鉄道は、日本各地の景観を大きく変えました。駅を前提としたまちづくりが始まり、沿線には新しい住宅地や娯楽施設が生まれました。
第3章では、駅の成立や、沿線開発が日本各地のまちを大きく変える様子を紹介します。
東京に誕生した主要駅の様子を振り返ります。駅の設立や鉄道の整備によって、大名屋敷の跡地や閑散とした空き地は、人々が集まる近代的空間や交通の要所へと変化していきました。
新橋駅は鉄道開業式の翌日、明治5(1872)年10月15日より営業を開始しました。開業翌年からは旅客営業に加え貨物営業も行うようになり、新橋駅には旅客用・貨物用施設のほか、車両修繕施設、機関車庫・客車庫、官舎など、さまざまな施設が集中することとなりました。そして何より利用者数が増加したことで、新橋駅は一大ターミナルとしての役割を担うようになったのです。
地域経済の発展とともに旅客、貨物が膨れ上がるにつれ、旅客駅、貨物駅、貨車操車場、工場などの機能がそれぞれ分離・独立していくことになります。やがて、大正3(1914)年、新橋駅は旅客専門の東京駅の開業とともに貨物専門となって「汐留駅」と改称され、付近の「烏森駅」が「新橋駅」と駅名を変更することとなりました。
上野駅は、明治16(1883)年、日本初の私設鉄道である日本鉄道会社が上野~熊谷間を開通させたことで誕生しました。寛永寺の子院跡地に建設されたこの駅には、東京と北関東を結ぶとともに横浜や西日本へ至る官設鉄道の路線と接続することで、鉄道の利便性を向上させることが期待されていました。
明治17(1884)年には上野~高崎間が開通しました。その後も、同年中に高崎~前橋間、明治18(1885)年に高崎線の赤羽から官設鉄道の品川に支線を設けて接続するため、品川~赤羽間を結ぶ品川線(現在の山手線の一部)が開通しました。なお、仮駅舎で営業していた上野駅の正式な駅舎が完成したのは、この年の7月のことでした。
各方面への路線が開通し、利用者が増えると、利用者へのサービス向上が図られます。明治30年代には、待合室が増設され、旅客の案内にあたる線路案内人が設置されて、上野駅はにぎわいました。
明治18(1885)年、品川~赤羽間を結ぶ品川線の開通とともに、新宿駅が開業しました。今でこそ日本一の乗降客数を誇りますが、開業当時は1日の乗降客数は50人ほど、駅前には茶屋や旅人宿があるだけという閑散としたものでした。
しかし、4年後の明治22(1889)年、新宿~立川間を結ぶ甲武鉄道の開通により、2つの私鉄の接続駅となりました。これにより、町はずれの駅に過ぎなかった新宿駅はターミナル機能を担っていくことになりました。
東京駅が開業したのは大正3(1914)年12月でした。東京駅の設置は、明治22(1889)年の東京市区改正計画において、官設鉄道のターミナル・新橋駅と日本鉄道会社のターミナル・上野駅の間を結ぶ鉄道の建設に盛り込まれました。
また、明治維新後は陸軍用地だった丸の内は、三菱に払い下げられて「三菱ヶ原」と呼ばれました。三菱は、この地に続々と洋風のオフィスビルを竣工していきましたが、交通の便が悪かったことから、三菱以外のビルは全くない状態でした。しかし、東京駅の開業により交通の利便性が向上したことで、東京海上ビルディングをはじめ、ビルの建設が相次ぎ、丸の内はビジネスセンターとして発展を遂げていきました。
鉄道網の発達は、大都市への人口集中を助長し、その発展に寄与しました。その傍ら、「郊外」(都市周縁部)での暮らしへの期待と需要にいち早く着目したのが、各地の私鉄でした。
ここでは、私鉄企業により起こったまちづくりの先駆けとなった、小林一三の箕面有馬電気軌道(現:阪急電鉄)の例や、私鉄各社が進めた住宅地や娯楽施設といった各種沿線開発の様子を紹介します。
全国に先駆けて沿線開発が進んだのは、一大工場地帯を中心に発展していた大阪周辺だったとされます。中でも、明治38(1905)年に開通した大阪と神戸を結ぶ阪神電気鉄道の沿線には、大阪財界人達がこぞって別荘や邸宅を構える高級住宅街が形成されつつありました。
そんな阪神地域で明治40(1907)年に設立された、小林一三率いる箕面有馬電気軌道は、比較的後発の私鉄でした。加えてその路線は、大阪梅田から宝塚(当初計画では有馬温泉)と箕面公園へと至るというものであり、始点と終着点以外の沿線には特筆すべきものが何も無かったため、会社設立後もその収益の見込みを危ぶむ声は少なくありませんでした。
しかし小林はこの状況を逆手に取り、住宅地に適した多くの沿線の土地を安価で買い集め始めたのです。そして明治43 (1910)年、開通と同時に、池田室町住宅地(大阪府池田市)における住宅地の分譲を開始しました。
小林の手法の特徴は、当時増大しつつあった俸給生活者、つまりサラリーマン層をターゲットとして、住宅地の賃貸・分譲のみならず、住宅を建てた上、その賃貸や10年間の月賦販売を行ったことなどにありました。
小林が確立させたこの住宅地開発の経営モデルは、これ以後大正、昭和にかけて、全国の近郊私鉄を中心に、あるいは不動産業、電力業が鉄道業を巻き込む形で引き継がれ、数多くの沿線における住宅地開発が推進されることとなりました。
関西圏にやや遅れを取ったものの、東京圏でもこの小林の手法にならった郊外私鉄による沿線の住宅地開発が行われました。
その代表例として挙げられるのが、五島慶太が主導した目黒蒲田電気鉄道と旧東京横浜電気鉄道(※)による開発事業です。その前身は、渋沢栄一らによる田園都市会社(大正7(1918)年設立)であり、事業の出発点は小林の事例とは異なり不動産業でした。
※大正13(1924)年10月に五島が武蔵電気鉄道の株式を買収し、東京横浜電気鉄道と改称し専務取締役となるなど、その経営実権を掌握した。
田園都市会社は洗足・大岡山・多摩川台(現:田園調布)の開発を行う過程で、この地域を結ぶ鉄道を計画しており、五島はその鉄道部門を大正11 (1922)年に傘下鉄道会社・目黒蒲田電気鉄道として独立させました。
その後、目蒲線(目黒~蒲田駅間)、神奈川線(丸子多摩川~神奈川駅間)、渋谷線(渋谷~丸子多摩川駅間)の開通と同時並行で行った分譲地の販売は好評を博しました。そして、昭和3(1928)年には田園都市会社を合併・吸収し、鉄道業が不動産業を呑み込む事例となりました。
小林一三は住宅地開発のほかに、鉄道の利用者増を狙って、明治40年代、沿線に箕面動物園や宝塚新温泉といったレジャー施設を開業し、成功を収めます。中でも、宝塚少女歌劇(現:宝塚歌劇団)は、現在も多くの人々を楽しませる一大事業に成長しました。
宝塚でのレジャー施設の成功は関東にも波及し、西武鉄道が吸収した豊島園、小田急電鉄の向ヶ丘遊園、京成電鉄の谷津遊園など、私鉄各社は旅客誘致と沿線開発のため、大正から昭和初期にかけて次々とレジャー施設を開設していきます。これらは皆、沿線に住まう人々の生活に華を添えるものとなりました。
また現在では日常風景の一つとなっているものとして、鉄道会社が運営するデパート・商業施設が挙げられます。その先駆けともいえるのが昭和4(1929)年に開業した阪急百貨店です。その誕生の背景には電鉄のターミナルである梅田に百貨店を立地させることで、集客の経費をカットし、廉価に商品を供給することを可能にするという小林の戦略がありました。
この成功により、以後、数多くの電鉄会社が百貨店業界へ参入しました。
次は 第4章
旅行・観光
For Train Trip