駒ごとに動きの異なる将棋やチェスと違い、囲碁は石を盤上のどこに置いても良いことから、誰でもすぐに対局することはできます(囲碁の道具の紹介やルールの説明は、日本棋院ホームページ「楽しい囲碁入門」で閲覧できます)。しかし、上達を志す人のために、解説書、指南書、棋譜集、詰碁集などこれまでに数多くの本が出版されてきました。国立国会図書館では、国内外の様々な囲碁に関する本を所蔵しています。その中で代表的なものを紹介しますので、ぜひ皆さんもこれらの本を読んで勉強してみてください。
現存するもので世界最古といわれている囲碁の解説書は、北宋(960-1127)の『忘憂清楽集』(中国語【KD949-C2】、日本語訳【KD949-H44】)です。本書に収められている徽宗(きそう)御製の詩のうちの「忘憂清楽在枰棊(憂いを忘れる清い楽しみは囲碁である)」という句からタイトルがつけられました。そして二番目に古いといわれている『玄玄碁経』は、中国元代の至正9(1349)年にまとめられたといわれています(元代の刊本は国立公文書館で所蔵されています)。囲碁の哲学が語られる序文と、定石や詰碁などから成っています。『玄玄碁経』は、日本でも改編されながらたびたび翻訳出版されました。当館では、宝暦3(1753)年の『玄玄棊経俚諺抄(げんげんごきょうりげんしょう)』3巻【106-110】や、これを元にし、囲碁棋士の雁金準一、関源吉(1856-1925)の意見に基づいて図が改められた大正2(1913)年の『玄々棊経』【249-118】などを所蔵しています。
日本で最古の囲碁の解説書といわれているのは、醍醐天皇が寛蓮(第1章参照)に命じて献上させた『碁式』ですが、伝本はありません。『群書類従』【081.5-G95-Hk(s)】に収められた「囲碁口傳」がその内容の一部を転載したものといわれています(『綜合囲碁講座 別巻』【795-So626】)。「囲碁口傳」は、正治元(1199)年に僧の玄尊(生没年不詳)によって編述されました。対局のコツや、先人から伝わってきた囲碁の本質を表すような言葉が記されています。例えば、ハンデなしの対局をする場合には、四方に目を配って慎重に間違いを見つけなさい、相手にハンデをつけて対局する場合は、あちこちに石をまいておいて後にそれを利用して戦いなさい、と現在の碁の指南書にも見られるようなことが書かれています。
同じく『群書類従』に収められた玄尊による「囲碁式」には、落ち着いた場所に畳を並べ敷いて立派な碁盤と石を置くこと、と特別な碁会の際の準備から、強い相手と対局するときは、前日の夜はよく眠るべきである、酒はとくに慎み、鹿の肉を食べることなどは避けるべきであるという対局にあたっての体調の整え方、負けそうもない敵に負けることがあっても、年のせいにしてはならないなど、耳が痛くなるような心得まで事細かに記されています。
9) 井上因碩;本因坊秀哉 校『囲碁珍瓏(ちんろう)発陽論』大野万歳館,大正3【202-323】
本書は詰碁集ですが、その難解さで有名です。
著者の井上因碩(いんせき)は、囲碁の家元である井上家の4代目です。井上家では、2代目から代々井上因碩を名乗るようになったことから、本因坊秀哉による緒言には「第三世井上因碩」と記されています。元禄10(1697)年に51歳で井上因碩を襲名し、享保4(1719)年に亡くなるまで家元の地位にありました。
原本は正徳3(1713)年、因碩が68歳のときに完成したものの、井上家の門外不出の書とされ、門下生でも容易に見ることができなかったようです。井上家が火災にあった際に焼失してしまいますが、写本が残っていたため、そこから復刻されたのが本書です。しかし、後に、井上家に古版本として伝わったものが囲碁文献の収集家荒木直弼の弟である荒木威の元に所蔵されていることが判明し、それを復刻したものに藤沢秀行の解説がつけられ、平凡社の「東洋文庫」シリーズから出版されています(『囲碁発陽論』【KD949-105】)。この原本を元に復刻したものと比べると、本書には原本になかった図が加えられていることが分かります。その多くが『玄玄碁経』から引用されているもののようです。
昭和の囲碁棋士である長谷川章は『囲碁の友』【Z795.05-I5】において、1951年6月から12月にかけて、「発陽論について」という連載をしています。連載第一回の記事の冒頭には、「其規模の雄大な事、着想の非凡にして深遠なことは、只々驚く計りであり」とあります。
戦後もたびたび再刊されるなど、根強い人気を誇っています。
明治時代になると、来日した外国人の中に囲碁に関心を持つ者もいました。その中の一人、ドイツ人化学者のオスカー・コルシェルト(Oskar Korschelt, 1853-1940)は、本因坊秀甫(第2章参照)の元で囲碁に親しみ、1880年にドイツ東洋文化協会の会報であるMitteilungen der Deutschen Gesellschaft für Natur und Völkerkunde Ostasien(公益社団法人オーアーゲー・ドイツ東洋文化研究協会ホームページ)に、囲碁のルールについての記事を執筆しました(当時の記事が、Das "Go"-Spiel【KD949-24】にまとめられています)。この記事は、欧米諸国で参照されました。
1908年にはこれを元にしながら新しい情報を加えて英語で書かれたThe game of go, the national game of Japan【Ba-239】が米国で刊行されました。
日本の囲碁を紹介する本書は、囲碁のルールや具体的な戦略を、そして定石について図を交えながら詳細に説明しています。日本の囲碁について紹介した初めての英語の本です。
序文には、“Go uchi wa oya no shini me ni mo awanu(碁打ちは親の死に目にもあわぬ)” の格言が記されています。さらに、米国でなじみのあるチェスと囲碁を比較しながら、囲碁の魅力が語られています。例えば、チェスはキングを中心にゲームが展開し、キングの勝敗がそのままゲームの勝敗につながりますが、囲碁は盤上のいろんな場所で戦いが繰り広げられ、全体の動きが勝負を決めます。また、囲碁特有の魅力として、勝敗が一気に逆転しうる”Ko(劫(こう))”があり、チェスにない長所として、最初に黒石を置くことで、ハンデを簡単に、そして適切につけられることが挙げられています。
著者の アーサー・スミス(Arthur Smith, 1870-1929)は、米国在住の日本人「ナカムラモキチ」から囲碁を習ったと書いており、本書の読者に対し、囲碁の上達には日本人の友人を見つけて日本の囲碁関連の文献を提供してもらうことを提案しています。
また、コルシェルトの記事は、ドイツ語からの英訳として1965年にThe theory and practice of Go【794.2-K84t】が英国で刊行されました。
囲碁の対局の手順を記したものを棋譜といいます。現存する棋譜で、日本最古のものは、建長5(1253)年に日蓮(1222-1282)と弟子の吉祥丸(日朗とも。1245-1320)が対局したときのものといわれており、文政12(1829)年の『古棋』に掲載されています。この『古棋』には、武田信玄(1521-1573)と高坂弾正(1527-1578)の対局の棋譜も収録されていますが、ともに偽作の疑いがあるとされています。
当館で所蔵している資料の中には、次のような棋譜があります。
天正10(1582)年6月1日、本能寺の変の前夜に、織田信長(1534-1582)の前で打たれたといわれている対局の棋譜です。前節のThe game of go, the national game of Japan では、チェスにはない囲碁独特の劫について触れられていましたが、本能寺の変の前夜の対局には、この劫が一つの局面に三つ現われたといわれ、それ以来、三劫は凶兆とされるようになりました。
しかしながら、この棋譜では三劫が現われそうにはなく、これは偽作ともその晩に打たれた別の対局の棋譜ではないかともいわれています(水口藤雄『囲碁の文化誌』【KD949-G321】、林元美『爛柯堂棋話』1【KD949-57】)。林元美の『碁経連珠』【795-H365g3】には対局者の名として、初代本因坊算砂(1558-1623)と鹿塩利賢と記載され、同じく林元美の『爛柯堂棊話』には、本因坊、利玄坊と記載されています。
明治16(1883)年11月8日の『郵便報知新聞』に徳川家光(1604-1651)のものといわれている棋譜が掲載されています。対局相手の名は「伊達正宗」と書かれていますが、「政宗卿は徳川始祖の遺嘱を受け治国の補缺を諾する宿将なれば将軍を視る猶ほ我家の兒孫の如く」とあり、伊達政宗(1567-1636)を指していると思われます。寛永6(1629)年9月の対局で、家光の勝ちとあります。
大政奉還後の徳川慶喜(1837-1913)は、自転車、写真、謡曲など、様々な趣味を楽しみ余生を過ごしたといわれていますが、その趣味の一つに囲碁がありました。慶喜の棋譜が残っています。相手は、囲碁棋士の高崎泰策(1839-1907)です。
小説『天地明察』【KH644-J52】の主人公・渋川春海(安井算哲。1639-1715)の棋譜です。寛文10(1670)年10月17日に、江戸城で打たれたものです。
長い囲碁の歴史の中で、徐々に、一手目は星(端から4線が交差する点)付近に置くことが多くなってきたのですが、この対局では、春海が一手目を中央に打ちました。この中央を「天元」と呼びます。春海は、貞享暦という暦をつくったことで知られているとおり、天文学に明るく、天文学から工夫して編み出した手です。しかし、この対局で9目負け、以降はそれを試すことはなくなりました(『綜合囲碁講座 別巻』【795-So626】)。
文久元(1861)年9月3日の本因坊秀策(1829-1862)と村瀬秀甫(第2章参照)の棋譜には、「夜通翌朝終ル」とあります。白石をもった秀策が一目の差で負けますが、秀甫は「本局の白は布石の初頭より繊細緻密、一手の怠慢手も見当たらない」と記し、この対局は「秀策白の名局」と称されるようになります。秀策と秀甫の対局は、文久元(1861)年11月7日を最後にし、翌年に秀策はコレラで急逝します。
一方で秀甫は、中江兆民の遺書ともいわれている『一年有半』【91-117】の中で、「余近代に於いて非凡人を精選して、三十一人を得たり」と、坂本龍馬や大久保利通、北里柴三郎らと並んで非凡人として名が挙げられています。
『古碁枢機』は、本因坊11世の元丈(1775-1832)が記したあとがきによれば、初代算砂以来、本因坊家に伝わってきた棋譜を記録したものです。林利玄(1565?-?)、中村道碩(1582-1630)など、本因坊初代算砂と同時代を生きた碁打ちたちとの対局の棋譜から、18世紀中ごろまでの棋譜が記録されています。もとは文政5(1822)年の出版で、ここで紹介しているものは明治年間の復刻版です。
10) 石谷広策編『敲玉余韻』石谷広策,明治30【108-28】
本因坊秀策の打碁100局を集めた本書は、秀策の35年忌にあたって編纂・出版されました。「耳赤の一手」として知られる、弘化3(1846)年の秀策と11世井上因碩(1798-1859)との対局の棋譜も収録されています。
著者の石谷広策(本名は広二。1818-1906)は、古くから囲碁が盛んな安芸(現在の広島県)の能美島で生まれました。江戸に遊学し、13世本因坊丈策(1803-1847)に入門しますが、そこには9歳年下の桑原秀策(のちの本因坊秀策)が先に学んでいました。広策は、帰郷してからは地域の囲碁振興につとめますが、秀策との親交は続きます。
冒頭に掲げられている「囲棋十訣」の揮毫は、安政4(1857)年秀策が帰郷した際に、広策と対局した折に与えたものです。晋の王積薪(第1章参照)による格言といわれ、『玄玄碁経』にも収められています。
不得貪勝(貪り勝とうとしてはならない)
入界宜緩(敵の境界に入るには穏やかであれ)
攻彼顧我(敵を攻めるには味方をかえりみよ)
棄子争先(石を棄てて先手を争え)
捨小就大(小を捨てて大に就け)
逢危須棄(危険になれば棄てることが大事である)
慎勿軽速(足ばやでありすぎないようつつしめ)
動須相応(敵が動けば対応しなければならない)
彼強自保(敵が強ければ自らを保て)
勢弧取和(勢力が孤立しているときは和をとれ)
石谷広策には、ほかに秀策の棋譜を集めた『秀策口訣棋譜』【187-336】もあり、そこで「先師碁聖秀策」と書かれたことが、秀策を碁聖と呼ぶ発端となりました。
瀬越囲碁文庫は囲碁の普及に大きく貢献した瀬越憲作の旧蔵書です。
瀬越は、明治41(1908)年に方円社に入り、本因坊秀哉に連勝するなどの功績を遺した、大正から昭和を代表する棋士です。秀哉らと日本棋院創立に貢献しました。古碁譜の収集や刊行にも尽力し、瀬越が編集した『御城碁譜』【W431-13】や『明治碁譜』【795-Se114m】が高く評価されています。
昭和38(1963)年に、『明治碁譜』の編集助手であった松井明夫を仲介に、蔵書が当館に寄贈されることになりました。その中には、第2章で紹介した『爛柯堂棊話』【795-H365r】や、明治末期から約半世紀の間、「碁道に於ける唯一の歴史書」として扱われた『坐隠談叢(ざいんだんそう)』【795-A495z】(安藤如意 原著 ; 渡辺英夫 改補『坐隠談叢 囲碁全史』新編増補【795-A495z-W(h)】)のような資料があります。
瀬越囲碁文庫の目録は、リサーチ・ナビ「瀬越囲碁文庫」をご覧ください。
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おわりに・参考文献