プロイセン人Heinrich von Brandtの戦術書Grundzuge der Taktik der drei Waffen(1833)のオランダ語訳書Taktiek der drie wapens; infanterie, kavalierie en artillerie(1837)を日本語に重訳したもの。三兵とは歩兵、騎兵、砲兵のことを言い、タクチーキとは、用兵術のことである。本書は、蛮社の獄(1839)により服役した高野長英が脱獄後、潜んでいた宇和島で翻訳したと言われている。
江戸時代後期の日本において西洋兵学の受容が始まったのは、ロシア人の択捉攻撃(1797)やイギリス軍艦フェートン号の長崎不法侵入(1808)などを契機として、東アジアにみなぎる不穏な情勢に日本人が危機感を抱いたからである。すなわち、北からロシア、南からイギリス、そして東からアメリカが日本への脅威として迫ってくるなかで、幕閣や諸大名、各地の武士たちは、それら列強と同等の力を持っていると当時考えられていたオランダから、海軍、陸軍、砲術や築城といった分野での専門知識を導入し、それによって欧米諸列強の侵略に対抗しようとしたのであった。
こうした状況の中で、オランダから出島経由で続々と兵学書が輸入されて日本各地へ運ばれ、また、ペリー艦隊の来航(1853)とそれに続く各国との和親条約締結以降は、長崎に海軍伝習所が作られ、オランダ人教官が、オランダから回航された船舶を使って日本人子弟に航海術などを伝授した。また、江戸でも講武所が設けられ、オランダ兵学書の訳本を使った陸軍の教練が開始された。
しかし、明治維新(1868)によってこうしたオランダ兵学受容の動きは終局を迎え、明治政府は、海軍についてはイギリスから、陸軍についてはフランスやドイツから学ぶ道を選択したのであった。
江戸幕府は、文政8年(1825)に異国船打払令を発し、日本沿岸に出没する異国船を砲撃して追い払うよう命じたので、沿海の諸藩も、砲台の設置や大砲の入手に着手した。こうして江戸湾のお台場を始めとして、浦賀、那珂湊、田原、舞子、壇ノ浦、宇和島、鹿児島などに砲台や砲座が設置された。これらの砲台設置に際しては、オランダの沿岸砲術の本が参考にされた。
Delft: B. Bruins, 1832. 1 v. <蘭-453>
28巻 葛爾甸著 [宇田川榕庵ほか訳] [大野] 大野文庫(蔵版) 安政1(1854)刊 13冊(合7冊) <W451-N16>
J. N. カルテンの海上砲術書。天保12年(1841)幕府は天文方に本書の翻訳を命じ、14年(1843)に宇田川榕庵、杉田立卿ら6名による翻訳が完成した。翻訳は画像にある蘭書を使って行われたと思われる。刊本は安政元年に越前大野藩から刊行された。なお、翻訳は別に藤井三郎が弘化4年(1847)に行ったものも写本で伝わっている。
's-Gravenhage: E. Doorman, 1839. 1 v. <蘭-2435>
8巻 袁厄爾白而都著 西村鼎(茂樹)訳 自筆 3冊 <827-136>
オランダ人J. M. エンゲルベルツの沿岸防衛ハンドブック。当館には本蘭書の複本が11冊あり、幕末の日本で本書が広く読まれていたことがわかる。『防海要論』はこの沿岸砲台の構築運用の概説書を幕末・明治の洋学者西村茂樹(1828-1902)が訳したもの。元治元年(1864)成立といわれている。
Proeve eener verhandeling over de kustverdedigingと『防海要論』の比較ページへ
幕府は、1840年のアヘン戦争以後、英国軍やフランス軍が日本に攻めてくる可能性が大きいと考え、これに対抗するため兵制の改革に着手した。こうした改革に与って力があったのが、長崎出身の高島秋帆(1798-1866)である。彼は、天保11年(1840)に西洋火器の導入を訴える建白書を幕府に提出して聞き入れられ、翌天保12年に武州徳丸ヶ原(東京都高島平)でモルチール砲(臼砲)やホイッスル砲(榴弾砲)、小銃を用いて西洋砲術のデモンストレーションを行い、幕府の役人や諸大名に強い感銘を与えた。これ以後高島流砲術が天下に広まり、伊豆韮山の代官江川太郎左衛門などが彼に弟子入りして西洋砲術を学んだ。
また、英国船などの脅威にさらされている沿海諸藩ではオランダの兵学を取り入れ、藩兵の訓練や強化に役立てた。
27巻 ペインリフ・ポン・ブランドト著 ハン・ミルケン訳 [高野長英重訳] 刊 25冊 <わ399-4>
プロイセン人Heinrich von Brandtの戦術書Grundzuge der Taktik der drei Waffen(1833)のオランダ語訳書Taktiek der drie wapens; infanterie, kavalierie en artillerie(1837)を日本語に重訳したもの。三兵とは歩兵、騎兵、砲兵のことを言い、タクチーキとは、用兵術のことである。本書は、蛮社の獄(1839)により服役した高野長英が脱獄後、潜んでいた宇和島で翻訳したと言われている。
西村茂樹 安政7(1860)写 1冊 <827-175>
西村茂樹がプロイセン軍人G. von Sharnhorstの著Militarisches Taschenbuchのオランダ語訳本であるMilitair zakboek tot gebruik in het veld(1828)を手写したもの。
自筆 16冊 <827-185>
Breda: Broese, 1850. 2 v. <蘭-1686> <蘭-1856>
4巻 大鳥圭介訳 [江戸] 縄武館(蔵版) 文久1(1861)刊 4冊 <W451-N17>
原書はオランダ語の砲術学ハンドブック。第1巻の著者はO.H. KuijckでTechniekと題され、第2巻の著者はJ. P. C. van OverstratenでTaktiekと題されている。この画像は第2巻。『砲火新論』は大鳥圭介が翻訳し、大鳥活字と呼ばれる金属活字で印刷された。当館所蔵本は、その後整版印刷により刊行されたものである。
高島秋帆[ほか著] 求実館蔵板 元治1-慶応1(1864-65)刊 5冊 <W352-15>
オランダ語原書Reglement op de exercitien en manoevres der infanterie(1861)の日本語訳。
7巻 格能被著 大村益次郎訳 [萩] 明倫館(蔵版) [慶応3(1867)]刊 7冊(合4冊) <118-150>
幕末には、オランダの築城技術書に基づき、大砲の砲撃に耐えうる城郭の建設が試みられた。北海道の五稜郭(1866)や長野県の龍岡城(未完成)がその例である。
2. druk. 's-Hertogenbosch: Muller, 1852. 1 v. <蘭-3156>
5巻 吉母波百児著 大鳥圭介訳 陸軍所 元治1(1864)刊 5冊 <W442-2>
原書はC.M.H. ペル著の築城技術ハンドブック。大鳥圭介によって『築城典刑』という題で翻訳され、万延元年(1860)に刊行された。当館所蔵本は、元治元年(1864)に刊行されたものである。福沢諭吉(1835-1901)は、このオランダ語原書を中津藩家老の子奥平壱岐から借りると、半月あまりで全部筆写し、大坂の適塾復学の際に持参した。この原書の翻訳を提供するという名目で学費が免除されたという。
Handleiding tot de kennis der versterkings-kunstと『築城典刑』の比較ページへ
幕府は兵制改革を行う際にオランダ王国軍の軍制や軍服、装備、教練法を参考にした。
's-Gravenhage: G. van Cleef, 1823. 1 v. <蘭-832>
セウプケン著 山脇正民訳 村上文成画 安政5(1858)刊 1冊 <W442-30>
Jan Frederik Teupken(1795-1831)のオランダ語原書Beschrijving hoedanig de Koninklijke Nederlandsche troepen…の図版の部は山脇正民が翻訳し、縮小された画入りで刊行された。図版中でオランダ軍人が背負っている背嚢(Ransel)は、明治期の日本の学校に取り入れられ、学童のランドセルとなった。
Beschrijving hoedanig de Koninklijke Nederlandsche troepen…と『和蘭官軍之服色及軍装略図』の比較ページへ
幕府はオランダからファビウス中佐の乗るスーンビン号が1854年8月に長崎に到着したのを契機に、長崎に海軍伝習所を設け、船舶の操縦法その他の技術をファビウス中佐に教授させた。ここでの伝習生に勝海舟がいる。ファビウス中佐に次いで1857年9月に来日したカッテンディーケなどのオランダ軍人もこの海軍伝習所で日本人子弟を教え、ここでの教育の成果は、咸臨丸の太平洋横断(1860年)という形に結実する。また、神戸にも海軍操練所が設けられ、勝海舟が教育に携わり、坂本竜馬や伊達小次郎(陸奥宗光)などの子弟を教えた。これらの教育機関は比較的短命に終わったが、近代日本の海軍の始まりとして重要である。
1冊 <勝海舟関係文書93>
長崎海軍伝習所の受講生名簿原本。全41名。蘭方医で将軍家茂の侍医を務めた松本良順や、明治期に海軍中将となった赤松大三郎(則良)の名が見える。本史料は安政4年(1857)現在のもの。
Desima: Nederlandsche Drukkeriji, 1861. 1 v. <貴-6434>