コラム

1. 料理

フランスは、何と言っても美食の国である。そのガストロノミ(美食術)は、ブリヤ・サヴァラン(1755-1826)の『味覚の生理学』(『美味礼賛』)等を通じてよく知られている。開国以降、日本に伝わった西洋料理は、フランス料理、ドイツ料理、英国料理等の混交した「洋食」として普及したが、その中で特に外交や宮中行事等の公的な場面で供されたのはフランス料理であった。本節では、日本におけるフランス料理の歴史を、料理人の系譜や出版された料理書等からたどってみたい。

洋食の起源

明治元(1868)年、維新政府は東京開市のため築地に外国人居留地を置いた。これに合わせて、同地で外国人向け施設の整備が行われ、西洋料理を供する店も登場した。同年開業した日本最初の西洋式ホテル「築地ホテル館」で料理長を務めたのが、フランス人ルイ・ベギュー(生没年不詳)である。ホテル館は、同5(1872)年の大火で焼失するが、その後も日本にとどまり、横浜グランドホテルの料理長を務めた。同20(1887)年には神戸オリエンタルホテルの社主となり、東洋を代表するホテルに育てた。同22(1889)年に来日した英国の作家ラドヤード・キプリング(1865-1936)は、書簡(Rudyard Kipling, From sea to sea, and other sketches; letters of travel衆9660-0003】所収)の中で同ホテルの料理や日本人従業員の接遇について、「ベギュー夫妻、万歳!(Excellent Monsieur and Madame Begeux!)」と絶賛している。ベギューは宮中晩餐会等の料理も手掛け、日本における「フランス料理の父」となった。

築地ホテル館の錦絵

一曜斎国輝『東京築地保弖留館繁栄之図』大黒屋平吉, [明治1 (1868)]【寄別7-4-2-5『東京築地保弖留館繁栄之図』のデジタル化資料
築地ホテル館を描いた錦絵。海鼠壁が特徴的な和洋折衷建築である。

明治4(1871)年に文部省が発行した『泰西訓蒙図解』【特42-506】には、西洋の文物が絵入りで紹介されているが、その中に「食器」、「庖厨具」、「酒窖具」の項目が見られる。一般人が洋食を口にするはるか以前に、すでにこのような紹介がなされているのは興味深い。調理法についても、同5(1872)年には早くも、仮名垣魯文『西洋料理通』【特41-857】と敬学堂主人『西洋料理指南』【特54-156】の2著が刊行されている。いずれも、滋養に富み合理的な調理法に基づく西洋料理が日本人の身体を強壮にし、国家の発展につながるとの趣旨を述べているのが注目される。なお、仮名垣魯文(1829-1894)には、『西洋料理通』に先立ち、牛鍋屋を舞台に開化期の庶民を滑稽に描いた戯作小説『安愚楽鍋』【245-9『安愚楽鍋』のデジタル化資料もある。


厨房や調理器具の挿絵

田中芳男 訳・内田晋斎 校『泰西訓蒙図解』文部省, 明4(1872)【特42-506『泰西訓蒙図解』のデジタル化資料

独・英・仏・日語の対訳で、西洋の事物を図解している。西洋式の厨房が描かれている。

『西洋料理通後編』表紙

魯文 編・暁齋 画『西洋料理通』萬笈閣, [1872]【特41-857『西洋料理通』のデジタル化資料

『西洋料理指南』標題紙

敬学堂主人『西洋料理指南』雁金書屋, 明5(1872)【特54-156『西洋料理指南』のデジタル化資料

築地精養軒と洋食文化

外国人居留地となった築地には、先述のホテル館以外にも洋食を供する店が登場する。岩倉具視(1825-1883)に仕えた北村重威(1819-1906)は、外国要人をもてなす施設の不足を嘆き、明治5(1872)年2月26日にホテル築地精養軒を開業した。ところが、同日起こった銀座の大火で、精養軒は開業当日に全焼してしまう(この火事で築地ホテル館も焼けている)。北村は、翌年精養軒を再建し、同9(1876)年には上野に支店を出している。精養軒は、日本で最初の本格的な西洋式レストランと言ってよく、明治期における洋食文化の中心となった。東京帝国大学に近い上野精養軒は、学者や文人に愛され、夏目漱石(1867-1916)の『三四郎』等にも描かれている。
精養軒の料理人としては、4代目料理長・西尾益吉(1846-?)や5代目・鈴本敏雄(1890-1967)が知られている。西尾は築地精養軒に入った後、渡仏してパリのリッツホテルで修業する機会を得た。当時リッツには、『料理の手引き(Le Guide Culinaire)』の著者で「フランス料理の父」と称される、オーギュスト・エスコフィエ(1846-1935)がいた。帰国後、西尾は料理長に迎えられ精養軒の全盛時代を築いた。西尾の後を継いだ鈴本は、ベギューの開いた神戸オリエンタルホテルで料理長を務めた後、築地精養軒に迎えられた。「名人」と呼ばれ、エスコフィエの本に準じた料理人向けの解説書を著している。

『西洋料理厨の友』表紙

精養軒主人 述・服部国太郎 編『西洋料理厨の友』大倉分店, 明35(1902)【96-37『西洋料理厨の友』のデジタル化資料

精養軒主人の名で著された家庭向けの料理書。

上野精養軒写真

上野精養軒 上野精養軒の関連電子展示会を新しいウィンドウで開きます。
明治26(1893)年頃。

『仏蘭西料理献立書及調理法解説』表紙

鈴本敏雄『仏蘭西料理献立書及調理法解説』奎文社出版部, 大正9(1920)【395-13『仏蘭西料理献立書及調理法解説』のデジタル化資料

鈴本による解説書。ポケットに入れ携帯できるよう工夫されている。

築地精養軒写真

築地精養軒 築地精養軒の関連電子展示会を新しいウィンドウで開きます。
鈴本が料理長を務めた頃の建物。

鹿鳴館と渡邉鎌吉

幕末に結ばれた不平等条約の改正は明治政府の宿願であり、井上馨(1835-1915)外務卿らは日本の文明化をアピールするため欧化政策を推進した。西洋料理の導入も、その流れの中に位置づけられる。すでに維新直後から、天長節(天皇誕生日)の晩餐や各国公使を招いた御前会食の公式料理はフランス料理となっていたが、明治16(1883)年外国人を接遇するための社交場として鹿鳴館が開設されると、晩餐会でフランス料理が供された(『鹿鳴館の晩餐会メニュー』(明治17年)外交史料館所蔵 『鹿鳴館の晩餐会メニュー』の外部サイトを新しいウィンドウで開きます。)。官吏や軍人に対しては、西洋式のマナーに精通することが求められ、特に海軍においては築地精養軒での食事が奨励されていた。月末に精養軒への支払いが少ない士官は注意を受けたという。
渡邉鎌吉(1858-1922)は、英国公使館に丁稚奉公に入り料理人となった。江戸時代に来日した医師フィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)の息子で幕末・明治の外交に活躍したアレキサンダー(1846-1911)に腕を見出され、鹿鳴館開設に際して料理長に推薦された。この時は代わりに義弟を推薦してそのサポートに回ったが、同23(1890)年鹿鳴館が宮内省に移管(後華族会館に払下げ)された際に料理長に就いている。その後、同40(1907)年に松方正義(1835-1924)、桂太郎(1847-1913)らの支援で、三菱財閥の岩崎弥之助(1851-1908)がパトロンとなり、丸の内の三菱八号館に「中央亭」を開店した。店名は、当時計画されていた東京中央停車場(東京駅)にちなんだと言う。また、同36(1903)年からは、日本最初の近代的女子高等教育機関である日本女子大学校(現日本女子大学)において西洋料理法を講じた。渡邉自身は、生涯洋行の機会に恵まれなかったが、条約改正に当たった小村寿太郎(1855-1911)のハウスコック・宇野弥太郎(1858-1929)との交流等を通じて西洋事情を学んだようである。

テーブルセットの挿絵

岡崎内蔵松 著・吉田要作 閲『和洋宴会の作法及其禁もつ』昌平堂, 明45(1912)【特64-846『和洋宴会の作法及其禁もつ』のデジタル化資料

西洋式の宴会マナーの解説書。監修の吉田要作(1851-1927)は、横須賀製鉄所を経てフランスに留学した外交官。鹿鳴館長も務めた。

鹿鳴館の写真

鹿鳴館 鹿鳴館の関連電子展示会を新しいウィンドウで開きます。
明治26(1893)年頃。

『西洋料理法大全』表紙 宴会用のテーブルセットの挿絵

宇野弥太郎『西洋料理法大全 訂補』大倉書店, 大正15(1926)【342-87イ『西洋料理法大全 訂補』のデジタル化資料
宇野と渡邉の共著とされる。宇野は日本で最初の西洋料理学校を開設した。

帝国ホテルのフランス料理

吉川兼吉(1853-1935)は、横浜グランドホテルのベギューの下で学んだ後、鹿鳴館を経て、明治23(1890)年帝国ホテル開業にあたり初代料理長となった。国賓の宿泊施設として井上馨が提案し、渋沢栄一(1840-1931)、大倉喜八郎(1837-1928)らによって設立された同ホテルは、日本のホテル界の頂点に君臨し、数多くの賓客を迎えた。歴代総料理長からは日本を代表する料理人を輩出し、特に第11代・村上信夫(1921-2005)は、NHKテレビ「きょうの料理」講師や東京オリンピック選手村料理長を務め、北欧料理の前菜「スモーガスボード」に想を得て食べ放題「バイキング」形式を創始したことでも知られる。同世代のホテルオークラ調理部長・小野正吉(1918-1997)とは、良きライバルであった。彼らが中心となって昭和46(1971)年、正統なフランス料理を伝える日本エスコフィエ協会が設立された。

帝国ホテルにおける宴会の挿絵

村井弦斎『食道楽 増補註釈』報知社, 明36(1903)【116-255『食道楽 増補註釈』のデジタル化資料

本書は、村井弦斎(1863-1927)による料理小説。明治36(1903)年『報知新聞』に連載されると、人気を呼び、単行本は大ベストセラーとなった。今日のグルメ物の元祖と言ってよいが、単に美食を追求するのではなく、「料理法に無智識なるは最も家庭の不経済」と説き、一話ごとに注で食物の栄養価を記すなど、啓蒙的な側面も見られる。「秋の巻」口絵に明治36(1903)年11月3日帝国ホテルで開かれた天長節晩餐会を描く。

『西洋料理法』表紙

大橋又太郎 編『西洋料理法』博文館, 明29(1896)【45-184『西洋料理法』のデジタル化資料

博文館日用百科全書中の1冊。「帝国ホテル庖丁長 吉川兼吉」名の序文を付す。

帝国ホテル写真

帝国ホテル 帝国ホテルの関連電子展示会を新しいウィンドウで開きます。

渡辺譲(1855-1930)設計の初代の建物。フランク・ロイド・ライト(1867-1959)設計の2代目の建物もよく知られる。

天皇の料理番・秋山徳蔵

秋山徳蔵(1888-1974)は、若くして華族会館、築地精養軒で修業し、明治42(1909)年ドイツに渡航、次いで翌年にはパリへ移りマジェスティックホテル、カフェ・ド・パリで働いた。日露戦争後の当時でも、ヨーロッパでは東洋人に対する差別が残り、厨房でしばしば喧嘩沙汰に巻き込まれている。これを柔道技でしのぐあたりは、当時渡航した日本人にしばしば見られる体験である。その後、リッツホテルのエスコフィエの下でも半年間働いている。大正天皇即位礼で諸外国からの貴賓の饗応に対応するため、大正2(1913)年宮内省の招請を受けて帰国すると、同年若干25歳で大膳寮主厨長を命ぜられた。この時の上司・大膳頭は、園芸学の草分けで果樹の品種改良で知られる福羽逸人(1856-1921)である。以後、昭和47(1972)年に84歳で退くまで、実に半世紀以上にわたり大正・昭和の宮中に仕えた。その間、饗応に当たった外国首脳・貴賓は数知れず、その生涯は小説(杉森久英『天皇の料理番』【KH566-199】)に描かれ、テレビドラマ化もされた。秋山は、エスコフィエの正統と渡邉鎌吉以来の日本のフランス料理の系譜を受け継ぎ、その長期にわたる活動や後進に与えた影響の大きさからも、日本のフランス料理を語る上で欠かすことのできない巨人である。

『仏蘭西料理全書』表紙 料理の盛り付け飾りの挿絵

秋山徳蔵『仏蘭西料理全書』秋山編纂所出版部, 大正12(1923)【507-132『仏蘭西料理全書』のデジタル化資料

大正9(1920)年、秋山は欧米各国出張を命じられ、再び渡欧する。途中から皇太子(後の昭和天皇、1901-1989)の欧州各国訪問随行を命じられ、各国の宮廷料理を実見した。帰国後、刊行したのが本書である。1600頁を超える大著であり、和製エスコフィエの名にふさわしい。

『標準仏蘭西料理全書第1巻』冒頭ページ

日本司厨士協同会 編『標準仏蘭西料理全書 3版』日本司厨士協同会, 昭和16(1941)【特274-649『標準仏蘭西料理全書 3版』のデジタル化資料

本書は、フランスの著名料理書を編訳したもので、エスコフィエがまとまって翻訳紹介された最初の例と思われる。

料理の日仏交流

ガストロノミの伝統に日本が影響を与えたこともある。フランスに初めて登場した日本の食材は、醤油であった。時代は18世紀半ば、ルイ15世(1710-1774)の宮廷にオランダ経由でもたらされた九州産醤油は、サラダを和えるのに用いられ、瞬く間にヨーロッパ中の宮廷に広まった。それから130年ほど後、西園寺公望(1849-1940)がフランスへ留学した頃にも、日本人留学生がパリの食料品店を探し回って醤油を見つけた話が伝わっている(西園寺公望『陶庵随筆』【97-99『陶庵随筆』のデジタル化資料)。
明治・大正の頃にも、渡仏した料理人がごく少数ながら存在したことは、すでに述べたとおりである。しかし、何と言っても日本人が料理を学びに大量にフランスへ渡るのは、1960年代以降のことである。ちょうどその頃、料理評論家アンリ・ゴー(1929-2000)とクリスティアン・ミヨ(1928- )によってフランス料理の新しい潮流「ヌーヴェル・キュイジーヌ」が提唱され、フランス料理界に大きな変革が起きつつあった。伝統的な濃い味付けや腹にたまる食事が否定され、洗練された盛り付けや素材を生かした健康的な料理が目指された。この傾向を代表した「フランス料理の帝王」ポール・ボキューズ(1926- )は、昭和47(1972)年に料理研究家・辻静雄(1933-1993)の招きで来日し、日本の料理人向けに講習会を開催した。この講習会には、日本国内の主だった料理人がこぞって参加した。一方、ボキューズは辻の案内で「吉兆」等の料亭を訪れ、そこで供された懐石料理の素材や盛り付けに魅せられた。これをきっかけに、フランスに渡った日本人料理人たちの活躍もあり、フランス料理の「和食化」が進むこととなる。
平成25(2013)年、「和食;日本人の伝統的な食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録された(「フランスの美食術」は2010年に登録)。その他、『ミシュランガイド』日本版の発行など、食をめぐる話題は尽きない。日仏両国の豊かな食文化は、浅からぬ縁で結ばれてきたのである。