第2章 著作をめぐって国学者
本居宣長(もとおり のりなが) 1730-1801
江戸時代後期の国学者。「源氏物語」などを研究していたが、明和元(1764)年賀茂真淵に入門した。30年余りをかけて執筆した主著『古事記伝』のほか、「もののあはれ」で知られる文学論や神話や神道の研究など、様々な分野にわたる多数の著作がある。
14 本居宣長誓詞(『宇計比言』下のうち)明和元(宝暦14 1764)年正月【WA18-25】
宣長が賀茂真淵に入門する際に納めた誓詞。祝詞などに使う文体である宣命体で、教えを他言しないこと、異心を持たないことを誓っている。
『宇計比言』には、橘千蔭(14関連資料)・荒木田久老など27人分の誓詞が収められている。原則として同一の文言で、最高級紙である檀紙を用いるが、宣長のものは「教賜」を「数賜」、「烏計非」を「烏計比」とし、通常の紙を用いている。理由は不明。
入門時の誓詞提出は通常のことだが、内容は師により異なる。木村蒹葭堂の「誓盟状」(第3章「科学の眼」24関連資料)と比較してご覧いただきたい。
14関連資料:橘千蔭誓詞(『宇計比言』上のうち)延享元(1744)年3月3日【WA18-25】
橘(加藤)千蔭の賀茂真淵に対する入門誓詞。後に提出されたとする説もある。本居宣長のものと筆跡は大きく異なるが、書かれている文言はほぼ同じである。
15 本居宣長書簡(『本居先生書翰』のうち)〔寛政10(1798)年2月〕(左)・〔同11(1799)年6月〕(右)【WA25-95】
宣長が、版木師で弟子でもある植松有信(忠兵衛)に宛てた書簡。『本居先生書翰』に収められた5通の宣長書簡のうちの2通。いずれも、宣長が有信に作成を依頼した『古事記伝』(15関連資料参照)の版下や版木などについて記されたもの。寛政10(1798)年の書簡(左)では、巻22について「板下早速にも出来不申候事に御座候はば、右原本一先御返し可被下候」と記し、寛政11(1799)年の書簡(右)でも「板下追々出来申候哉」と尋ねている。このほか、本書簡集には、『鈴屋集』の出版に関することや『古事記伝』の出版に尽力した横井千秋の病気に関することなどが記された書簡が貼り込まれている。
15関連資料:古事記伝(本居宣長自筆書入本)〔天明5-8(1785-1788)年〕【WA18-9】
上田秋成(うえだ あきなり) 1734-1809
江戸時代後期の国学者、俳人、歌人。古典の研究の一方、『雨月物語』や『春雨物語』を著した。本居宣長と論争し、煎茶愛好家としての木村蒹葭堂を酷評して「到る者水厄」(客に茶を無理に飲ませる)と記すなど、狷介な人柄であったが、大田南畝とは親しく、「善友」ではないものの「知己」であると記した(『茶瘕酔言』、『胆大小心録』)。
16 茶説〔文化5(1808)年頃〕【WA18-13】
秋成が茶を題材とした和歌について記した小文。和歌に音読みは用いないものだが、茶を「ちゃあ」と読むのは、音読みとは誰も思わないので問題ない。むしろ茶を「春の木のめ」と詠んだ和歌は失敗だったとする。そのうえで、自作の和歌とその説明を記し、芙蓉・菊など音読みのまま和歌に詠む例を示す。
この小文は秋成の『茶瘕酔言』にも収められている。「茶瘕」とは「茶の虫」のことで、書名は秋成が茶に酔って放言する意。茶について「酒に次て世に愛玩し、詩賦の興、和漢ともに盛也」と記すが、秋成自身は下戸で専ら煎茶を愛する人物であった。
平田篤胤(ひらた あつたね) 1776-1843
江戸時代後期の国学者。本居宣長の没後の門人を自称して、宣長の古道学の側面の後継者となり、尊王・復古の思想を主張した。その思想は門弟に引き継がれ、幕末期の尊王攘夷運動などに大きな影響を与えた。
17 平田篤胤手簡 〔天保初(1830)年頃〕【WA25-12】
篤胤が和学者屋代弘賢に送った書簡。屋代が和歌の意味を質問したのに対し、尊敬する本居宣長の和歌を紹介しつつ、「秀詠」ではないと記したもの。
ところで、この書簡は、代赭色(赤褐色のこと)の墨で記されている。これは、屋代の書簡を使いが持ってきた時、篤胤は代赭の筆で書き物をしており、筆を替えることなく、そのまま返書を認め、使いに渡したことによる。