コラム<東京>
7 浅草花屋敷:「遊園」から「遊園地」へ
「花屋敷」はもともと栽培した花など見せる庭園をさす言葉であった(『日本国語大辞典』)。隅田川をはさんで向かいにある向島百花園(東京都墨田区)も古くから花屋敷と呼ばれており、現在でも庭園として有名である。浅草花屋敷(現「浅草花やしき」。以下、花屋敷)もまた、もとは江戸末期嘉永年間(1848-1854)に植木屋・森田六三郎が始めた庭園であった。
現在、花屋敷は遊園地として知られており、近代遊園地の嚆矢といわれることもある。この写真 「花屋敷(浅草公園内)」は、明治40年(1907)前後の、遊園地となった後の姿である。
5年(1872)ごろには「運動機器」が、16年(1883)には「大眼鏡館」などが置かれ、花屋敷の遊園地化は明治のはじめから開始されていたが、本格化したのは材木商・山本金蔵(ジャーナリスト長谷川如是閑の父)が経営者だった20年代(1887-1896)のことであった。
20年(1887)、五層の楼閣「奥山閣(おうざんかく)」(鳳凰閣とも)が東京府内より移築される(翌年公開)。これは関東大震災で倒壊するまで、23年(1890)開業の浅草十二階(凌雲閣)とならぶ高層建築として評判をとった。22年(1889)には「ヂオラマ」を展示する家屋がつくられる。いまでいうジオラマ(ダイオラマ;diorama)で、模型や背景画などによって歴史的風景(憲法発布式など)を再現していた。翌年には、集客のため奥山閣に蓄音機が備えつけられる。回転木馬、芝居の名場面を再現した菊人形なども園内に置かれていたという。さまざまな施設がおかれることで、「遊園(park)」が「遊園地(amusement park)」になっていく(*)
ただの「遊園」ではなくなった花屋敷は、浅草公園で一番の娯楽場であるとみなされるようになる。
「公園の第五区にある花屋敷は、園中に於て、優に一位を占むべき娯楽場である、其昔しは名の如き簡短なる花屋敷に、過ぎなかつたが、之れだけでは、到底一切の経費だに足りない、況して利益を見る事は、出来ぬと云う所から、流行に倣ふての、蓄音器を備え付けるやら、珍奇の鳥獣を遠く海外に求め、そして諸衆の観覧に供したので、忽ちの間に、驚くべき程の人気を得たのである。」(『新事業発見法』)
隣接する第六区には、最初期の観覧車も東京勧業博覧会(40年(1907)開催)から移築され、営業を開始し、また演芸場や映画館等が立ち並ぶようになる。これらの娯楽施設が集積した浅草六区とともに、花屋敷は遊園地として繁栄していく。
*注)明治時代、「遊園」ということばは英語park(公園)の訳語であったが(『明治のことば辞典』)、現在「遊園地」は遊覧・娯楽などの設備をととのえた公園と定義されている(『日本国語大辞典』)。
引用・参考文献
- 小沢詠美子『江戸ッ子と浅草花屋敷:元祖テーマパーク奮闘の軌跡』小学館,2006 【DK261-H379】
- 『明治ニュース事典』毎日コミュニケーションズ,1983-1986 【GB8-116】
- 小木新造[ほか]編『江戸東京学事典』三省堂,1988 【GB8-E10】
- 『日本国語大辞典』小学館,2000-2002 【KF3-G103】
- 惣郷正明・飛田良文編『明治のことば辞典』東京堂出版,1986 【KF7-77】
- 岩崎徂堂『新事業発見法』大学館,明治36(1903) 【96-260】