幕末を経て、明治時代以降の日本には、西洋の文物、思想が流入します。洋装、髪型や髭といった外見上の変化にとどまらず、男性を評価する視点、美意識にも変化が見られました。欧米人との比較、競争という意識から、身長が高く、恰幅がよいことが肯定的に評価され、また、江戸以前の色好みや好色、優男といった ものは否定される傾向にありました。
明治末から大正、昭和にかけては、視覚的なメディアである映画(活動写真)が興り、全国的に普及していきます。女性観客の人気を集める「二枚目スター」は、当時の「いい男」の代表だったのかもしれません。
前近代の文芸において、女性とは対照的に、男性の容貌描写はあまり詳細ではありませんでした。しかし、欧米文学の影響を受けた明治以降は、主人公の境遇や内面、自我を象徴するような個性的な容姿の記述がみられるようになります。
文学論『小説神髄』で、客観描写、心理的写実を提唱した坪内雄蔵(逍遥)が、その主張を実践した小説で、当時の書生(学生)の風俗や気質を題材にしています。
主人公の小町田の容貌については、「痩肉にして中背。色は白なれども。麗やかならねば。まづ青白いといふ。貌色なるべし。鼻高く眼清しく。口元もまた尋常にて。頗る上品な容貌なれども。頬の少し凹たる塩梅。髪に癖ある様子なんどは。神経質の人物らしく。俗に所謂苦労性ぞと。(後略)」(→該当箇所) と表現されています。 書きぶりには江戸の戯作の影響がありますが、男性主人公はもはや無欠のヒーローたりえなくなっています。
漱石全集 第11巻 / 夏目漱石著 東京 : 漱石全集刊行会, 大正8(1919) 【369-12イ】
西洋人との交流が増える中で、明治の日本人は身体特徴に関してコンプレックスを抱いていたようです。夏目漱石の明治34(1901)年1月5日のロンドン留学中の日記には、「往来ニテ向フカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タト思ヘバ我姿ノ鏡ニウツリシナリ、我々ノ黄ナルハ当地ニ来テ始メテ成程ト合点スルナリ」(→該当箇所)という記述が見られ、「西洋という鏡」に映した自己認識が端的に示されています。
身長や恰幅は単に見栄えだけの話ではなく、栄養・衛生の問題とも結び付き、「文明国」を目指す当時の日本にとって、解決すべき課題として認識されていました。例えば、『長身法と肥満法』(大日本体育奨励会編 健文社, 大正5 【339-728】)の「体格の優劣は国家の大問題である」という項では、日本人の体格の悪さは、戦争や国際的な体育競争での不利、果ては学問研究における根気の無さにつながるとしています。 →該当箇所
明治43(1910)年に『毎日電報』紙上で、美男子コンテストが行われました。
募集記事によれば、「正しい、強い、品位ある、膨張的大日本を代表するに足るべき堅固な意志と愛情の優味を映出した「立派な顔」を意味するので謂はば威徳並び備へた日本の代表的美男子」を求めるとしています。この企画には、1,000名を超える応募があり、かなりの反響があったことが伺えます。また、審査員には、黒田清輝や巌谷小波など各分野の著名人17名(うち女性1名)が名を連ね、「東洋人の美に対する理想」を示すために「当選の美男子を世界に発表せよ」という談話(同12月6日紙面)が飛び出すほどでした。当選発表は翌明治44(1911)年の元旦に同紙の紙面上で行われました。
この企画に関連して、同紙面上では、審査員や識者の男性美かくあるべしとの談話を多数掲載しています。例えば、「写真術から見た「美男子」」(長谷川保定、同9月26日紙面)では、健康を美男子の第一条件に挙げ、「綺麗な人形のような女性的美男子は真の美男子でない」、「俳優、芸人は殆どその資格が無い」とも述べています。
壇上より国民へ / 三宅雄二郎著 東京 : 金尾文淵堂, 大正4(1915) 【360-243】
三宅雄二郎(雪嶺)の講演演説などを筆記編集した資料。大正3(1914)年2月に帝国教育会で行った「男性美論」では、男性についても普通美といえば、 女性の美に準じる基準で判断されているが、「男性美は力強いということが肝要である」と述べています。なお、ここでいう「力」とは、金銭、位階、腕力、智力、徳なども含むもので、最終的には、最も長続きする徳を推しています。 →該当箇所
上述の美男子コンテストの募集では、この企画を立ち上げる理由を様々に挙げていますが、その中に、「外交家の最初にして、又最終の条件は顔面の優秀にある」という言葉が引用されています。外交家といえば、近代日本を代表する外相であった陸奥宗光は、「西洋婦人の見た日本の美男子」(毎日電報 明治43(1910)年11月7日 【YB-64】)において、赤羽駐米公使の未亡人エレン(米国生まれ)から「私が見た日本男子の中の一番美しい方」だと評されています。当時の”国際基準”で「いい男」であったことが、外交家としての実績につながったのでしょうか。
明治代表人物 / 高須梅渓著 東京 : 博文館, 大正2(1913)【348-65】
明治期の偉人を取り上げた人物伝。「外交舞台の花役者陸奥宗光」と言う項では、若かりし頃の家の没落と苦労、坂本龍馬の知遇と海援隊への参加、薩長藩閥政治の転覆を企てての投獄、その後の官界での活躍など様々な逸話を載せています。伝記には、『陸奥宗光』(伊藤痴遊著 明44,45(1911,12) 【329-106】)などがあります。それぞれ少しずつ異なる逸話を載せています。
江戸時代には禁止されたひげですが、西洋でひげが紳士の身だしなみの一つとされていたこともあり、明治以降はひげをはやす男性が増えました。
一口にひげといっても、そのスタイルは様々です。『美容術』(神田正幸編 明42.10 【25-853】)には、ひげの「左右を短く刈り込むは、相貌温和にして、正直に見え、商業家等に適し、長く伸ばすは、其の威厳を増すか故に、軍人官吏に適すべし」とあり、地位や職業に応じたスタイルが推奨されています。また、理容関係者向けに出版された本では、型ごとに似合う顔立ちやお手入れ方法等について図入りで解説されています。
当館の電子展示会「近代日本人の肖像」を眺めてみると、立派なひげを蓄えた政治家や実業家が目立ちます。以下では、『欧米最近理髪技術学』(大日本美髪会出版部編 大日本美髪会出版部, 大正11年【395-260】)で紹介されている代表的なひげの図とよく似た肖像を並べてみましたが、彼らもこのようなカタログをみて、どのようなスタイルにするか、お手入れに試行錯誤していたかもしれません。
名称 | ひげの図 『欧米最近理髪技術学』より | 人物の肖像 (近代日本人の肖像から) |
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バンダイック (ヴァンダイク) Vandyke | ||
パーテッド・ヘヤード (パーテッド・ベーヤド) Parted Beard | 似たような肖像が見当たりません。 |
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マトンチョプス (マトンチョップス) Mutton Chops |
そのほか、様々なひげの形があったようです。『西洋理髪法』(島崎十助著 明45.7【339-95】)もご覧ください。これらの本には、お手入れ方法なども掲載されており、西洋的なひげに近づこうとした当時の人々の意欲が垣間見られます。
日本における初の映画(活動写真)上映は明治29(1896)年とされていますが、大正期には既に全国に普及し、有力な大衆娯楽となっていました。
欧米映画を通して、ハリウッドなどの西洋的美男美女のイメージが流入するとともに、国産映画においても一世を風靡するようないわゆる「銀幕のスター」が誕生します。時代劇の剣戟スター坂東妻三郎、片岡千恵蔵、松竹三羽烏と言われた佐分利信、上原謙、佐野周二など、大正から昭和初期にかけて活躍した男性俳優については、当時の映画雑誌や新聞などからもその人気を伺うことができます。メディアが視覚的な面で「いい男」のイメージ形成に一役買う時代が到来したといえるでしょう。
本名は早川金太郎。日本人としてもっとも早く活躍した国際的映画俳優と言われています。米国留学し、演劇活動を経て、ハリウッド入りしています。米国の女性ファンが彼の足を泥で汚さぬようにと足もとに毛皮のコートを敷いたという逸話もあるほどのスターでした。国際的に認知された日本人の「いい男」代表だったといえるかもしれません。
早川雪洲 : 武者修業世界を行く / 早川雪洲著 東京 : 日本図書センター, 1999.2 【KD712-G155】
早川雪洲の自伝的著作です。『武者修業世界を行く』(実業之日本社, 1959 当館未所蔵)を底本にしています。渡米や米映画界入りのエピソード、ハリウッドにお城のような豪邸を構え、自身の映画会社を立ち上げた経緯なども述べられています。なお、彼の伝記には、『聖林(ハリウッド)の王早川雪洲』(野上英之著 1986.10 【KD712-165】)があります。
映画と批評 / 津村秀夫著 東京 : 小山書店, 昭14(1939) 【773-113】
戦前の代表的な映画批評家津村秀夫の選集です。欧米の映画理論や作品が紹介・上映される中で、日本映画の芸術性に対する意識が映画批評家などを中心に高まりますが、批評家の間では、女性にうける「二枚目」俳優は、むしろ冷ややかな目で見られていたようです。例えば、後述の長谷川一夫は「歌舞伎芝居における あのつつころばしに近い情緒を持つには持ってゐる」が、江戸時代の町人階級の演技しかできていないと評されています。
歌舞伎の女形から映画俳優に転身、『稚児の剣法』で銀幕デビューし一躍人気となりました。芸名は当初、林長二郎で、昭和12(1937)年に所属会社を松竹から東宝へ移籍した後に、本名の長谷川一夫を使用し始めます。女性観客に抜群の人気を誇り興行的にもドル箱スターでした。
長谷川一夫画譜 : 映画生活三十周年の記録 / 長谷川一夫の会編纂 東京 : 長谷川一夫の会, 1958.5 【KD655-206】
本書は長谷川一夫の映画生活30周年を記念して作成された資料で、プロフィールに始まり、代表的な映像シーン、スナップ、作品目録などを収録。彼の自伝としては『舞台・銀幕六十年』(長谷川一夫 1973 【KD655-24】)などがあります。様々なエピソードとともに、評論家の批評は「頭ごなしに、私が主演したものだから、とキメてかかる」が、「名優ならずとも、愛される役者でありたい」と、映画人生を歩んだことが述べられています。
なお、前述の上原謙(池端清亮)も戦前の代表的な二枚目俳優として知られていますが、歌舞伎や演劇出身の俳優が多かった中、昭和9(1934)年、松竹蒲田の「理想の夫」という映画の公募に友人が冗談半分に送った写真がきっかけで採用されたという逸話が残っています。戦後の「東宝ニューフェース」のような形ではありませんが、スターそのものが大衆から広く募集される時代のはしりと言えそうです。
戦後、高度成長期には家庭にテレビが普及していきます。ドラマと並んで、野球、ボクシング、相撲などスポーツ放送が人気でした。大衆娯楽が多様化する中で、スターの裾野は大きく広がりました。
長谷川一夫さんと一緒に美男子も消えてしまった (朝日新聞 [マイクロ資料]. 1984年4月12日 朝刊 12頁 【YB-2】)
長谷川一夫の追悼記事。様々な人々の言葉を引用しながら、時代の変化を慨嘆し、その逝去を悼んでいます。記事中には、「今のヤングに「美男子」は古めかしくなった。美男子は歌舞伎や大衆演劇の世界のものになったと思う。男性をみるモノサシが「美男子」から「かわいい」「かっこいい」に移ってきた。」という小関三平・神戸女学院大学教授(当時)の言葉も引用されています。
1980年代といえば、ジャニーズ事務所の"たのきんトリオ"や"少年隊"が活躍時代した時期であり、また、少し後の1988年には一般公募で美少年を募るジュノン・スーパーボーイ・コンテストといった企画もスタートしています。わずか半世紀あまりの間にも時代の雰囲気はすっかり変わってしまったようで す。
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参考文献