古活字版。書名は通称による。第1冊(川瀬一馬氏の分類では第三種ハ本)は近代の補配。第2冊以降(第三種ロ本)は、屋代弘賢の書き入れ本。第5冊の文化元年(1804)の奥書によると、屋代が
トップページ > 第二部 集う ~知の交流~ > 学者の研究と交流
書物が普及した江戸時代には、伝授によらず独自に研究を進める環境も整っていった。入手した資料や学者同士で貸借した資料により対校したり注釈を付したりするなど、研究活動の痕跡が残された資料も少なくない。また、万巻の書を所蔵する蔵書家も多数登場した。これらの学者や蔵書家の間には、知的なネットワークを思わせる交流関係も成立していた。
一方で、出版や貸本屋などの活動が盛んになり、庶民向けの戯作など、多くの読み物も作られた。戯作者の中には稿料を得て活躍するものも現われた。
第2部では当館所蔵の貴重書等から、学者や戯作者などの活動が盛んになった江戸時代後期に焦点をあて、彼等の足跡を示す資料を展示する。
江戸時代後期には、文献や事物の考証研究が盛んに行われた。ここでは、屋代弘賢を軸に、研究や書物をめぐる交流の様子を示す。
30 〔枕草子〕
- 5巻 〔寛永年間(1624-44)〕刊 5冊 27.5×19.0cm <WA7-84>
31 不忍文庫書籍目録
- 〔江戸時代後期〕写 8冊 23.4×16.4cm <123-7>
屋代弘賢の蔵書「不忍文庫」の目録。第1冊「国史 雑史 地理」、第2冊「書論 金石文字 連歌 雑芸遊戯 天文」のように分類されており、1万点を超えるタイトルを収録する。川瀬一馬氏は、本書は屋代弘賢没後に作成されたものとする。掲出個所は、第7冊中の「物語類」部分。「清少納言枕草子」()は『枕草子』(30)のことで、「活板首欠一巻以写本補也」の注記は、同書中の屋代の奥書とも合致する。
32 古今要覧稿 草木部 橘1
- 屋代弘賢編 〔江戸時代後期〕写 1冊 26.6×18.9cm <特7-125>
幕府の命により、屋代弘賢が「総判」となり作成された類書(百科事典)。日本の事物の起源、沿革を、典拠となる文献をもとに示し、考証を加え分類編纂したもの。和歌、漢詩の作例や彩色図が付されたものも多数ある。屋代は、奈佐勝皐のすすめにより、天明年間(1781-89)に本書の編纂を志し私的に資料を集めていたが、上申を重ねた結果、文化7年(1810)に幕府の事業となった。編纂にあたっては、国学者
写真(上)は橘の部分。
33 水馬掌録
- 屋代弘賢自筆 文政5(1822) 1冊 22.0×15.8cm <WA27-10>
文政5年の日記。毎日書き留められているわけではないが、5月から約半年の期間を収録。一年近くその死が伏せられた
34 弘仁歴運記考
- 平田篤胤自筆稿本 羽田野敬雄〔ほか〕校 〔天保7(1836)頃〕 1冊 24.7×17.4cm <WA18-27>
年ごとに公卿を列記した『弘仁歴運記』(弘仁2年(811)成立)の冒頭部分を、平田篤胤が考証、注釈した『弘仁歴運記考』の草稿本。巻頭に門人
本書は、篤胤の養嗣子
銅鐸の次行、写真右の草稿本の「同七年」が写真左の版本では「同十年」とある。 |
狩谷棭斎 (1775-1835)-
江戸の商人で学者。名は望之。求古楼などとも号した。江戸池之端で書肆青裳堂を営む高橋高敏の子として生れ、親戚の弘前藩御用達商人、津軽屋狩谷保古の養子となる。中国の古字書『説文解字』や日本の古代史、金石文などの研究を実証的に進め、居室も「実事求是書屋」と称していた。展示した『本朝度考八咫鏡説平田氏批攷弁』(35)の巻末にも「事ヲ実ニシテ是ヲ求メント思フノミ」と、学問への姿勢を記している。『本朝度量権衡攷』『和名類聚抄箋注』『古京遺文』などの著作がある。
「棭斎望之」肖像
(栗原信充自筆『肖像集』<寄別4-1-3-1>)
35 本朝度考八咫鏡説平田氏批攷弁
- 狩谷棭斎自筆 天保2(1831) 1冊 24.4×17.4cm <本別9-1>
表紙墨書書名は「本朝度攷平田篤胤比考弁」。古代の長さの単位について研究した狩谷棭斎の『本朝度攷』(『本朝度量権衡攷』の内)を批判した平田篤胤に対する、棭斎の反論。「考云」とあるのが『本朝度攷』の説()。貼紙に「篤云」等とあるのが篤胤の批判()。一段と低くなった部分が棭斎の弁駁である()。共通の友人屋代弘賢から『本朝度攷』を示された篤胤は、改めて『本朝度攷弁』を刊行して棭斎を激しく非難した。こうしたなかで、棭斎と篤胤の交友は途絶えたという。冑山文庫(根岸武香)旧蔵。
36 荀子
- 20巻(巻1,2欠) (唐)楊倞註 京都 葛西市郎兵衞 延享2(1745)刊 9冊 27.2×18.0cm <本別2-2>
書名は巻頭による。題簽書名は「荀子全書」。性悪説で有名な『荀子』の注釈書。朱筆の書き入れは、各冊末に「丁丑正月望以家蔵宋本比校 狩谷望之」(第7冊)等の棭斎自筆の識語が添えられていることから、文化14年(1817)正月に狩谷棭斎自ら、自身所蔵の宋版と対校したものと分かる。また、上欄には清の謝墉本との校註などを墨で記入し、巻末には異本を補写している。
37 輿車図考
- 松平定信自筆(詞書) 〔文化1(1804)〕 3軸 縦34.4-34.7cm <WA31-10>