コラム

1. 西園寺公望―青春の巴里

最後の元老・西園寺公望(1849-1940)は、王政復古後18歳で新政府参与となり、戊辰戦争に従軍した。その後、新政府の職を辞し、明治3(1870)年12月フランス留学を命ぜられた。これは、西園寺自身の強い希望によるもので、滞仏は翌4(1871)年から同13(1880)年まで約10年間に渡った。後年の華族子弟の留学とは異なり、滞在中の生活は質素なものであった。西園寺は平民風に望一郎と名を改め、エミール・アコラス(1826-1891)の私塾やパリ大学法学部に学んだ。また、中江兆民(1847-1901)や光妙寺三郎(1847-1893)ら日本人留学生のみならず、政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841-1929)や作家エドモン・ゴンクール(1822-1896)らと幅広く交遊した。帰国後も、外交官・政治家として訪仏することたびたびであった。軍国主義が強まる中、穏健な自由主義者として国際協調を説いたバックグラウンドには、フランス留学で培った深い教養があったのである。

『欧羅巴紀遊抜書』表紙

西園寺公望『欧羅巴紀遊抜書』小泉策太郎,1932【W338-4『欧羅巴紀遊抜書』のデジタル化資料

西園寺が留学初年に実父・徳大寺公純(1821-1883)に書き送った報告で、西園寺の伝記を執筆した小泉策太郎(1872-1937)がコロタイプ印刷したもの。西園寺が出発した明治3(1870)年当時は、普仏戦争のためフランス郵船の航行が不定期となり、米国船での渡航となった。冒頭の東西両半球図に行程が書き込まれ、「此度実地を経歴して、世界の円形なること疑ふべからざるを知る」と記している。サンフランシスコから鉄道で東海岸へ移動し、ワシントンではユリシーズ・グラント大統領(1822-1885)と会見、ニューヨーク、ロンドンを経てパリに入っている。パリについては、「巴里斯は、佛国の都城にして、家建街衢の立派なる、世界第一とも云べし」とある。西園寺は漢学に秀でる一方、福沢諭吉(1834-1901)の『西洋事情』を愛読し、当時の朝廷にあって抜きん出た視野を有した。留学直前には、長崎の語学伝習所・広運館でレオン・デュリー(1822-1891)にフランス語を学んでいる。

「西園寺公望書簡」冒頭部

西園寺公望書簡【西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)4】西園寺公望書簡のデジタル化資料

フランス到着後、明治4年4月26日(1871年6月13日)に一門の橋本実梁(1834-1885)に宛てた書簡。この年の3月18日から5月28日まで(西暦)続いたパリ・コミューンについて、「仏ハ昨年普に打負しより国内更ニ紛乱し、遂ニ解兵ノ時より事起り共和政事を名とし、姦猾無恥之徒大ニ愚民を煽動し以干戈ヲ用にいたれり」と述べているのが注目される。「風儀開化ニ過キ繁華に流れ」たことに混乱の因を求め、日本の行き過ぎた開化に懸念を示している。「日本より洋行さするにハ此後なるたけ老人を撰べし」とし、「万一共和政等をとのふる者あらバ一々斬首して天下ニ示ベシ」とまで述べている。しかし、留学生活を経るにつれ、西園寺の政治意識はリベラルなものへと転じていった。

「西園寺公望書簡」冒頭部

西園寺公望書簡【西園寺公望関係文書(橋本実梁旧蔵)6】西園寺公望書簡のデジタル化資料

明治6(1873)年5月21日の橋本宛て書簡。留学費用は当初官費、後私費に切り替わったため懐具合は良くなく、しばしば金の工面を依頼している。西園寺は、パリ大学法学部に籍を置く傍ら、急進党左派の論客エミール・アコラスの私塾に出入りした。書中では、宗教の弊害を説き教会の政治介入を批判しているが、師の影響であろう。同門には後に首相を務めるジョルジュ・クレマンソーがおり、西園寺はクレマンソーがスイスで地下出版したパンフレットの密輸入に協力するなど、親しく付き合った(日仏関係の悪化を懸念した鮫島尚信(1845-1880)公使には大目玉を食っている)。後年パリ平和会議において、政府全権委員として再会を果たしている。中江兆民もアコラスに学んだらしく、西園寺は兆民について「勉強よりも高談放論の方だった」と揶揄しているが、帰国後に共に東洋自由新聞【WB43-169】創刊に携わっている。西園寺の政府入り後も友情は続き、兆民の死後には遺児・丑吉(中国学者、1889-1942)を支援している。

西園寺公望肖像と筆跡

西園寺公望 (陶庵) 著,国木田独歩 編『陶庵随筆』新声社,明36(1903)【97-99『陶庵随筆』のデジタル化資料

西園寺(号陶庵)の随筆を、国木田独歩(1871-1908)が編集したもの。生活に困窮した独歩は、一時期西園寺邸に寄寓した。元は陸奥宗光(1844-1897)が創刊し、竹越与三郎(1865-1950)が編集した雑誌『世界之日本』【雑54-11】に掲載されたもので、誌名は国粋主義の隆盛に一石を投じる意味で西園寺の命名になるとされる。西園寺は自身を語ることを好まなかったが、記者の懇望に負け、第三共和政下の文人宰相ジュール・シモン(1814-1896)に倣って筆を執ったという。留学時代や外交官時代の思い出が洒脱に綴られ、パリで醤油の入手に手を尽くした話(「日本料理」)、パリ・コミューン体験記(「邦人某巴棃に胸壁を築く」)、光妙寺三郎との出会い(「如何なるこれ風流」)等が回想される。西園寺はいち早く洋装で参内する(「大原三位と切腹を賭す」)など進取の気性に富み、怜悧な教養人であった。晩年の秘書・原田熊雄(1888-1946)による『陶庵公清話』【310.4-Sa22ウ】にも同様のエピソードが豊富である。

『西園寺公巴城留学時の奇行事件』表紙

小泉策太郎『西園寺公 巴城留学時の奇行事件』小泉策太郎,昭12(1937)【715-149『西園寺公 巴城留学時の奇行事件』のデジタル化資料

通俗伝記によって、パリのカフェ「星旗楼」で西園寺と光妙寺が乱暴狼藉を働いたと伝わる事件を、小泉策太郎が考証した資料。小泉によると、「星旗楼」とはカフェ・アメリカン(ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)の『ベラミ』にも描かれたパリの有名カフェ)のことで、『陶庵随筆』によると、西園寺が光妙寺と知り合った店でもある。事の真相は、店の鏡を破損した売笑婦を庇って、光妙寺が侠気から代わりに弁済してやり、店員の眼前で鏡を叩き割ったということのようである。
光妙寺は長州藩から派遣され、フランスで法律を学んだ。もと三田(光田)姓であったが、西園寺を真似て郷里の寺の名を名乗ったという。明治7(1874)年の留学生帰国命令に従わず、西園寺とともに留学を継続して法学士の学位を取得した。西園寺が同30(1897)年のパリ再訪時に、早世した光妙寺を偲んで詠んだ詩(琴情詩景夢茫々/二十年前舊酒樓/無數垂楊生意盡/傷心不獨爲三郎)は、明治の名詩のひとつに数えられる。

『決闘条規争也君子』表紙

光妙寺三郎『決闘条規 争也君子』明法堂,明22(1889)【特55-294『決闘条規 争也君子』のデジタル化資料

光妙寺の帰国後の仕事として、法律書の翻訳紹介が残されている。明治10年代以降、西洋諸国の慣習であった決闘を日本人が模倣するようになり、各地で決闘騒ぎが生じた。刑法典に決闘の禁止を盛り込むべきか議論が起こり、識者の大勢は禁止論であったが、ダンディで知られた光妙寺は五大法律学校討論会において、「決闘は文明の花なり」と演説し大きな反響を得た。本書は、決闘是認論を説くとともに、そのルールを提案するものであり、若き日の星旗楼事件を彷彿させる。光妙寺は、東洋自由新聞等を経て衆議院議員も務めた。第1回帝国議会における議員逮捕をめぐる演説(『衆議院第1回通常会議事速記録第2号』(左メニューから「第2号」を選択)、「末松三郎」とあるのが光妙寺)は、「東洋のクレマンソー」の異名を取る雄弁であったが、晩年には落魄した。葭町の美妓・米八(後の新派女優・千歳米坡、1855-1913)との間の遺児は西園寺が引き取って養育し、後に俳優・東屋三郎(1892-1935)となった。

『Poëmes de la libellule』表紙

Judith Gautier (traduits du Japonais d'après la version litterale de M. Saionzi ; illustrés par Yamamoto), Poëmes de la libellule. Gillot, [1885]【KH9-B13Poëmes de la libelluleのデジタル化資料

西園寺が女流作家ジュディット・ゴーチエ(1845-1917)と共に、古今和歌集から仮名序と88首を抄訳し、パリで出版した作品。和名は『蜻蛉集』。ジュディットは、ロマン派作家テオフィル・ゴーチエ(1811-1872)の娘で、東洋に材を取った作品で知られた。西園寺の逐語訳(巻末に掲載)を元に、ジュディットが五七五七七のシラブルに調えている。西園寺は和歌を好まなかったが、高位の公家の生まれで素養は十分であったろう。挿画の山本芳翠(1850-1906)はフランスに留学した洋画家で、画商・林忠正(1853-1906)を介して西園寺と交流があった。局紙に多色刷りのジャポニスムを代表する美しい造本で、表紙のトンボの羽に刊年や著者表示「志由知津堂阿良者須(ジュディット著す)」がみられる。親称(tu)を用いて光妙寺に宛てた(A Mitsouda Komiosi)ジュディットの献辞が掲げられるが、一説には2人は恋仲であったという。美貌のジュディットは、サロンの女王であった。

錦絵「青楼雪月花春日野」

ゴンクウル(野口米次郎訳註)『歌麿』第一書房,昭和4(1939)【567-28『歌麿』のデジタル化資料

エドモン・ゴンクールは、弟ジュール(1830-1870)とともにゴンクール兄弟として知られる作家。その日記は19世紀後半のフランス社会、文壇を知るための基礎資料とされる。フランス文学界の最高権威であるゴンクール賞に名を残し、ジュディット・ゴーチエも同賞選考委員を務めた。日記によるとゴンクールは、美術商フィリップ・ビュルティ(1830-1890)を通じて西園寺旧蔵の日本刀を入手したことをきっかけに交際したようである。ジャポニスムの先駆者として知られ、林忠正の顧客として浮世絵を収集、林の協力を得て初の浮世絵研究書である『Outamaro(歌麿)』【KC172-A65】、『Hokousaï(北斎)』【VF5-Y3253】を刊行した。訳者の野口米次郎(ヨネ・ノグチ、1875-1947)は、彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)の父として知られる詩人、浮世絵研究家。また、版元の第一書房は、化粧品会社・伊東胡蝶園の出版部門であった玄文社で修業した長谷川巳之吉(1893-1973)が創業し、大正から戦前にかけて豪華な装丁で一時代を築いた。

「西園寺公望書簡」冒頭部

西園寺公望書簡【井上馨関係文書482-3】西園寺公望書簡のデジタル化資料

明治22(1889)年2月21日に、駐独公使・西園寺が農商務大臣・井上馨(1835-1915)に宛てた私信。当時駐独公使館に勤務していた、井上の養子・勝之助(書中「勝君」、1861-1929)が退職して英国留学することを祝う内容であるが、特に勝之助夫人・末子(書中「お季様」、1864-1934)のフランス語能力について言及がある。末子は、英・仏・独語に通じた才媛として知られ、社交界の花としてその美貌を謳われた。西園寺は、勝之助の退職に伴い夫人が帰国させられることを惜しみ、「欧土にて上等交際にハ仏語、仏文は不可欠なもの」であり、「仏国巴黎ニ於て極々上等の仏語、仏文等御勉強相成候様」井上に勧めている。結局、勝之助の退職は大隈重信(1838-1922)外務大臣の認めるところとならず留学はかなわなかったが、末子はパリで語学を研修することとなった。西園寺は、駐独公使時代も、休暇を得てしばしばパリに遊んでいる。