乱闘国会と衆院事務総長の嘆き
議会乱闘といえば、最近では韓国や台湾のケースがしばしばニュースで報じられていたが、もちろん日本でも過去に多くの前例があった。特に、昭和29(1954)年の警察法改正問題から昭和35(1960)年の安保国会までは頻発していた。
警官に守られて議場に向かう堤議長 『目で見る議会政治百年史』所収
昭和29年6月3日、国家地方警察と市町村自治体警察を廃し、現在のような都道府県警察を設置することなどを盛り込んだ警察法改正案を成立させるため、当時の吉田茂内閣は国会の会期延長を決めた。しかし、衆議院議院運営委員会でもめて収拾がつかず、委員長の強硬な態度でなんとか採決したが、社会党を中心とした野党側は収まらずに本会議での採決阻止をめざし、議場入口を封鎖し議長席を占拠した。これを与党側が解除しようとして乱闘となったのである。結局、堤康次郎議長が警察の出動を要請、約200名の警官に守られた議長は議場入口で2日間の会期延長を発言すると、与党側議員が起立し延長は成立した。この乱闘で50名の負傷者が出たという。この後、政党は諸方面からの非難を受け、当時の5政党が「自粛自戒し各党各々その立場を異にするも良識をもって法規典礼に従うとともに、政治道義を守り、もって人心におよぼした不安と失墜したる信用を速かに回復」したいと共同声明を出した(富田信男「凋落を辿る吉田政権」、同「55年体制と鳩山内閣」、内田健三他編『日本議会史録 4』第一法規出版、1990)。しかし、これで終わったわけではなかった。
益谷秀次 『議会制度百年史』国会史 上巻所収
この直後に吉田長期政権に終止符が打たれ、鳩山一郎内閣に替わった。鳩山は戦後政治の総決算を果たすべく、野党との対決姿勢を打ち出した。時を同じくして自由民主党と日本社会党が結成され、いわゆる55年体制が成立したため、対立の構図はより鮮明となった。昭和31(1956)年内閣は小選挙区法案を提出、4月30日に衆議院本会議が開催され議場は大混乱となって散会したが、翌日、益谷秀次議長は与党を抑えて法案を特別委員会に差し戻し、混乱を回避させることに成功した。その際に議長談話として「民主政治は話し合いによる政治であり、議会政治は国民の信頼を得ることが」重要なので「寛容さと忍耐が必要であることは言うまでも」なく、特に現在は二大政党による国会運営の最初の試練であり「早急な事態の解決のため、又は反対のために力を用うべき時代ではな」く、逆に早急な解決は「わが国と国民の将来の運命をかけた議会政治自体を危機に陥れる」(「議長談話(草案)「鈴木隆夫関係文書」」)と誇らしげに発表した。しかし、その一ヵ月後の新教育委員会法案では、抵抗する野党に対し6月2日払暁、参議院議長松野鶴平は警察官500名の出動を要請、本会議で自民党が中間報告を求める動議を出すと野党議員は議長席に殺到したが、議長は警察官に守られて動議を可決、その後一挙に法案も可決させたのであった。
清瀬議長の会期延長宣言 『目で見る議会政治百年史』所収
安保改定をめざす岸信介内閣は、さらに強い対決姿勢で議会に臨み、まず昭和33(1958)年10月には警察官職務執行法改正案を提出し、反政府運動の取り締まりを容易にしようとした。対して野党側は「デートもできない警職法」というスローガンのもとで大衆運動を盛り上げ、議会内では委員会室占拠、議長カン詰めと実力阻止に出た。このため結局同案は廃案となった。しかし本番の安保改定では、昭和35年5月19日夜から清瀬一郎衆議院議長が警察官500名を導入して野党議員を排除、本会議で新安保条約を強行採決したことは有名であろう。
鈴木隆夫 (国立国会図書館蔵)
このように乱闘華やかなりし時期に、事務次長・事務総長として衆議院の運営にあたった鈴木隆夫は「自分は何と云う運命の者であるかと思う。星島〔二郎〕・加藤〔鐐五郎〕・清瀬の三代の議長に亘って両党の話合のつかぬ議事を主宰して貰う羽目にあるとは」と自らの不運を嘆かざるをえなかった(6章 [総長所感日誌]「鈴木隆夫関係文書」)。
乱闘が「議会政治自体を危機に陥れる」ことは間違いない。しかし、当事者たちの少なくとも一部は、国家と国民の将来のために「話合のつかぬ」ことでも何とか回避しようと努めていたのであった。この時期の国会については、他の時代と比較しても真剣に討議が行われていたという見方もあり(福元健太郎『日本の国会政治』東京大学出版会、2000)、今後も検討が必要であろう。