第1章 為政者とその周辺慶喜と斉昭
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) 1837-1913
江戸幕府第15代将軍。水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家を相続、慶応2(1866)年将軍家を継いだが、翌年大政奉還を行い、将軍を辞した。維新後は猟や写真など趣味の世界に生きた。
9 徳川慶喜題字「篇々深切」(『源烈公真筆』のうち)〔明治時代〕【WA25-29】
『源烈公真筆』(烈公は徳川斉昭の諡号)の初巻巻頭に付された慶喜による題字。
『源烈公真筆』は、斉昭の書簡など40通余りを集めたもので、ほとんどが青山延于宛。この題字は、おそらく軸装にあたり、青山家の人物が慶喜に揮毫を依頼したものであろう。
慶喜は、「篇々深切」は斉昭が座右の銘としていた言葉と記す。「篇々」は詩文の毎篇のこと、「深切」は懇切なことを指すので、父斉昭のことを思い出しつつ、書簡各編が斉昭の懇情であるとの意をこめて記したものであろう。
徳川斉昭(とくがわ なりあき) 1800-1860
幕末の常陸国水戸藩主。諡号は烈公。第7代藩主治紀の三男。兄斉脩の死後、下級藩士たちの支持を得て第9代藩主となり、藩政改革を進めた。尊王攘夷論者で、幕府にたびたび献策し、幕政参与となるが、安政の大獄で蟄居の処分を受けた。
10 徳川斉昭書簡(『水府名家手簡』のうち)〔江戸後期〕12月21日【WA25-94】
斉昭が中務なる人物に宛てた書簡。中務は老中を務めた脇坂安宅、あるいは本多忠民であろうか。過日の来臨に対する礼状で、領地の鮒を贈られたことにも謝意を示している。追伸では、厳寒の中、体を大切にするよう述べ、来春の入来を楽しみにする旨と御礼の品を贈ることを記している。
「也」の最後の一画を虎の尾のように跳ね上げる書き方は、斉昭がしばしば行うもの。書簡だけではなく、斉昭が編集した『明倫歌集』の序文末などにもみられる。強い抑揚のある独特の筆致の書簡も、多く残されている。
11 徳川斉昭書簡(『源烈公真筆』のうち)〔天保7(1836)年〕9月29日【WA25-29】
斉昭が、青山延于の次男量平の結核を知り、薬の処方を記した紙を延于に贈った際の書簡。斉昭は医学通で、病の家臣には薬や処方を贈ったという。
本文で家族への伝染を心配し、追伸でも「量平が万に一の時でも、(延于よ)お前にはうつらないようにしろよ」と繰り返す文面は、身分の厳しい時代に、その違いを超えた熱い君臣の情を感じさせる。延于の曾孫にあたる婦人運動家山川菊栄によれば、青山家では斉昭のことを神のように称えていたとか。とはいえ、差出人の名は記さず宛所を低く「青山延于へ」と記すのは、身分の差ゆえである。