曲亭馬琴(1767-1848)から、伊勢の友人
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ここでは、曲亭馬琴と山東京伝をとりあげ、著作活動や生活の様子をうかがうことができる資料を展示する。
44 曲亭馬琴書簡
- 殿村篠斎宛 天保7年(1836)3月28日付 (『曲亭馬琴書簡』 29軸 縦21.4cm <WA25-27>)
45 後の為の記
- 2巻 曲亭馬琴編 〔天保6(1835)頃〕写 2冊 27.3×19.1cm <本別12-17>
滝沢宗伯の追悼録。馬琴が、孫の太郎のために宗伯の事跡をまとめたもの。天保6年成立。馬琴は本書を筆耕に写させ自家に留めるとともに、
46 曲亭来簡集
- 〔江戸時代後期〕 3帖 21.9×30.4cm <WA25-21>
浮世絵師葛飾北斎(1760-1849)から曲亭馬琴に宛てた書簡。前日馬琴が不在であったため置いて来た下絵について、校合が済んだならば受け取りたいということ、明朝は書肆平林堂の主人が来るので、その時「為朝之写本」を3丁分程度渡すことを述べる。「下画」()「為朝之写本」()とは、北斎が挿絵を担当し、文化4年(1807)から8年にかけて平林庄五郎等により刊行された、『椿説弓張月』のことと思われる。展示資料は「月之巻」所収。
47 平妖伝
- 第1-29回 (元)羅貫中撰 (明)馮夢竜補 (清)嘉慶17(1812)刊 6冊 24.0×15.5cm
第29-40回 (元)羅貫中撰 (明)馮夢竜補 天保7(1836)写 6冊 23.1×14.6cm <寄別13-46>
『平妖伝』は北宋の王則の乱を題材にした小説で、羅貫中の作といわれる20回本と、それを増補した馮夢竜の40回本がある。本書は後者であるが、書き入れがある第29回までの清版6冊と、第29回以降の写本6冊(第29回は重複)から成る。版本部分は天保3年(1832)大坂の河内屋茂兵衛から入手したといわれる。補写部分は、小津桂窓が入手した殿村篠斎旧蔵本を借りて写させたもの。榊原芳野旧蔵。
馬琴は中国白話(口語体の文章)を読みこなし、代表作『南総里見八犬伝』は『水滸伝』をモチーフにしたといわれるが、『平妖伝』も馬琴の愛読書で、館山合戦の部分に影響を見る人もいる。
48 曲亭馬琴書簡
- 殿村篠斎宛 天保12(1841)3月1日付 路女代筆 (『曲亭馬琴書簡』 29軸 縦21.4cm <WA25-27>)
殿村篠斎に宛てた書簡。晩年馬琴は失明し、『南総里見八犬伝』は亡き息子宗伯の妻
49 南総里見八犬伝
- 9輯98巻 曲亭馬琴著 柳川重信〔ほか〕画 江戸 山崎平八〔ほか〕 文化11-天保13(1814-42) 刊 106冊 22.8×16.0cm <本別3-2>
安房里見家を舞台に八犬士の活躍を綴った
曲亭馬琴 (1767-1848)-
江戸時代後期の戯作者、読本作家。日本初の職業的作家といわれる。本姓は滝沢。名は興邦、後に
解 。号は著作堂主人など。旗本松平信成の家臣の子として生れたが、父の死後冷遇され禄を離れる。寛政2年(1790)、当時既に戯作界で活躍していた山東京伝の知遇を得、寛政の改革の際禁令に触れ処罰された京伝の代作をして、黄表紙作家として頭角をあらわした。後には読本作家として『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』(49)などを執筆した。滝沢家の復興を願い、松前侯の侍医となった息子宗伯に期待をかけたが、その死(44,45)により思うようにはならなかった。さらに、晩年は眼疾により、宗伯の妻路女に口述筆記させるなどの苦労もした(48)。