第3章 科学の眼横文字との格闘
宇田川玄随(うだがわ げんずい) 1755‐1797
津山藩医。名は晋、号は槐園。家業の漢方医学を修めるが、25歳の時に桂川甫周・大槻玄沢の説を聞き、蘭学を学ぶ。玄沢の門に入り、さらに杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らに就いて蘭学を修めた。訳書『西説内科撰要』は、オランダ内科説を日本に紹介した最初のもの。西洋医学が外科のみならず内科にもすぐれていることを広く知らしめた。
30 西洋内科撰要(『宇氏秘笈』のうち)ゴルテル著 宇田川玄随訳〔寛政年間(1789-1801)頃〕写【WA21-14】
玄随はゴルテルの内科書(Johannes de Gorter: Gezuiverde geneeskonst, of kort onderwys der meeste inwendige ziekten, Amsterdam, 1744)を翻訳し、寛政5(1793)年から文化5(1808)年に『西説内科撰要』として出版した。掲載資料はその草稿。原書は桂川甫周所蔵。和綴じの罫紙を横にしてオランダ語の原文と訳語を記す。胡粉で修正した部分も見られ、刊本(早稲田大学図書館古典籍総合データベース(文庫08 C0026))と比較すると、訳文ができあがるまでの苦心が見て取れる。なお、刊本はのちに宇田川玄真・藤井方亭による増補重訂版も作られ、初版で「哥爾都(コウルツ)」となっていた部分を「熱病」と改めるなど、よりわかりやすい文章になっている。
吉雄如淵(よしお じょえん) 1785‐1833
長崎のオランダ通詞。通称権之助。前野良沢、杉田玄白とも交流があった通詞・医師の吉雄耕牛の子。通詞出身の蘭学者中野柳圃(志筑忠雄)に師事。オランダ商館長ドゥーフについてフランス語を、オランダ商館の荷役係でのちに商館長になったコック・ブロンホフについて英語を学び、ドゥーフとともに蘭日辞典(いわゆる『ヅーフ・ハルマ』早稲田大学図書館古典籍総合データベース)の編集にあたった。シーボルトが長崎の鳴滝塾で診療と教授を行った際には、通訳を務め、また、オランダ語を伊藤圭介、高野長英らの塾生に教授した。
31 英吉利文話之凡例 2巻 ロバート・モリソン著 吉雄如淵増補・写〔江戸後期〕【特7-47】
31関連資料:A grammar of the English language for the use of the Anglo-Chinese College / Robert Morrison, Macao, East India Company’s Press, 1823 (復刻 鄭州 大象出版社 2008)【KK27-C99】
従来は如淵の著作と思われていたが、実は、中国本土最初のプロテスタント伝道者であるイギリス人ロバート・モリソン著の中国人向けの英語学習書(31関連資料)に、如淵がオランダ語対訳、日本語の注記などを加えて写したもの。日本における英語研究の初期の例で、オランダ語と中国語とを媒介に行われていたことは興味深い。なお、掲載資料は文政10(1827)年長崎の鳴滝塾でオランダ語を学んでいた伊藤圭介に、寄宿先の如淵が与えたもの。
西村茂樹(にしむら しげき) 1828‐1902
思想家。父は佐倉藩士。少年期より儒学・砲術を、のちには蘭学・英学を学ぶ。維新後、明治6(1873)年文部省に出仕。明六社(明治六年に結成された学術啓蒙団体)創設にも中心的役割を果たす。政府の欧化傾向に対し国民道徳の回復を訴え、明治9(1876)年東京修身学社を設立(のちに日本講道会、日本弘道会と改称)。『日本道徳論』などを発表、日本弘道会会長として儒教中心・皇室尊重の国民道徳の普及に努めた。当館では西村の自筆本など86点206冊を所蔵する。
32 英粤字典 チャーマーズ著 西村茂樹写〔江戸末期〕【827-128】
英語-広東語辞典の写し。原書(32関連資料)にはない西村による朱字の( )は、南方中国語音によって英語の発音を示す(例:「Add」の部分の「(壓)」(圧)は広東語音で「aat」。現代の標準語の普通話(北京語)では「ya」)。西村の自叙伝『往事録』に、文久元(1861)年から蘭学・英学を学び「寸暇あれば西洋の辞書を謄写して後日の準備となせり」「此時世人洋学を悪む者多きを以て、是を学ぶは尤も内密にせざるべからず、其上辞書を始として書類甚乏しく、実に無益の労力を為したり」とある。