コラム<東京>
10 帝国劇場
建築様式と構造
明治44年(1911)3月1日に開場式を行った帝国劇場(以下「帝劇」)は、大正12年(1923)9月1日に関東大震災によって焼失の厄に見舞われた。その後、骨組みだけ残して大改修し、13年(1924)10月25日に「復興開場」に至る。この写真は明治44年(1911)4月当時の帝劇の外観である。4階建てで、フランス・ルネサンス様式を基調とし、外壁には備前伊部の白色の装飾レンガが使われ、屋上には帝劇の象徴とされた能楽「翁」の彫刻像が施されている。その姿は、44年(1911)2月4日の『時事新報』において「巍然たる白亜の一閣を成して宛ら劇界の覇王たらんず壮観を呈せる」と評された。また帝劇は敷地が広く、劇場のある本館以外にも、附属技芸学校や大道具製作所、背景部製作所等が設置されていた。
設計者は横河民輔。彼は『地震』と題した著作などを通して、建物の耐震性の向上策を検討するなど、建物の構造面、設備面を重視する建築家であった。そのため、米国で学んだ鉄骨構造を、初めて日本の建築に取り入れた人物としても知られている。帝劇も本格的な鉄骨構造であり、日本国内だけでは鉄骨材が不足したため、英国から輸入したという逸話も残っている。また、消火栓や防火壁、避雷針などの防火設備にも力を注いでいた。実際、帝劇は関東大震災の際、激しい揺れにも倒壊は免れ、震災発生当初は火災の被害もなかった。数時間後に「警視庁方面からの火の粉や想像の出来ない火のかたまりは無数に隕星のような勢いで飛来」(『東京の劇場』)したという空前絶後の事態で焼失したのは、悲運としか言いようがない。
帝劇設立の動機、経緯、及び功績
新劇場設立の構想が具体化した背景には、当時あらゆる分野で流行していた「欧化改良」の現出のひとつである演劇改良運動がある。別コラム 「明治時代の芝居と劇場」にて、明治の演劇と劇場の変遷について紹介しているので、ご参照ください。明治39年(1906)1月8日、伊藤博文の主宰で行われた協議会が、帝劇創立の嚆矢といえる。同年1月18日、劇場新設のための委員会が発足した。委員長となった渋沢栄一は早速、海外公演を成功させた経験をもつ演劇人の川上音二郎と面談したり、同じく劇場新設に熱心であった西園寺公望、林董ら関係者のもとを頻繁に行き来したりと精力的に動いている。そして40年(1907)年3月9日、帝国劇場株式会社が正式に成立した。つまり帝劇は、「帝国」と冠しているが国営ではなく、会長には渋沢、取締役に大倉喜八郎ら財界人を置いてのスタートであった。
帝劇関係者が、日本で最初の本格的な洋式劇場となる帝劇に求めていたことは、次の三点に要約できる。外国の貴賓を迎える際に、日本の伝統芸能を紹介する場となること、劇場経営の模範となること、舞台芸術の発展の本拠となることである。「現実の社会が建築に対して要求している事柄を、いかに的確に把握し、いかに適切に対処するか」(『日本の建築明治大正昭和.7』)が建築家の責務、と考えていた横河にとって、この三点を調和し具現化することにはたいへんな苦難があった。帝劇というたったひとつの劇場で、歌舞伎等の古典芸能のほか、オペラ、新派劇など、あらゆる分野の舞台芸術に配慮した舞台機構を考えなければならなかったのである。
苦心の末、和洋折衷の「歌舞伎が上演できる西洋劇場」は完成した。44年(1911)3月9日の『都新聞』では「俳優の見たる帝国劇場」との見出しで、帝劇に出演する歌舞伎俳優たちのコメントが載せられている。そこでは「日本一の劇場の舞台開きに出勤して見たい考へに外ならない」との決意が述べられる一方で、「始めて舞台稽古の時には常の舞台と勝手が違つて面食らひました」といった言葉も寄せられている。
また帝劇開場は、日本の劇場の経営とサービスに大変革をもたらした。切符制の導入(開演の10日前から販売。市内に限って無料配達)、場内での飲食・喫煙禁止(その代替として食堂と喫煙室の設置)、男性の接待係と女性の案内人の配置、無料のプログラム配布などである。これらのサービスの一部は帝劇以前にも試みはあったが、旧来の慣習にそぐわず定着していなかった。このサービスの大変革の成功により、帝劇は演劇の近代化に大きく貢献したと言われている。
帝劇内部
帝劇内部は、座席はもちろんのこと、切符売場や御手洗、休憩室などの施設も左右対称の設計であることに特徴がある。1階の正面玄関の扉を開けると左右に切符売場があり、前面に階段がある。階段を上ると再び扉があり、このあたりで切符の確認をしたと思われる。その扉を開けると大理石の柱の立っている広間に出て、廊下を進めば1階の客席にたどり着ける。またその広間で客席の方に向かわず、斜め後ろを振り返ると、荷物の預かり所があることに気づく。
広間の階段を上がった先の2階の広間には、カウンター等の家具や売店がある。そして正面玄関の上部にあたる位置には、ラウンジやパーティ会場などに用いられた食堂がある。食堂は天井が高く、「平安から明治までの遊びに関する12か月の時代風俗」をテーマにした壁画が配されている。
客席があるメインホールに入ろう。客席は約1,700席あり、1階と2階が椅子席、3階と4階はベンチ席で、馬のひづめのような形に並んでいる。内壁は金色に統一され、天井にはドーム型のシャンデリアがあり、天井画として天女が羽衣をまとって昇天する場面が描かれている。舞台の前面にはオーケストラ・ピットがあり、花道は必要に応じて取り外しができた。
そして、現在へ
関東大震災の悲運を乗り越え、帝劇は「大正帝劇」として再びその賑わいをみせた。その後、不況による経営の苦難、太平洋戦争中の閉鎖などの局面を経て、昭和41年(1966)9月20日に建物を新装し新たなスタートを切っている。こうして帝劇は現在も、多様なジャンルの舞台で観客を楽しませている。なお、現在の帝劇の入り口には、帝劇設立に貢献した西園寺公望の言葉を刻んだ額が掲げられており、往時の帝劇をしのぶことができる。
引用・参考文献
- 早稲田大学演劇博物館編『よみがえる帝国劇場展』2002 【KD11-H38】
- 嶺隆『帝国劇場開幕:今日は帝劇 明日は三越』中央公論社,1996 【KD11-G10】
- 帝劇史編纂委員会編『帝劇の五十年』東宝,1966 【770.67-Te143】
- 円城寺清臣,国立劇場調査養成部芸能調査室編『東京の劇場』国立劇場調査養成部芸能調査室,1978 【KD431-51】
- 藤森照信『日本の近代建築.下(大正・昭和篇) 』岩波書店,1993 【KA81-E78】
- 大川三雄[ほか]『図説近代建築の系譜:日本と西欧の空間表現を読む』彰国社,1997 【KA61-G2】
- 石田潤一郎『日本の建築明治大正昭和.7』三省堂,1980 【KA81-32】
- 小貫修一郎,高橋重治編『渋沢栄一自叙伝:伝記・渋沢栄一』偉人烈士伝編纂所,昭和12(1937) 【741-36】
- 「落成せる帝国劇場(一)」『時事新報』明治44年(1911)2月4日 【YB?65】
- 「俳優の見たる帝国劇場」『都新聞』明治44年(1911)3月9日 【YB-131】