5 海外知識の導入

海外から導入されて和算に取り込まれた知識に関係する資料を紹介する。

西洋の数学が導入される以前は、主として中国からの知識が重んぜられていたので、中国から伝来した知識を基にした資料も取り上げている。

次いで、西洋数学の導入に積極的であった戸板保佑に関する資料(『仙台実測志』)や、直接的に西洋の数学を紹介している資料を展示する。

中国由来の数学

1 算経九章
写 1冊 <139-111>

著者、年代ともに不明の写本。タイトルにある「九章」とは、古代以来の伝統的な中国数学の内容を総括したもの。中国の古い数学書『九章算術』という教科書の章立てにならっている。(その九章とは「方田」「粟米」「差分(衰分)」「少広」「商功」「均輸」「盈縮(盈不足)」「方程」「句股」。田畑の面積計算、立体の体積計算、交易に必要な比例式、平方根、立方根の計算、一次の連立方程式、直角三角形の問題などが収録されている。)

『九章算術』には一般的な算数の問題も含まれているが、主として役人が行政の現場で必要とする算術をまとめた教科書である。紀元後一世紀頃に成立した本であるが、その後の数学の教科書の模範とされている。日本には平安時代に伝来した形跡があるが、いつしか忘れ去られ、江戸時代になって再び伝来している。

ただし、本書はオリジナルな『九章算術』をなぞったものではない。「九章」の内容に準じた例題、数表をメモ的にまとめたものである。(若干、計算の間違いなども散見される。)和算においても中国的な「九章」を意識する側面があったことを見せてくれる資料である。

2 算学秘要
蒔田雁門著 写 1冊 <わ419-2>

本書は、度量衡、暦、算学に関する雑録である。古代中国の数学に典型的な「九章」の例題、あるいは方程式に相当する天元術、関孝和(?-1708)の『括要算法』の抜粋などが順不同にまとめられている。内容の多くは、中国の古典から抜粋したものである。一部、日本の和算書からの引用も含まれている。その中に、蒔田雁門(忠貞)「度考訂義」が収録されている。(他の部分は著者名を欠いている。)

ここで名前の挙がっている蒔田(?-1850)は福井藩の人で漢学者。一時大坂に出て私塾を開くなどもしている。この雑録を見る限り、相当程度、暦・算学に関心を持っていたことがうかがえる。本書は、漢学者として必要な情報の備忘録と位置づけられる。

3 数学捷法
蒔田雁門著 写 1冊 <わ419-3>

本書もまた前項と同様、蒔田による雑録である。冒頭に序文を置き、添削の跡が残されている。完成稿ではないようである。

古代中国の算術である「九章」の解説、中国歴代の王朝の記録に残された算術書の一覧、算術家ごとに計算された円周率の値の一覧などをはじめとして、順不同に和漢の算術の話題がメモとして書き記されている。

西洋の知識・数学

4 仙台実測志 2巻
戸板保佑著 写 2冊 <139-62>

著者の戸板保佑(1708-1784)は仙台藩の和算家・暦学者。宝暦年間の改暦事業の際、仙台藩命により京都に赴任し、幕府天文方で関流の和算家であった山路主住(1704-1772)に会い、関流を修める。その縁で戸板は関流の和算書を多数伝授され、帰郷後、晩年に至るまで『関算四伝書』の編纂に心血を注ぐ。和算の他にも戸板は天文暦学の叢書を編纂し、『崇禎類書』、『天文秘書』等をまとめている。

本書は、戸板が仙台において実測した日食や月食の観測記録と、天文観測に必要な数表をまとめたものである。享保から安永年間のもの(1729-1780)で、地方の天文学者が継続的に観測した記録として貴重。展示本は、奥州水沢の和算家・小圃仲達による筆写本である。

5 籌算式
有沢致貞著 写 1冊 <140-210>

著者の有沢致貞(1689-1752)は、金沢藩・前田家に仕えた兵学者。測量術と算術にも多大な関心を示し、多数の著作を残している。

本書『籌算式』はヨーロッパで開発された計算札(ネイピア・ボーン)の解説書である。札を並べて乗除の計算を自在にできることで、西洋では重宝された。日本には中国から長崎を経由して、その知識が輸入されている。有沢は、珠算が商人の卑しい技であるので、武士はこの籌算を用いれば良いという趣旨を記している。西洋由来の数学が、当時の武士階級にどのような印象を持って取り入れられたのかを語る一冊でもある。

6 渾発用法
写 1冊 <181-278>

著者、年代ともに不明の写本であるが、18世紀後半から19世紀にかけて記された写本と想定される。

西洋のコンパス(渾発)による各種図形の作図、西洋の遠近法によるスケッチ、地球の経緯度、測量法などが雑然と記されている。特にコンパスによる作図法は、和算家がほとんど取り上げなかった話題で、筆者が西洋の知識に多大な関心を有していたことがうかがえる。このような写本が残されていることからも、和算家の間には日本の事物ばかりにとらわれることのない人たちのいたことがわかるのである。

ページ先頭へ