第2章 近衛、政府の調査と民間案
近衛・佐々木案の奉答
1945(昭和20)年10月にはじめられた内大臣府による憲法調査は、近衛文麿の戦争責任、内大臣府による調査の憲法上の疑義などから、内外の世論の反発をまねいた。11月1日に、マッカーサーは近衛の憲法調査には関知しない旨を発表したが、近衛らはそのまま調査を続けた。
11月22日、近衛は「帝国憲法ノ改正ニ関シ考査シテ得タル結果ノ要綱」を天皇に奉答、同月24日、佐々木惣一もまた独自に「帝国憲法改正ノ必要」(日付は11月23日)を奉答した。
佐々木案が奉答された24日、内大臣府は廃止された。戦犯逮捕命令が発せられた近衛は、出頭を目前にした12月16日未明に服毒自殺をとげた。
松本委員会による「憲法改正要綱」の作成
一方、幣原内閣の憲法問題調査委員会(松本委員会)においては、当初、調査研究を主眼とし、憲法改正を目的としないとしていたものの、やがて「内外の情勢はまことに切実」との認識から、改正を視野に入れた調査へと転換を余儀なくされ、顧問・各委員が改正私案を作成した。松本委員長は、1945年12月8日、帝国議会における答弁のかたちで「松本四原則」として知られる憲法改正の基本方針を明らかにした。
1946(昭和21)年に入ると、松本委員長みずからも私案を作成した。この私案は、松本委員会のメンバーであった
宮沢俊義東大教授が要綱のかたちにまとめ、のちに松本自身の手が入って「憲法改正要綱」(甲案)となった。また大幅な改正案を用意すべきとの議論から、「憲法改正案」(乙案)もまとめられた。「憲法改正要綱」は、2月8日にGHQに提出された。
さまざまな民間草案
憲法草案要綱 憲法研究会案(1945年12月26日)
政府側が秘密裏に改正草案作りを進めていたころ、民間有識者のあいだでも憲法改正草案の作成が進行し、1945年末から翌春にかけて次々と公表された。その代表例が、1945年12月26日に発表された 憲法研究会の「憲法草案要綱」であった。これは、天皇の権限を国家的儀礼のみに限定し、主権在民、生存権、男女平等など、のちの日本国憲法の根幹となる基本原則を先取りするものであった。その内容には、GHQ内部で憲法改正の予備的研究を進めていたスタッフも強い関心を寄せた。
1946年になると、各政党ともあいついで改正草案を発表した。自由党案と進歩党案はともに、明治憲法の根本は変えずに多少の変更を加えるものであったのに対して、共産党案は天皇制の廃止と人民主権を主張し、社会党案は国民の生存権を打ちだした点に特徴があった。
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