論点

2 戦争放棄

1 ポツダム宣言の非軍事化原則とGHQの任務

1941(昭和16)年8月14日発表された大西洋憲章には、第二次世界大戦後において世界平和を回復するための指導原則として、民主的政治体制の確立と侵略国の非軍事化が示されていた。そして、4年後の1945年8月14日、日本が受諾したポツダム宣言にもまた、日本の「民主化」と「非軍事化」が規定され、そのうち、後者に関しては、軍国主義者の追放、戦争遂行能力の破砕、軍隊の完全武装解除、軍需産業の禁止などの措置が明記されていた。さらに、米国政府の「初期対日方針『初期対日方針』の解説にも、ポツダム宣言と同様、武装解除などの具体的措置を実施すべきことが、連合国最高司令官として日本占領政策の遂行にあたるマッカーサーに対して指示されていた。なお、マッカーサーに「情報」として伝えられた「日本の統治体制の改革(SWNCC228)『日本の統治体制の改革(SWNCC228)』の解説は、「政府の文民部門が軍部に優越するよう」憲法を改正すべきだとし、軍の存在を前提とする米国政府の考え方が示されていた。

2 明治憲法の軍規定改廃論と「憲法改正要綱」

終戦後、日本軍の武装解除はきわめて迅速に行われ、10月16日、マッカーサーは「本日、日本全土にわたって、日本軍の復員は完了し、もはや軍隊として存在しなくなった」との声明を発表した。この日本軍の解体という現実、軍が存在しないという事実は、明治憲法の軍規定の改廃論にも大きな影響を与えた。それは、法制局内部で、秘かに憲法改正問題に着手した入江俊郎の検討項目にも反映している(「終戦ト憲法『終戦ト憲法』の解説)。また、10月末に発足した政府の憲法問題調査委員会でも、(1)軍の解体という事実を踏まえ、「世界最初ノ平和国家非武装国家タラン」との立場から、明治憲法の軍規定を全面削除すべきだとする主張と、(2) 将来、「必要最小限度ノ国防力」の設置がありうることを想定し、必要な軍規定を残置したうえで、軍に対する議会の統制を強化すべきだとする主張とが鋭く対立した(「第9回調査会議事録『第9回調査会議事録』の解説)。そして、最終的には、(2)の主張が「憲法改正要綱『憲法改正要綱』の解説に採用され、1946(昭和21)年2月8日、GHQに提出された。

この政府部内における議論の対立は、憲法制定後の憲法第9条解釈に少なからず影響を与えた。

3 GHQ草案の起草と日本政府案の作成・公表

憲法第9条の原案は、「マッカーサーノート『マッカーサーノート』の解説(1946年2月3日)の第2原則に由来する。そこには、「自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。」と記されていた。しかし、この記述は、国際法上認められている自衛権行使まで憲法の明文で否定するものであり、不適当だとして、「GHQ草案『GHQ草案』の解説(2月13日手交)には取り込まれなかった。なお、試案『試案』の解説および原案『原案』の解説からは、第9条が、当初前文のなかに置かれ、次いで、第1条に移されていることが読みとれる。これは、平和主義の原則に世界の注目が集められることを望んだマッカーサーの意向を反映したものであった。しかし、後のGHQ草案では、天皇に敬意を表し、「天皇」の章が冒頭に置かれたため、条文番号は第8条となった(2月22日会見のGHQ側記録 『2月22日会見のGHQ側記録』の解説)。 日本政府は、GHQ草案をもとに日本国憲法を起草(「3月2日案『3月2日案』の解説)、GHQとの折衝を経て、初めて国民に示した(3月6日の「憲法改正草案要綱『憲法改正草案要綱』の解説」)後、4月17日、条文形式に整えた「憲法改正草案『憲法改正草案』の解説を公表した。そこでは、第9条について次のように規定されていた。

国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。 陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は、認められない。

法制局は、枢密院と帝国議会での審議に備えて想定問答を作成した。そこでは、第9条は全体として侵略、自衛を問わず、すべての戦争を放棄するが、「自衛権」に基づく「緊急避難」ないし「正当防衛」的行動までなし得ないわけではないと記されていた(「憲法改正草案に関する想定問答『憲法改正草案に関する想定問答』の解説)。

4 枢密院の審議と帝国議会における修正

枢密院の審議では、自衛権に基づく自衛行動の可否が問題となった。これについて、政府(松本国務大臣)は、「自衛といふ働き自体憲法で禁じられるものではない」と説いた(「枢密院委員会記録『枢密院委員会記録』の解説)。

帝国議会では、まず、衆議院の審議において、政府の提出した「帝国憲法改正案『帝国憲法改正案』の解説に示された表現では、日本がやむをえず戦争を放棄するような感じを与え、自主性に乏しいとの批判があったことから、第1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、……」との文言を追加、また、第2項も、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と改められた(衆議院修正可決「帝国憲法改正案」『衆議院修正可決「帝国憲法改正案」』の解説)。

とくに、第2項冒頭に、「前項の目的を達するため」という文言が挿入されたことで(修正案が協議された小委員会芦田均委員長名を冠して「芦田修正」と呼ばれる)、極東委員会GHQ内で、上記修正により、日本がdefense force(自衛力)を保持しうることが明確となった、との見解が浮上した(「極東委員会第27回総会議事録『極東委員会第27回総会議事録』の解説)。そこで、GHQは、極東委員会からの要請として、「国務大臣はすべてcivilians(文民)たることを要する」と日本政府に指示、貴族院の審議『貴族院の審議』の解説において、憲法第66条に文民規定が置かれることになった。しかし、芦田修正により、第2項冒頭に「前項の目的を達するため」という文言が入った後も、政府は、第1項が侵略戦争を否定するものであって、自衛戦争を否定するものではないが、第2項が戦力の保持および交戦権を否定する結果として、結局、自衛戦争をも行うことができないことになるとの解釈に特段の変化はないと考えた。

日本は、1950(昭和25)年、朝鮮戦争の勃発直後に警察予備隊を設置、1952年、保安隊への改組と警備隊の設置、そして、1954年には、自衛隊の創設と、その「実力」が「警察力」から「自衛力」へと強化されていくが、その過程で、憲法第9条の解釈をめぐって深刻な対立が生じた。また、東西冷戦終結後の1990年代以降、わが国を取りまく環境の変化により、憲法第9条の解釈・運用をめぐる問題は、国政上、重要な争点となり、現在に至っている。

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