献:
久島伸昭 『「万博」発明発見50の物語』 講談社 2004 <D7-H45>
鈴木健夫, P.スノードン, G.ツォーベル 『ヨーロッパ人の見た文久使節団 : イギリス・ドイツ・ロシア』 早稲田大学出版部 2005 <GB383-H27>
西川智之 「ウィーンのジャポニスム(前編)1873年ウィーン万国博覧会」 (『言語文化論集』 27巻2号 2006 <Z12-503>)
吉田光邦[述] ; 日本放送協会編 『万国博覧会 : その歴史と役割』 日本放送出版協会 1985 <D7-E82>
吉見俊哉 『博覧会の政治学』 中央公論社 1992 <D7-E89>