第3章 箏曲を築いた人々

奈良時代に伝来した箏は、時代とともに様々な箏曲を奏でてきました。特に近世以降、優れた音楽家の登場とともに、箏曲は大きく花開きます。第3章では、箏曲の発展に尽力した箏曲家を紹介します。

八橋検校―箏曲に吹く新しい風―

近世箏曲の始まりは、江戸時代前期の音楽家八橋検校にあります。
八橋の生国については諸説ありますが、『筝曲大意抄』【特56-643】によると磐城(現在の福島県)に生まれ、幼い頃より目が不自由だったため当道(後述)に所属し芸事に従事していました。
はじめは大坂で三味線の名手として名を馳せていましたが、江戸で筑紫箏曲創始者賢順の弟子で箏曲奏者の法水(ほっすい)(生没年不詳)と出会い、箏を学びます。『糸竹初心集』(『近代歌謡集』【517-116】)に三味線から箏への転向を示す記述があります 。

職人尽絵詞
箏・三味線屋の様子。江戸時代には多くの箏屋ができた。

7) 藤本箕山『色道大鏡』【午-12】

色道大鏡

色道大鏡

琴(箏)の項(赤枠は全て八橋検校を指す名前である。)

『色道大鏡』は、俳人藤本箕山(きざん)(1626-1704)が30年にもわたり全国を歩き集めた資料を基に著した江戸時代前期の遊里に関する百科全書です。本書巻第七「翫器(がんき)部」では、三味線・箏・尺八の歴史について妙手の遊女にふれながら述べています。

藤本の屋敷に八橋が寄寓(きぐう)していた縁もあり、八橋についての記述があります。
箏の項では、八橋が江戸で筑紫箏曲を弾き始めてから箏曲を発展させていくまでの様子が書かれています。八橋は、当道官位の変化とともに、改名を繰り返しており、本書の中では様々な名で呼ばれています。
また、他項から、八橋が柳川検校(?-1680:地歌三味線「柳川流」の祖)と並び称される三味線の名手であり、三味線の一流派を立てるまで至ったことや、胡弓の改良を行ったことなど多才な人であったこともわかります。

八橋の三味線から箏への転向は箏曲の歴史を変えました。
筑紫箏曲から箏伴奏の歌曲「組歌」を13曲再編し、民間箏曲をもとに「段物」と呼ばれる器楽曲を作りました。以降、組歌と段物が箏曲の中心となります。『北窓瑣談(ほくそうさだん)』(『東西遊記・北窓瑣談』【514-28】)には、八橋の組歌についての説明があります。また、八橋は筑紫箏曲を「俗耳に遠し(庶民には馴染まない優雅な曲調である)」(『琴曲抄』(『いわき史料集成』第1冊【GC37-E38】))と感じ、庶民にも親しみやすいように「平調子」と呼ばれる陰音階の調弦法を考案しました。このほか演奏技法の整理など、芸術音楽としての箏曲を確立します。八橋の活躍もあり、箏曲は当道の専業音楽となり発展していきます。

「当道」とは、盲人の自治組織のことです。琵琶法師と呼ばれた盲目の僧たちが座を構成したことからはじまり、室町・江戸両幕府のもと保護されてきました。音楽集団として、三味線・箏・胡弓を中心に当道音楽を成立させてきましたが、音楽以外にも鍼・灸・按摩の医療行為や金貸まで行っていました。

北斎漫画
琵琶を弾く検校

当道によって箏曲は現代まで発展し伝承されたと言っても過言ではありません。八橋検校の「検校」とは、この当道内で「検校」「別当」「勾当」「座頭」と分けられた官位の一つであり、組織の最高官を指します。明治維新とともに組織は解体されましたが、検校などの階級名はその後も箏曲団体から発行されることがありました。

[人倫訓蒙図彙]
検校についての項

8) 『三代関』【834-37】

三代関
八橋検校についての記録

三代関
生田検校についての記録

新しく検校となった者の名を掲げて、所属流派、登録年月日、師匠・大師匠の名という三代にわたる師弟関係を明らかにした任官記録書です。慶長8(1603)年から安永6(1777)年までの検校の記録があります。八橋の記録からは以下のことがわかります。

  • 妙門派に所属していること
  • 名を「城(じょう)だん」ということ
  • 寛永16年11月11日に登録されていること
  • 寺尾城ゐんを師匠とし、小倉城ちんを大師匠とすること

なお、ここでいう師弟関係と箏などの技芸の師弟関係は必ずしも一致しません。技芸修得に関しては、弟子がほかの師匠から学ぶことを許されていたからです。

検校の任官記録書としては、『表控』【834-23】(山田検校の記録など)や『座下控(ざしたひかえ)』【834-23】もあります。

生田検校・山田検校―2つの流派の繁栄―

八橋以降、箏曲には多数の流派が起こります。津軽や沖縄といった地方独特の流れを除くと、「生田流」と「山田流」という2つの流派系統に分けることができます。どちらも八橋の箏曲から発展していますが、演奏様式などに異なる部分もあります。ここでは、両流派の流祖と言われている生田検校(1656-1715)と山田検校(1757-1817)について見ていきましょう。

京都の生田―繁る生田の森―

生田検校は、八橋の孫弟子にあたり、江戸時代の中頃に生田流を名乗ったといわれています。一大流派の祖としては謎が多く、師の北島検校(?-1690)が流派創始を志しながらも早くに没したため、その意思を継いだ生田が流派を起こしたとも言い伝えられています。作曲家としてもはっきりとした経歴はわからず、数少ない代表曲(「思川(おもいがわ)」、「五段」)も師の北島作という説もあるほどです。『京羽二重』【198-33】では、七老(十老から一老まである検校の位階の一つ)に記されています。
生田は、三味線を伴奏とする声楽曲の地歌に箏曲を組み合わせて合奏形式の地歌系箏曲を作りました。三味線との演奏に対応するため、新たな奏法や調弦も考案したといわれます。ただし、この頃の合奏は、箏を三味線の旋律に同じ音またはオクターブで重ねて演奏したにすぎず、その後箏曲とともに発展していきます。

團扇繪づくし
三曲合奏の様子

江戸の山田―栄える山田の稲―

生田流から後れること約100年、江戸時代後期の江戸で山田検校を始祖として山田流は起こりました。当時の箏曲は、京都大坂を中心に発展しており、江戸にはあまり普及していませんでした。そこで山田は、江戸の人々の嗜好を加味した歌を主とする箏曲を作りました。江戸で流行していた浄瑠璃や長唄、能の謡を参考に曲は作られており、江戸を中心に絶大な人気を博しました。
その人気ぶりは、文学作品からも読み取れます。

式亭三馬(1776-1822)の滑稽本『諢話浮世風呂(おどけばなしうきよぶろ)』【特11-416】では、女性たちの山田の歌を賞賛する会話や山田流の免状を取ったという娘の話が登場します。
山東京伝(1769-1858)の随筆『蛛乃糸巻』【WA19-3】には、山田流の隆興について述べた文章があります。八橋、生田、山田各時代の箏曲の変化を風になぞらえたり、生田の森の葉は落ちてしまったが山田の稲は栄えていると生田流と山田流の盛衰を表したりと、箏曲の移り変わりを自然に例えて表現しています。
さらに、松浦静山(1760-1841)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』【6-95】では、松浦が和歌は古くは歌うものであったのに対し、今はただ詠むだけになっていることを憂いて山田に相談すると、山田が和歌用の旋律と箏曲を作ってくれたという話が紹介されています。

蛛乃糸巻
山田流の隆興について述べた「琴曲変格の項」

明治時代の箏曲家たち

明治時代になると、明治4(1871)年に当道が解体し、また、西洋文化を取り入れた音楽教育への見直しなどが起こり、箏曲界は大きな転機を迎えます。
箏曲界の混乱期ともいえるこの時代、箏曲家たちは各地でそれぞれの伝承活動を行いました。大阪では、明治8(1875)年に地歌業仲間が結成されると、三味線から離れた箏伴奏だけの「明治新曲」と呼ばれる新しい歌曲が、菊高検校(1838?-1888)・菊塚与一(1846-1909)を中心に作曲されます。京都では、明治11(1878)年に京都盲啞(もうあ)院および同院の教員を中心とした京都当道会が設立され、伝統に基づいた明治新曲が作られます。そのほか、名古屋で小松景和(1847-1915)を中心に国風音楽講習所が設立されるなどしています。西洋音楽や中国音楽の影響から、新しい調弦や明朗で活気あふれる曲が流行しました。
東京では、文部省が明治12(1879)年に音楽取調掛(音楽教育の研究、音楽教師の育成のための機関)を設置すると、山田流の初世山勢松韻(しょういん)(1845-1908)らがその職に就きました。彼らは基礎的な箏曲を五線譜化した『箏曲集』【16-41】を刊行します。

月琴楽譜
月琴や清笛などの中国楽器。
中国楽器を使用した明るい音楽が明治時代に流行した。

9) 文部省音楽取調掛編『箏曲集』文部省編集局,明治21【16-41】

箏曲集
英語の表紙

箏曲集
五線譜楽譜「姫松」

明治21(1888)年に、文部省音楽取調掛によって編集された箏曲楽譜集です。五線譜の箏曲集としては最初の刊行本となり、箏の入門書として使われていました。日本語の表紙から始まる歌詞ページと英語の表紙から始まる五線譜ページがあります。
江戸時代に作られた曲も収録されていますが、伝統音楽の歌詞曲節を改良して普及させることを目的とした事業の一環として作られていることもあり、歌詞を変更させられた曲もあります。例えば、1曲目の「姫松」は『糸竹初心集』にも載っている「岡崎」(『近代歌謡集』【517-116】)の替え歌です。

また、明治時代後期には、鈴木鼓村(こそん)(1875-1931)が雅楽の箏の奏法に新しく工夫を加えた京極流を創始しました。

宮城道雄―近代化する箏曲―

新しい音楽の息吹が感じられた明治時代に宮城道雄は誕生します。14歳で処女作「水の変態」を発表した宮城は、当時の内閣総理大臣伊藤博文(1841-1909)からもその才能を評価されていました。22歳の時には箏曲団体から「大検校」の称号を与えられ、斯界の最高位に昇ります。そして、大正8(1919)年の「宮城道雄自作箏曲第一回演奏会」を皮切りに、次々と西洋音楽の要素を持った箏曲を発表します。発表当初、宮城の作品は洋楽系作曲家や文壇の人々からは好評を得ましたが、邦楽界からは多くの酷評を浴びました。しかし、その後も新しい音楽を探究し続け、「春の海」(第1章参照)などの名曲を作り上げました。こうした宮城を中心とする新しい邦楽を模索する動きは「新日本音楽」と呼ばれています。
宮城は友人でもある小説家内田百閒(1889-1971)からの勧めもあり、『夢乃姿』【914.6-Mi734ウ】などの随筆を多く遺しています。また、内田の『百鬼園随筆』【645-121】や尺八家吉田晴風(1891-1950)『晴風随筆』【768.15-Y86ウ】 など、友人達の随筆の中にも宮城について書かれているものがあります。音楽評論家堀内敬三(1897-1983)が宮城の随筆集『雨の念仏』【619-281】について、「盲人の精神的な世界が宮城さんの鋭敏な感受性と明るい人生観とに色づけられて展開されるのだ。近来これほど面白く珍らしく楽しく読んだ本は無い」と感想を寄せていることが、『騒音』【696-135】で紹介されています。これらの著作からは、宮城の繊細かつ豊かな感性だけでなく、その人柄や作曲の様子をも垣間見ることができます。

夢乃姿
宮城道雄
 

日本学校唱歌大全
教科書読本に載っていた『水の変態』の和歌。
この和歌に着想を得て箏曲『水の変態』は作られた。

日本学校唱歌大全

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おわりに・参考文献



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