第1章 公家の成人

日本において史料で確認できる最も古い成人儀礼は、公家の間で行われていました。
第1章では宮中や公家の成人儀礼について紹介します。

冠礼と元服

古代中国では祝賀の礼の一つとして、「冠礼」が行われていました。冠礼では成人する人に3つの冠を授けることで社会の一員として認め、一定の年齢に達して婚姻が可能になること、また氏族の成人の一人として様々な活動に参加できることを示す目的がありました。

禮記

儒教の経典の一つ『礼記』でも冠礼について記載がある。
「故曰冠者禮之始也」

このような冠礼が日本に伝わり、成人儀礼として受け継がれていきました。

日本で成人儀礼として冠礼が行われるようになったことについて史料で確認できる最も古い例は、奈良時代の和銅7(714)年に行われた首(おびと)皇子(後の聖武天皇)のものです。ここでは、頭に冠を加える儀式である冠礼が「元服を加える」と表現されています。「元」は首または初め、「服」は着物や冠を指しているとされます。

続日本紀

和銅7年6月庚辰の条「皇太子加元服」

宮中・公家男性の成人儀礼

元服は、天皇であればおおよそ11歳から15歳まで、皇太子であれば11歳から17歳までのうちに行われました。
元服式は身分によって違いがありましたが、「理髪の役」と「加冠の役」の二つの役割があります。まず理髪の役の人が髪を中央から左右に分け、髪を解き、紫の組み紐で髷を結び、小刀で毛先を切ります。より重要なのが加冠で、加冠の役の人が冠を取ってかぶせます。加冠の役は童子の髪を取って冠の中に引き入れたため、「引入(ひきいれ)」とも呼ばれました。
天皇の元服の場合、「能冠の役」がつく場合もありました。この場合、能冠の役の人が始めに髪を整えて空頂黒幘(くうちょうこくさく)という冠を頭にかぶせると、理髪の役が空頂黒幘を脱がせ、加冠ののち髪を整えました。
天皇の元服では加冠の役は太政大臣、理髪の役は左大臣かこれに準ずるもの、能冠は内蔵頭が主に当たりました。皇太子の場合、能冠の役はないものの空頂黒幘を使いましたが、親王以下では空頂黒幘もありませんでした。
元服の儀式は原則として正月の一日から五日までの間に行われましたが、喪を避け、陰陽師に命じて吉日を選ばせました。時刻としては夕方から夜にかけて行われたようです。

冠帽図会

天皇が元服のときに加冠前につける冠の一種である空頂黒幘

他にも成人すると、眉毛を剃り下ろして元の眉毛よりも上の方に墨で丸く眉をかく高眉や、鉄漿(かね)で歯を黒く染める鉄漿つけ(お歯黒)を行いました。また、動きやすい闕腋袍(けってきほう。脇開けの衣のこと)をやめて、縫腋袍(ほうえきほう。脇を縫い塞いだ衣)を着るようになりました。

源氏物語講義

元服前と元服後

旧儀装飾十六式図譜

天保5(1834)年11月26日の九条幸経卿の元服式を基に、江戸時代の公卿の元服式の執り行われる冠儀の間の様子を再現した図

笄礼けいれい初笄ういこうがい

一方、女性はどのような儀式を行っていたのでしょうか。
女性にもやはり成人の儀式が存在していたことが、10世紀ごろまでの宮中の女性の様子が描かれた『源氏物語』や『栄花物語』といった王朝文学、及び『日本紀略』や『西宮記』などの記録からうかがい知れます。
冠礼と同じく、女性の成人式は中国で成人儀礼として行われた笄礼が基となっています。古代中国の笄礼は15歳、あるいは婚約から結婚までの間に行われ、幼年時代からの髪型を変えて髪を頭の上にまとめ上げてかんざしを挿すものでした。
平安時代初期から中期にかけては笄(こうがい、髪飾りの一種)で垂髪を束ねて結髪にする初笄が行われていました。
初笄は婚姻と同時期に行われることが多かったため、主に夫となる人が髪を結う役を務めました。

日本風俗画大成

初笄に使った道具

裳着もぎ

平安時代中期以降は成人女性も垂髪とするのが主流になったこともあって、裳(下袴)を初めて身に着ける裳着が行われるようになり、しだいに儀式の中心となっていきました。10世紀初頭から中期かけては儀式の中で初笄と裳着の両方が行われるようになりました。儀式には裳の腰を結ぶ「腰結(こしゆい)の役」、髪を結い上げる「結髻(けっけい)の役」「理髪の役」がありました。なかでも腰結の役は元服の加冠の役に相当して最も重要視され、吉日を選び、権力者や一族の長老の者が務め、皇女の場合は天皇が結ぶこともありました。

源氏物語

裳着の準備として、源氏が紫の上の髪を削ぎ整えている様子

10世紀には昼、または夕方から夜にかけて裳着の儀式が行われていました。午後8時から10時、ときには真夜中1時ごろまでかかることもありました。『栄花物語』では当時11歳であった禎子(ていし)内親王が裳着に際して眠そうな様子が以下のように書かれています。

栄花物語

三条天皇皇女禎子内親王の11歳の裳着の式

御燈油のほのかなるに、姫君いとねぶたげにおはしますに…御腰結はせ給ひて、いとねぶたげなる御気色なれば、かくて御裳着せさせ給へれば、夜更けて明日もとて還らせ給ふ。

公家の女性の成人は政治的な意味合いを多分に持っています。多くの公家や親族を招いて行うことで、女性に強力な後ろ盾がいることを見せつけ、より条件のよい結婚相手を得ようとする狙いがありました。10世紀後半には入内や婚姻に合わせて裳着を行うこともありました。
反対に、父やその代わりとなる祖父の不在で十分な後見が得られない場合は、18歳ごろに執り行い、ときには行われない場合もありました。『落窪物語』では正妻である北の方の娘の三の君、四の君の裳着について触れる一方で、既に亡くなった女君の娘である落窪の君の裳着は描かれていません。これは落窪の君が継母から虐待を受けており、また父親である中納言からの愛情も薄かったためと考えられます。

女性も成人すると眉毛を抜きそのあとに眉をかく引き眉や鉄漿つけを行っていたようですが、後世と異なり平安時代には儀式化されていなかったようです。

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