第3章 遊びの文字絵

第3章では、主に江戸時代に流行した文字絵を取り上げます。葦手絵などは平安時代を過ぎるとほとんど絶えてしまい、宗教的な意味を大きく持っていた文字絵も次第に娯楽の要素を色濃く含むようになります。その傾向が顕著になるのが江戸時代です。元禄期に入ると世情が安定し、俳句や浮世絵といった江戸時代を代表する文化がめざましく発展しました。町人の中には、財を成す商人が現れ、彼らが後援者となって、文化を支えることになります。そんな中、純粋に遊びを目的とした文字絵が浸透していきます。

江戸の遊び絵 / 稲垣進一編著 東京 : 東京書籍, 1988 【KC172-E6】

ここで紹介する「どふけ(道化)一筆がき」は、山東京伝の弟子の鼻山人によって作られました。文字を組み合わせて、「弁慶」「幽霊」「鷺」など様々な人物や動物を表しています。目と鼻を付けた単純なかたちですが、かわいらしい絵になっています。六歌仙図は、葛飾北斎が大友黒主ら六歌仙を、その名前の字によって描いたものです。どふけ一筆がきの絵とは違い、絵と文字が見事に融合しており、もはや文字絵という概念を超えて、見事な芸術作品に仕上がっています。

さまざまな文字遊び

文字遊びの広まり

嬉遊笑覧

喜多村信節(1784-1856)が著した江戸の風俗習慣などの社会の様子を集めた『嬉遊笑覧』は文政13(1830)年に成立しました。その中に文字絵という項目があり、「童の習いの草子に文字絵といって、武者の形を文字で書き、頭と手足を絵で書き添えている」と解説されています。このように文字絵が普及している様子が紹介され、寺子屋などでの子供の勉強用に文字絵が使用されていたことがうかがい知れます。 文字遊びの広まりは、文字を読める人が増えていったということも意味します。また、文字を絵として扱ったり、絵を字に見立てて描いてみたりすることで、知らず知らずの間に、文字がなじみ深いものとして一般的庶民の間に広まっていったといえるでしょう。

新文字ゑづくし (新編稀書複製会叢書 第5巻 / 中村幸彦, 日野竜夫 京都 :臨川書店, 1989 【KH5-E2】より)

文字絵の版本が初めて出たのは、貞享2(1685)年の『文字ゑつくし』(園果亭義栗)でしたが、広く普及したのは元禄時代です。当時、町人の間ではあらゆる種類の言葉遊びが非常に流行していました。また、出版とその流通が爆発的に広まったという背景もあります。そのため、文字絵の巧妙な例を見せる版本や判じ絵を取り入れた浮世絵版画が大量に出始めたのです。その中でも、文字絵遊び(文字を使って絵を描く略画法)は、庶民の日常の娯楽として気軽に楽しまれました。また、遊芸等、吉原に通う余裕があった裕福な町人や芸術家に、特にもてはやされたのです。
明和3(1767)年に出版された『新文字ゑづくし』は、『文字ゑつくし』からさらに新しい文字絵遊びを生み出そうと工夫がこらされています。江戸のさまざまな名物や人物について、漢字とひらがなで人の胴体を書き、頭と手足を書き足して人間のかたちにして表現できるように工夫されています。

謎のヘマムショ入道とつるまむし入道

「へのへのもへじ」と並んで一般的な文字絵が、ヘマムショ入道です。今でも「字書き歌」として伝わるものが、この時代からあったことがわかります。

遠碧軒記 / 黒川道祐 (日本随筆大成 第1期 第10巻 / 日本随筆大成編輯部編 東京 : 吉川弘文館, 1993【US1-E7】より)

「ヘマ」はヘビの語源、蛇は、虫類に属していたので「ムシ」で「ヨ」は夜、「入道」は僧あるいは坊主頭の妖怪を指します。延宝3(1676)年頃に出版された『遠碧軒記』には「「青蓮院にヘマムショ入道の四百年以前の物あり。その筆者不知惜哉。」寺田無禅話」として、京都の青蓮院という寺に400年以上前に描かれた、ヘマムショ入道の絵があるが、その筆者がわからなくて残念である、と書かれ、今から700年以上も前からヘマムショ入道があったということがわかります。 また、山崎美成(1796-1856) も天保11(1841)年成立の『三養雑記』の中で触れています。その他、山東京伝が文化元(1804)年成立の『近世奇跡考』で雛屋立圃の句「絵に似たるかほや ヘマムシ夜半の月」を挙げていることから、正保(1645-1648)の頃にはすでにヘマムショ入道がある程度認知されていたことがうかがえ知れます。

ヘマムショ入道

ヘマムショ入道

尾張童遊集 / 小寺玉晁編 名古屋 : 名古屋温古会, 1934 【215-333】

『尾張童遊集』は江戸末期の文献で、江戸時代にはやった童歌などが紹介されています。「つ」「る」「ま」「む」「し」の五文字で入道を描いた「つるまむし入道」も紹介されています。尾張の童歌集に記載されていることから、江戸のみならず、地方でも文字絵文化は広がっていたと言えるでしょう。

よく似ている二つの人丸像

小野お通 / 真田淑子著 長野 : 風景社, 1990 【KG281-E2】

人丸像とは、柿本人麻呂を書いたもので、文字絵としてよく描かれていたようです。本書では安土桃山時代から江戸時代前期教養人として知られる小野お通が描いたものとされる人丸像が紹介されています。これらの絵では、服の部分が文字絵になっています。同じような絵を近衛信尹も描いています。小野お通の絵と近衛信尹の絵は、ほとんど同じといってしまっても問題ないほどよく似ています。二人は同時代人ですから、何らかの交流があったのかもしれません。本書は小野お通の子孫が書いたもので、遺品や文献の紹介によりこれまで架空とされてきた小野お通の実在を明らかにしました。 古筆学研究所の柿本人丸の字の鑑定が書かれた本(古筆学研究所『過眼墨宝撰集5』(1989)【KC637-E7】)では近衛信尹の図を、上半身が「柿」、右ひざが「本」、「人」、左ひざが「丸」と解読していますが、『小野お通』によると「心はこゝに到んや」とも読めるそうです。

巨匠たちの文字絵

こうした文字遊びの流行の中で、著名な浮世絵師たちも、文字絵を生み出していきます。

葛飾北斎

己痴群夢多字画尽 / 涎操著 江戸 : 蔦屋重三郎, 文化7年(1827) 【W99-12】

葛飾北斎は、文化7(1810)年頃にこの『己痴群夢多字画尽(おのがばかむらむだじえづくし)』を書いています。江戸時代の版元として有名な蔦屋重三郎が出版しました。著者は涎操とありますが、北斎の偽名である可能性が高いようです。また「葛飾北斎にかわりて」柳亭種彦が序文を寄せています。本書は文字を数字の順に書きながら絵にしていく、文字絵の教本です。これは書き順が三十一文字の狂歌になっていて、この狂歌を口ずさみながら、自然と絵が描けるという趣向です。

略画早指南 (北斎の絵手本 1 / 葛飾北斎[画] 東京 : 岩崎美術社, 1988 【KC16-E344】より)

『略画早指南』は前編と後編に分かれていて、前編は文化9(1812)年頃に出版され、コンパスと定規での略画の描き方の、後編は文化11(1814)年頃に出版され、文字絵の手本となっています。文字を使うと絵が描きやすいという教本です。後編に掲載された一心の図には、「いつしんとかいてひとのかたちをなす也」と説明書きしてあります。また「すべてのゑハ おのれがこゝろひとつよりくふうして ゑがくときハ しんらばんぞう そのかたちのならざることなし」と書き、全ての絵は工夫して描けばどんな形にもなると、文字絵を文字の側からではなく、絵の側から説明しています。

山東京伝

奇妙図彙 (訓蒙図彙集成 第18巻 / 朝倉治彦監修 東京 : 大空社, 2000 【UR1-G54】より)

戯作者としても有名な山東京伝も、享和3(1804)年に『奇妙図彙』という作品を残しています。これは、文字で、人の職業や人そのものを図案化したものです。また蜃気楼をしんきろうという5文字で表現するなど、人物のみならず、さまざまなものを図案化しています。紹介する図は、「人丸」と「梅」です。人丸は前に紹介した人丸図とは少し違います。漢字で人丸や梅の木を描いていますが、もはや遊びではなく芸術の域かもしれません。山東京伝は序文のなかで、文字と絵はもともとひとつのものだということを述べています。文字があれば、形があり、形があれば文字があるとして、文字と絵との境界線を遊び心豊かに飛び越えてみせました。

「梅の木」と「人丸」の図

「梅の木」と「人丸」の図

文字廼戯画 : 奇妙図彙 / 井上吉次郎編 東京 : 井上吉次郎, 1884【特41-388】

上で紹介した『奇妙図彙』と、この1884年に刊行された『奇妙図彙』は、大まかな図はほとんど同じなのですが、細かい部分は多少違っています。例えば、本書の絵では、人丸の衣の部分に模様が入っており、また梅の木の枝の生えている方向も違っています。掲載されている図にも異同があります。著者として山東京伝の名はありません。庭花堂(井上吉次郎)の署名と明治17年出版とあることから、明治の出版人井上吉次郎が編集し、手を入れて出版したのかもしれません。明治になってもこうした文字絵が伝わっていたことがわかります。

コラム文字と権力

幕府は「言葉と絵を象徴的な権力の源」と認識しており、元禄元(1688)年、将軍綱吉は娘の名前が鶴姫であったことから、他の人の名前に「鶴」の字を使うことを禁じています。さらに2年後には、紋やその他の図柄に鶴を使うことも禁じました。こうした禁令は厳守させられたので、商人は、屋号を変えることを余儀なくされ、有名な歌舞伎の中村座は、座紋を円郭舞鶴から銀杏に替えなければなりませんでした。これにより、井原西鶴は井原西鵬に名前を変えざるを得なくなったそうです(青山青果『鶴字法度』 (真山青果随筆選集 第2巻 1952)【914.6-M439m】)。ただ、井原西鶴は頻繁に改名していたことから、直接的な因果関係があるかは断言できません。
こうしたことからも、町人にとって「言葉や絵で遊び、巧妙に意味をすり替えて戯れること」が要求されていたといえるでしょう。

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参考文献



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