─江戸の双六─
各地への旅行を主題とした双六が、広く道中双六と呼ばれるようになったのは、17世紀末ごろのことでした。江戸時代には、交通網の整備や治安の改善などによって、旅に適した環境が整えられていきましたが、それでも多くの人々にとって、特に遠隔地への旅は、まだ難しく、憧れの対象でもありました。話には聞くけれどもなかなか旅に出られない人々の間で、手軽に旅の気分を味わえる遊びとして普及したのが、道中双六や名所双六です。ここでは、江戸時代の代表的な道中・名所双六をご紹介していきます。
江戸時代、道中双六は数多く作られましたが、その中でも特に多かったのが東海道双六でした。ここには、江戸の庶民が、遠く離れた上方に強い憧れを抱いていたことが垣間見えます。東海道双六には、江戸・日本橋を出発点として西へ向かい、京都で上がりとなるところは共通でも、さまざまな特色を持つものがありました。この「参宮上京道中一覧双六」は、京都に向かう途中、伊勢神宮に立ち寄る形式になっています。右下が振り出しの日本橋、右上が上がりの京都で、真中には富士山。実際の地理とは異なりますが、ダイナミックな構図です。当時の一般的な双六と異なり、マスを並べたつくりになっておらず、また全体が鳥瞰図の形で描かれていることも特徴的で、美術的にも価値の高い作品と言われています。
東海道双六には、さまざまな要素が取り込まれましたが、享和2(1802)年に出版された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が大流行すると、その内容を盛り込んだ双六が多く現れました。この「浮世道中膝栗毛滑稽双六」もその一つです。それぞれのマスに描かれている情景が、『膝栗毛』のワンシーンであったり、出発地が東海道の起点の日本橋ではなく、『膝栗毛』の主人公が住む神田八丁堀になっていたりと、随所に物語と双六の内容を関連づけるような工夫が見られます。
道中双六の中には、少し変わったものもあります。この「善悪道中寿語六」は、実在の場所が取り上げられているわけではなく、人生の節々をたとえた場所が描かれています。「禁酒堂」「辛抱峠」「油だん坂」を越えて「楽の海」「老の坂」を通って上がり、という筋書きは、どことなく教訓めいた感じがします。
もともと、絵双六の始まりは、仏教の教えや勧善懲悪をテーマとした浄土双六・仏教双六とされ、単なる娯楽というだけでなく、道徳や教訓を伝えるような要素を持ち合わせていました。こうした部分は、明治期の教育双六に受け継がれていきます。
名所双六の中でも、江戸各地の名所を扱ったものは、代表的なジャンルの一つでした。この「江戸名所四季遊参双六」では、「隅田川の月」「小松川の初雁」「上野のさくら」など、四季折々の江戸の名所が描かれています。振り出しは「日本橋の初富士」で、上がりは「浅草市」になっています。
随所のマスに、一回休みを表す「泊」の表示があったり、上がりのマスに到達する際、サイコロの目に余りが出た場合は前のマスに戻るよう指示が書かれていたり、さらには廻り双六でありながら、離れたマスに飛ぶ指示が書かれたマスがあったりと、様々な仕掛けが盛り込まれています。
こちらは江戸近辺の名所として、鎌倉や江ノ島などを扱った双六です。鎌倉の大仏や、七里ガ浜、相模の大山などが描かれており、図画は高名な浮世絵師、葛飾北斎の作品です。江戸時代の道中・名所双六は、旅の道中案内のような位置付けもあったとされ、この双六にも、それぞれのマスに、次のマスに描かれている場所までの距離が記されています。
一回休みのマスがある以外は、順番にコマを進めていくシンプルな廻り双六に見えますが、よく見ると上がりがありません。振り出しの江戸・日本橋を出発して、渋谷、品川等を経て近郊の名所をめぐった後に、再び日本橋へと戻るようになっています。
江戸以外の名所を取り上げた名所双六も登場しました。「新板日本名所名物飛廻双六」は、日本全国の名所と、その名物を取り上げています。振り出しは紀州熊野浦のくじら取りで、住吉大社の潮干狩りが上がりです。
双六の形式は廻り双六ではなく飛び双六ですが、ある程度、外側のマスから廻って内側のマスへと進んでいくようになっています。上がりの一つ前のマスでは、サイコロの目で1が出ると上がれますが、6が出ると、振り出しに戻る、とまではいかずとも、大幅に後退して、一番外側の京のマスまで戻されてしまいます。
名所双六は、地域ごとのものに留まらず、特定のテーマに沿って全国各地の名所を取り上げたものもありました。18世紀以降、旅に出る人々の多くが、神社や仏閣への参詣を目的としていましたが、そうしたブームに乗ったと思われる双六が多く作られました。その一つ、全国の有名神社を集めた「大日本神社双六」は、鹿島神宮、香取神宮、息栖(いきす)神社の関東三社を出発して、伊勢神宮の内宮である天照皇大神宮が上がりになっています。
双六の対象は、国内に留まりませんでした。むしろ、遠く離れた土地への憧れという点からすれば、当時の庶民にとってほとんど想像の域を出なかった海外の名所が取り上げられたのは、自然なこととも言えるでしょう。明治初頭に描かれたと思われる「大千世界国づくし寿語六」は、日本の地名は東京と横浜のみで、あとは「いぎりす」「あふがにすたん」「せいろん」など、全て海外の地名が描かれています。
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2 人物を描いた双六