第1章 為政者とその周辺実務家たち
大田南畝(おおた なんぽ) 1749-1823
江戸時代後期の幕府御家人。通称直次郎。南畝は号であり、別号に蜀山人がある。狂歌師、文人として知られるが、寛政6(1794)年の学問吟味(学術試験)で、御目見以下(将軍に拝謁できない身分)の部でトップ合格している。下級ではあるが幕府の役人。
5 銅座御用留〔享和元(1801)年〕【WA19-24】
享和元(1801)年、大坂銅座に赴任した南畝が授受した書類の記録。同年3月15日から12月晦日まで記載される。掲載箇所は、大坂東町奉行水野忠道に妾腹の男児が出生し産穢(出産による穢れを避けて仕事を慎む習慣)となる連絡(右)と、相続時の名義変更手続きをせずに銅を買下げた鳫金屋を「叱り置」く内容(左)である。
南畝の別号「蜀山人」は、大坂銅座赴任時代、幕府の役人であることをカモフラージュして遊興を楽しむために名乗ったもので、銅座の役人ゆえ、銅の別名「蜀山居士」にちなんだものである。
6 会計私記 文化元(1804)年【や-21】
文化元(1804)年長崎に赴任して、長崎会所の監察などを任務としていた南畝の公務日誌。11月7日から12月晦日までの記事がある。
南畝が赴任した時、ロシア使節レザノフが来航し、その対応が課題となっていたため、ロシア関係の記事に「○」がある。掲載した11月18日条に「使節へ通事名村太吉郎引合、名乗申候」とあるのは、レザノフとの会見の場面。長崎奉行所が建てたレザノフらのための宿舎を南畝が検視した時のことで、23日付の息子定吉宛の書簡によれば、レザノフは「大田直次郎」と声に出して頷き、「右の手を出し此方の右の手を握」ったという。
二宮尊徳(にのみや そんとく) 1787-1856
波子(なみこ) 1805-1871
幕末の農村復興運動の指導者。相模国足柄上郡(現神奈川県)の農家に生まれた。通称金次郎。没落した生家を再興した後、小田原藩、下野国桜町領(現栃木県真岡市)、相馬藩など各地の農村復興事業にあたった。復興策は「報徳仕法」と呼ばれ、具体的には領主の年貢徴収の抑制や農民の節約・貯蓄の推奨などであった。 尊徳の妻波子は、16歳で尊徳と結婚し、一男一女をもうけた。尊徳のもとを訪れる人びとの世話をするなど、2人の子供とともに、尊徳を支えた。
7-1 当座金銀米銭出入帳 天保7(1836)年【尊-大-132】
7-2 当座金銀米銭出入控帳 天保2(1831)年【尊-大-126-3】
桜町仕法(下野国桜町領の復興)時の出納帳。掲載した8月25日条には、甚右衛門という人物から5両余りの金が預けられたことが尊徳自筆で記されている。近江屋平兵衛との取引にあたり甚右衛門の口利きで出来た余剰金などであった。続く27日条は、「旦那様へさし上候」とあるとおり、尊徳の妻波子の筆跡とされる。甚太郎という人物から「御初米」3升が尊徳に差し出されたことが記されている。
下の画像は、尊徳の歌「勝負 打こゝろ あれはうたるゝ 世の中に うたぬこゝろの うたるゝはなし」で、帳面の表紙裏に記されている。
二宮尊徳関係資料
当館に寄託されている「二宮尊徳関係資料」は、昭和2(1927)年から昭和7(1932)年にかけて二宮尊徳偉業宣揚会が刊行した『二宮尊徳全集』の原本になった、二宮尊徳や嫡男尊行による報徳仕法の事業に関する資料などおよそ10,000点から成る。
尊徳の自筆資料で伝存するものは稀である。「二宮尊徳関係資料」も、ほとんどが門弟による写しや後代のものであるが、日記や金銭出納帳の一部に自筆資料数十冊が含まれていることが知られている。『二宮尊徳全集』では、「翁の自筆」「文政七年七月五日まで、武田才兵衛の執筆と認める」など、比較的細かい分析がなされている。
(参考)リサーチ・ナビ 二宮尊徳関係資料(寄託)
川路聖謨(かわじ としあきら) 1801-1868
佐登子(さとこ) 1803-1884
幕末、奈良奉行・勘定奉行などを務め、嘉永6(1853)年にはロシア使節プチャーチンとの交渉にもあたった幕臣。徳川斉昭とも近く、14代将軍の座をめぐる将軍継嗣問題では一橋慶喜を推したため、井伊直弼に疎まれ処罰された。のち、外国奉行となったが、幕府崩壊の際に自決した。
聖謨の妻佐登子は、美人・才女で、聖謨はプチャーチンに対して、「江戸にて一二を争ふ美人也」とノロケたという(氏家幹人『江戸奇人伝 旗本・川路家の人びと』【GK13-G936】)。
8-1 世情聞書〔元治元(1864)年頃〕【863-197】
聖謨が国内外の伝聞を記した覚書。掲載箇所は、イギリスでビクトリア女王が病院を見舞い、患者が感激した話。このほか、「ロンドン町奉行」の召捕数やイスパニヤ(スペイン)の国費などの記事もみえる。
8-2 川路佐登子日記 嘉永4(1851)年【863-197】
奈良奉行から大坂町奉行への転任で聖謨が一時江戸に戻った際、奈良から直接大坂に移った佐登子の日記。掲載した8月12日条には「大坂には江戸風の寿司があると聞くがまだ食べていない。昨日ご隠居様から切寿司を馳走されたので、蕎麦をさし上げた。殿様はうどんになさることが多いので召し上がらないだろう」などと記す。冒頭の数字は華氏の気温。華氏89度は摂氏32度にあたる。