終戦後、言論統制から解放された出版界は、深刻な紙不足のなか、図書・雑誌を次々と世に送り出しました。占領下の日本にアメリカの文化が続々と輸入され、「ベストセラー(ベストセラーズ)」という言葉もこのころから徐々に浸透していきます。終戦直後には、英語関連の手引書や、森正蔵著『旋風二十年 : 解禁昭和裏面史』(上、下)(鱒書房 昭和20(1945)-昭和21(1946) 【210.7-M786s-(s)】)など、戦争批判や戦時中の悲劇を語ったものなどが多く読まれました。また、戦後の解放感を背景に「カストリ雑誌」と呼ばれる大衆娯楽雑誌が乱立した一方、『西田幾多郎全集』(岩波書店 昭和22(1947)-昭和25(1950) 【121.9-N81ウ】)の発売に長蛇の列ができ、『漱石全集』(岩波書店 昭和22(1947)-昭和23(1948) 【918.6-N58-2ウ】)がベストセラーになるなど、戦前の文化や教養に対する関心も高いものがありました。その後、戦後の混乱期から経済成長の時代へと向かい、読者の興味や関心も変化していくなか、出版社はどのようにベストセラーを求めていったのでしょうか。
終戦直後の出版ブームが過ぎると、出版界の混乱や不況も手伝って、出版社は苦しい時代を迎えます。ベストセラーを出し、経営を安定させることに出版社の将来がかかっていました。このような中で、出版社は相次いで文庫、続いて全集を発行しますが、それは戦前の円本ブームの再来を思わせました。戦中・戦後に創立した出版社は、戦前から続く大出版社や、企画で先行するライバルに対抗し、経営を安定させようと悪戦苦闘します。第1節では、当時の出版社の奮闘ぶりを文庫ブーム、全集ブームを例に見ていきます。
三太郎の日記 : 合本 / 阿部次郎[著] [東京] : [角川書店], [昭和25(1950)] 【KH36-G236】
そもそも『三太郎の日記』は大正3(1914)年に、第1冊は東雲堂書店、ついで第2冊は岩波書店から出版されたものです。内容は、哲学や文学を手がかりに自己の内面と徹底的に向き合う、というもので、当時の旧制高校生、大学生の必読書として高い人気を誇りました。当時は、教養を大切にする空気が学生に強く浸透していたようで、教養を得るための読書は今よりもずっと重要視されていました。『日本読書新聞』(【YB-668】)が昭和21(1946)年3月に実施した再刊希望図書調査では、漱石全集や西田幾多郎、河合栄治郎、倉田百三らの著作を抑えて第1位になっています(参考文献『学歴貴族の栄光と挫折』p.294-295)。しかし、この作品をはじめて文庫化したのは、岩波書店ではなく、角川書店でした。
角川源義の時代 : 角川書店をいかにして興したか / 鎗田清太郎著 東京 : 角川書店, 平成7(1995).10 【UE57-G2】
『角川源義の時代』によれば、昭和20(1945)年に角川書店を創業した角川源義は、昭和24(1949)年に角川文庫を創刊し、岩波文庫の編集者であった長谷川覚を招きます。角川には、岩波書店への尊敬があったと同時に、当時の文庫販売の5割を占めていた岩波文庫への対抗意識があったようです。しかし、経営は安定せず、そこで、岩波でも文庫化されていなかった『三太郎の日記』を角川文庫に加えることで巻き返しを図り、成功します。続いて倉田百三や辰野隆などの作品も文庫化して好調な売れ行きを示しました。不況にあえぐ各出版社は、教養書・文学作品の文庫化を進め、昭和26(1951)年から翌年にかけて、文庫ブームが起きました。
現代日本文学全集. 第8 島崎藤村集 東京 : 筑摩書房, 昭和28(1953) 【918.6-G295-t】
昭和27(1952)年、戦前の円本ブームの火付け役となった改造社の『現代日本文学全集』にならって、角川書店が『昭和文学全集』(昭和27(1952)-昭和30(1955) 【918.6-Sy961】)を刊行して好評を博します。他社もそれに追随するなか、筑摩書店が刊行したのが『現代日本文学全集』でした。この全集では独自性を打ち出すべく、明治以降の主要作家・詩人の作品を配し、なかには『柳田国男集』を入れるなど本格的かつユニークな文学全集を目指し、全集ブームの中でもとくに成功を収めました。『芥川龍之介集』は昭和28(1953)年度の年間ベストセラーに入っています。そのなかでとくに出版社側の思い入れが強かったのが、第一回配本の『島崎藤村集』でした。
古田晁伝説 / 塩澤実信著 東京 : 河出書房新社, 平成15(2003).2 【GK55-H3】
『古田晁(あきら)伝説』によると、昭和15(1940)年に友人の臼井吉見らとともに筑摩書房を創設した古田晁は、戦後、太宰治の『人間失格』(昭和23(1948) 【a913-74】)などのベストセラーを手掛けましたが、経営は安定しなかったようです。臼井は、ベストセラー1、2冊で「好転できるほど生やさしい状況ではなかった」(p.179)と当時を回想しています。そこで臼井が提案したのが『現代日本文学全集』の刊行でした。初回配本に島崎藤村を選んだのは、角川の『昭和文学全集』が藤村を第1回配本に予定するも、版元の新潮社が許さなかったという事情があり、角川を上回る全集を作ろうという筑摩側の強い意欲、そして藤村が古田・臼井と同郷であり、かつ二人が畏敬する作家であったことがその理由だったようです。古田は新潮社と直談判し、出版にこぎつけました。一方、『島崎藤村集』が成功すると、当初予定の全56巻を全99巻に変更しますが、そこには、全集刊行によって安定的な収入を得ようという意図があったようです。
昭和29(1954)年、伊藤整の『女性に関する十二章』(中央公論社 昭和29(1954) 【914.6-I837z】)が「軽装版」(新書版)で発表されると、新書版の手軽さや、若い女性をターゲットにしたデザインが功を奏し、ベストセラーとなります。すでに岩波書店や河出書房、角川書店などが新書版を刊行していましたが、この本の出版を契機に、新書ブームが起こります。
昭和30年代に入ると、『愛と死をみつめて』(河野実,大島みち子共著 大和書房 昭和38(1963)【915.9-Ko639a】)をはじめ、週刊誌やテレビで紹介された本がベストセラーになるなど、メディアの影響が徐々に大きくなっていきます。また、教養を得るための読書だけでなく、趣味や仕事、あるいは生活に必要な事柄を知るための読書、という考えが広がっていきました。この節では、マスメディアが発達し、大量生産・大量消費時代へ移っていくなかで、読者の意識の変化に対応しつつ、ベストセラーをつくりだそうとする出版社の様子を追ってみましょう。
英語に強くなる本 : 教室では学べない秘法の公開 / 岩田一男著 東京 : 光文社, 昭和36(1961) (カッパ・ブックス)【830.7-I956e】
カッパ軍団をひきいて : 魅力を売りつづけた男たちのドラマ / 神吉晴夫著 東京 : 学陽書房, 昭和51(1976) 【UE57-32】
『カッパ軍団をひきいて』によれば、光文社の神吉晴夫は、『女性に関する十二章』が新書版だったことをヒントに、また、海外の軽装判(ペンギンブックス、ペリカンブックスなど)の名称にちなんで、光文社の新書版「カッパブックス」を創刊します。その第一弾、伊藤整の『文学入門』(昭和29(1954) 【901-I837b】)はベストセラーになりました。神吉は、従来のように作者から原稿をもらって出版する、という形ではなく、編集者が一人の読者(消費者)として読んでみたいものを、作者とともに創り上げるスタイルを掲げました。また、読者の興味を惹きつけるアメリカの雑誌広告に学び、新聞広告を積極的に活用します。光文社で初めて100万部を売り上げた『英語に強くなる本』は、「英語コンプレックス」を持つ人々が面白く学べる本だという「フンイキ」を出すため、題名も「新しい英語の学習法」から「英語に強くなる本」に変え(p.89)、広告では新聞・雑誌に掲載された反響記事や書評、読者の感想などを掲載し、購買意欲をかきたてました(p.93)。この手法で、光文社は黄小娥『易入門』(1961 【148.6-Ko389e】)や多湖輝『頭の体操』(昭和41(1966) 【Y77-671】)などのベストセラーを生み出し、注目を集めました。
国民百科事典 第1-7,補冊 / 平凡社編 東京 : 平凡社, 昭和36(1961)-昭和40(1965) 【031-Ko5472-H】
平凡社は、昭和5(1930)年に『大百科事典』(昭和6(1931)-昭和10(1935) 【616-1】)で成功を収め、"百科事典の平凡社"として知られています。しかし、昭和30(1955)年に刊行した『世界大百科事典』全33巻(補遺含む)(昭和30(1955)-昭和38(1963) 【031-Se1223-H】)は、約6万セット売れたものの、思うような売り上げではなかったようです。そこでコンセプトを変え、昭和36(1961)年、「一家庭一百科」をキャッチフレーズに刊行を開始しされた『国民百科事典』全7巻は、当初5万セット売れれば上々との見込みを大きく上回り、4年間で100万セットを売り上げました。『世界大百科事典』に比べると、項目は約4分の1の1万8千項目、価格は約6分の1の1万円でした。大卒初任給が約1万6千円だった当時、決して安い買い物ではなかったはずです。が、当初5万セット売れれば上々との見込みを大きく上回り、4年間で100万セットを売り上げました。その後、学研や小学館なども加わり、百科事典ブームに発展します。
「商品誕生(21) 百科事典」(朝日新聞[マイクロ資料] (昭和38(1963).8.14 5面)【YB-2】)
参考文献『平凡社六十年史』によると、社長の下中邦彦は昭和32(1957)年の段階で「ポピュラーな家庭向け」の"中"百科事典を構想し、『国民百科事典』第1巻の刊行直前には「私は国民百科を五年間で百万部売りたい」と語っていました(p.239-240)。「商品誕生(21) 百科事典」という新聞記事にある、「専門的過ぎる項目は落して、その代り税金、株式、家事、料理などの項目をふやしました」という編集担当者の言葉に、出版社側の狙いが見て取れます。また、テレビドラマ『バス通り裏』の出演者を起用した新聞広告も目を引き、月賦販売や、講習会の実施など、アフターサービスにも力を入れました。ともあれ、高度経済成長による購買力の向上や家庭教育への関心の高まりのなか、電化製品を一通りそろえた家庭が次に購入する「家具」として、あるいは、大人からこどもまで使える実用的なツールとして、百科事典が受け入れられていきます。
氷点 / 三浦綾子著 東京 : 朝日新聞社, 昭和40(1965) 【913.6-M562h】
昭和39(1964)年、朝日新聞社は大阪本社創設85年(東京本社は創設75年)を記念して、25年ぶりに懸賞小説の募集を行います。新人作家発掘と同時に、新聞読者の確保や企業イメージの向上を図るなどの目的があったといいます(参考文献『ベストセラー物語 中』p.300)。小説募集の段階から、作家や評論家による「懸賞小説に期待する」という連載を行うなど、積極的に応募を呼びかけました。そして731点の応募から当選したのが、三浦綾子の『氷点』でした。同年12月に連載が始まると人気を集め、連載最終日の翌日、昭和40(1965)年11月15日に単行本として発売されると、テレビドラマや映画の放映も後押しして、昭和42(1967)年2月までに70万部を超えるベストセラーとなりました。懸賞小説を復活させた出版側の狙いを超えて、メディアが人々の購読意欲をかきたてた一つの例といえそうです。
昭和30年代から40年代にかけて、読者のニーズを重視した光文社がベストセラーを連発する一方、教養に重点を置いた岩波新書も、西堀栄三郎の『南極越冬記』(昭和33(1958) 【297.9-N739n】)や、松田道雄の『私は赤ちゃん』(昭和35(1960) 【599-M267w】)などのベストセラーを出しています。スタンスの異なる両社の本が売れた背景には何があったのでしょう。
社会学者の加藤秀俊は「日本の新書文化」(『東京新聞』 夕刊(昭和37(1962).6.4-6.5【YB-15】)のなかで、新書の流行で、読書という行為が「知識階級だけの特殊な行為」でなく、「すべての人間の日常行為」に組み入れられるようになった、といいます。そのなかで、「永遠でかつ普遍」な知識と「現代的関心」との接点をさぐる岩波新書と、「現代に生きるための知識と技術」を提供しようとするカッパブックスとが、一見両極でありながら、接近しつつある、との考えを示します。読書の目的が、教養のため、あるいは、趣味や実用のため、と簡単に分けられない状況が現れてきた、ということでしょうか。
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第3章 メディアミックス時代のベストセラー