当館のデータベース「歴史的音源」では、国内で製造されたSP盤などに録音された様々なジャンルの音源をお楽しみいただけます。第1章では、「歴史的音源」を用いて、箏曲をご紹介します。
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お正月に必ずどこかで耳にする有名な曲といえば、宮城道雄(みやぎみちお)(1894-1956)の「春の海」です。箏と尺八の出だし部分は、箏曲を普段聞かない方にもなじみが深い旋律ではないでしょうか。
1) 『春の海』宮城道雄[作曲],宮城道雄[箏],吉田晴風よしだせいふう[尺八] ビクター,1930.12(商品番号13106)
『春の海』(一)(二)(歴史的音源)
この曲は、昭和5(1930)年の宮中の歌会始の勅題「海辺巌(かいへんのいわお)」にちなんで、尺八と箏の二重奏として作曲されました。
作曲者の宮城道雄が「瀬戸内海の島々がモデルであり、長閑な波の音や、船の艪(ろ)を漕ぐ音、鳥の声などを織り込んだ」と述べているとおり、始まり部分では、ゆるやかな波が寄せては返す様子が表現されていたり、尺八が舟唄風ののどかな旋律を歌っていたりと、瀬戸内の美しい海の情景が思い起こされます。
発表当初は、それほど注目されてはいませんでしたが、昭和7(1932)年に来日したフランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメー(Renée Chemet, 1888-?)がこの曲を気に入り、尺八パートをヴァイオリンに編曲、その後日比谷公会堂で宮城と共演しました。この演奏会の様子は、川端康成の小説『化粧と口笛』【643-56】にも登場します。演奏会は大好評を博し、さらに海外でもレコードが発売され、一躍世界中で知られる箏曲になりました。
箏曲のジャンルの一つに、「段物(だんもの)」あるいは「調べ物」といわれるものがあります。もともとは組歌(関連性のない短い詞章を組み合わせて一曲とする形式)の付物(つけもの)、すなわち付随曲として作られたものでした。段と呼ばれる短い楽章からなり、各段が52拍子(五線譜で表した場合は、四分の二拍子で52小節分)という同じ長さで構成されているため、テンポを合わせて、異なる段を自由に合奏して楽しむこともあったようです。
2) 『六段』八橋検校(やつはしけんぎょう)[作曲],宮城道雄[箏] ビクター(商品番号NK-3007)
『六段』(一)(二)(歴史的音源)
「六段の調べ」とも呼ばれるこの曲は、六つの段からなる段物の曲です。長い間、近世箏曲の祖である八橋検校(1614-1685)が作曲したと伝えられてきましたが、現在では、八橋が生まれる前から六段の原型といわれる曲が存在していたことがわかっており、正確な起源は不詳です。
冒頭部分(枠外の楽譜3~6小節目)を主題(テーマ)とし、この主題がだんだんに発展・変化していき、曲の旋律を導いています。
歌曲が多い古典曲の中では珍しく歌の付かない独奏曲であり、練習曲としての役割も大きかったため、箏曲を代表する曲の一つになりました。特に、初段の部分は、長唄の「助六」などの邦楽曲に借用されたり、山田流の「住吉」「ほととぎす」など、ほかの箏曲の中で替手(かえて)(装飾的な旋律)として使われることも多いようです。
技術的にはそれほど難しい曲ではありませんが、「箏は六段に始まり、六段で終わる」と言われるくらい奥が深く、初級者から上級者まで幅広く演奏される曲です。
現在では独奏曲のイメージが強い箏ですが、平安時代に貴族の間で盛んに歌われた歌曲「催馬楽(さいばら)」の伴奏にも用いられていたことからわかるとおり、もともとは歌と共に演奏されてきた楽器です。
八橋検校以降しばらくは、箏曲と言えば、組歌や段物を指していましたが、江戸時代中期には、地歌(三味線歌曲)と一緒に箏が合奏されるようになります。三味線と箏のほかに、第三の楽器として胡弓(こきゅう)や尺八が加わった「三曲合奏」もさかんに見られるようになりました。
また、江戸時代後期には、手事(歌の間に挿入される器楽だけの長い間奏)を入れるスタイルの曲も登場し、地歌と箏曲は共に発展していきました。
3) 『茶の湯音頭』横井也有[作詞], 菊岡検校[作曲],八重崎検校(箏手付)[作曲],荒木古童(三世)[尺八],福田きく[唄・三味線],河田登宇[箏] ビクター,1930.8(商品番号51298・51299)
『茶の湯音頭』(一)(二)(三)(四)(歴史的音源)
流派によっては「茶音頭」とも呼ばれているこの曲は、菊岡検校(1792-1847)が作曲した三味線曲に、八重崎検校(1776?-1848)が箏の手付(元の曲の旋律と異なる箏の旋律を付け加えること)をした地歌曲です。歌詞に茶道具や茶室、茶の産地などを織り込み、茶道の語を用いて男女の色恋を歌っています。
この歌の歌詞は「女手前」という古曲から抜粋して作られました。曲名に「音頭」が付くのは、歌詞の原曲である「女手前」が伊勢音頭に由来するためで、いわゆる「音頭形式」ではありません。
歌詞がお茶に関係するだけでなく、演奏時間が茶道のお点前にかかる時間とほぼ一致するとも言われており、お茶会のBGMとしても親しまれています。
地歌と共に流行りの三味線曲を取り入れて世に広められた箏でしたが、江戸時代後期頃には、次第に三味線の付属物という傾向が強くなっていきました。
この傾向を打破し、箏本来の形式に戻すために、箏曲の独立を図ろうという動きが出てきます。そのような中で作られた曲の一つが、「千鳥の曲」です。
4) 『千鳥の曲』吉沢検校(二世)[作曲],中島雅楽之都[琴・唄],倉川簫山[尺八] ビクター,1929.9(商品番号50873)
『千鳥の曲』(一)(二)(歴史的音源)
古くは雅楽との関係から始まった箏曲も、三味線や三味線音楽の影響を受けて大きく変化し、次第に雅楽から離れていきました。ところが、作曲者の吉沢検校(二世)(1807-1872)は、高尚で優雅な感じを表現するために、この曲に雅楽的な要素を取り入れようと考えます。雅楽曲に見られるフレーズやリズムを参考にし、それらを応用したモチーフを、曲中で使っています。
歌詞には、「古今和歌集」と「金葉和歌集」から千鳥に関する和歌を一首ずつ選んで前唄・後唄とし、手事も波や千鳥の飛び交う様子を表す曲調となっています。単に千鳥が出てくる和歌を選んだだけかもしれませんが、めでたい賀歌である前唄と、わびしい情景を読んだ後唄の対比が特徴的な曲です。
<前唄>
しほの山 さしでの磯に住む千鳥 君が御代をば 八千代とぞなく
(塩の山附近の差出の磯に住む千鳥までも、君の歳は八千代の久しきに亘ると鳴くのです。)
<後唄>
淡路島 通う千鳥の鳴く声に 幾世寝ざめぬ 須磨の関守
(淡路島に通う千鳥の鳴く声のその淋しい声によって、須磨の関所の番人は、幾夜目を覚ましたことでしょう。)
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絵図に見る近世までの日本の箏