第1章 為政者とその周辺江戸時代初期のブレーン
閑室元佶(かんしつ げんきつ) 1548-1612
臨済宗の僧侶。別号三要。足利学校の第9代庠主(校長のこと)。京都円光寺の開山となった。慶長4(1599)年以降、徳川家康の命により伏見版(木活字印刷による書籍として著名)を刊行する一方、慶長12(1607)年に朝鮮使節と将軍秀忠との会見に同席して応対にあたるなど、外交事務や寺社行政などにも関与した。
2 重撰倭漢皇統編年合運図〔要法寺〕〔慶長5(1600)年〕【WA7-12】
上代から慶長年間までの和漢対照年表。慶長5(1600)年半ばまでの記事が印刷された古活字版(桃山時代から江戸時代初期にかけての活字印刷本)。上巻末(掲載箇所)に「従将軍拝領之年代記二冊 閑室(花押)」と、下巻末に「年代記二冊之内 閑室(花押)」と元佶自筆の書入れがある。『円光寺由緒書』に「台徳院様年代記全部御手自三要に被下候」とあり、上述の「将軍」が徳川秀忠(台徳院)とわかる。
京都円光寺旧蔵書
円光寺開山となった閑室元佶および歴代住職の旧蔵書。漢籍とくに仏書などを中心におよそ400タイトル1,300冊から成る。旧帝国図書館が明治39(1906)年に購入した。
円光寺は慶長6(1601)年京都伏見に創建された臨済宗の寺院。徳川家康は元佶を信任し、前年の関ヶ原合戦で斬首された安国寺恵瓊の旧蔵書などを含む典籍200余部を与え、足利学校にならって円光寺に学校を設立させた。
当館の所蔵する円光寺旧蔵書は、元佶の旧蔵書、自筆稿本、書き入れ本が中心となるもので、家康・秀忠からの拝領本と推定されるものも少なくない。なかには、関ヶ原合戦時に、元佶が家康の陣中に持参したと推定される『七書』も含まれている。
林羅山(はやし らざん) 1583-1657
江戸時代初期の儒学者。藤原惺窩に師事し、徳川家康から家綱まで4代の将軍に仕え、侍講(主君に学問を教える人)を務めた。また、将軍の傍らにあって、儀式・典礼の調査、法律の制定、外交文書の起草などに従事した。明暦の大火(明暦3(1657)年)で蔵書を焼失し、火災の4日後に病死した。
3 本朝編年録〔江戸前期〕【WA17-9】
幕府の命を受けて羅山により作成された、漢文・編年体の日本通史。掲載資料は仁明天皇の承和元(834)年から同6(839)年にかけての部分。本書の内容を含め仁明天皇以降の部分は慶安3(1650)年に完成した。羅山は監修にあたり、部下が編集したとされる。羅山の四男林読耕斎旧蔵本。
掲載資料の末尾には羅山が慶長17(1612)年に作った「和賦」(掲載箇所)が付されており、羅山自筆とみられる。日本の歴史に関するこの賦(散文詩)は、「其言広大」であることから『羅山先生文集』(寛文2(1662)年刊)本文巻頭にも掲載されている。
熊沢蕃山(くまざわ ばんざん) 1619-1691
江戸時代前期の儒学者。中江藤樹門下。岡山藩主池田光政の信任を得て側近となり、治山・治水、災害や飢饉対策などに成果をあげた。一方で、林羅山に「耶蘇の変法」と称されるなど、藩内外の批判・中傷も多く、明暦3(1657)年には致仕(引退)した。晩年、著述に専念したが、政治批判で幕府の忌諱に触れ、幽囚の身となり病没した。
4 孝経小解〔江戸前期〕【WA17-17】
中国の古典『孝経』の注釈書。『孝経』本文に訓点を付し、平仮名まじり文で語句や文章の意味を説明している。蕃山の師である中江藤樹は、妻のために、仮名で記された『孝経啓蒙』を著したが、その影響を受けて作られたとされる平易なもので、蕃山晩年の著作である。
掲載資料は柳田國男の兄にあたる井上通泰の旧蔵本。井上が所蔵していた昭和3(1928)年時点に復刻された本と比較すると、その後、水をかぶるなどして破損したことがわかる。左頁7行目の「ル」の上にあったと思われる「ヨ」が右頁に裏返しに張り付いている。昭和23(1948)年、当館の所蔵となった。