江戸時代が終わり社会に大きな変化が訪れても、恋文は人々の恋心を伝達する重要な手段であり続けました。
第2章では明治時代以降の恋文事情を、恋文の文体の変化、恋文が活躍した文化、そして恋文の名手という三つの点からご紹介します。
明治時代を迎えても、手紙の文体には「候文(そうろうぶん)」が江戸時代から引き続き使われます。「候文」は、丁寧な表現として「ます」の代わりに「候」が用いられる、やや形式ばった書きことばでした。しかし、書きことばと話しことばを一致させる試みが始まり、明治時代の末頃になると手紙一般の文体がより豊かな感情表現ができる「口語体」へと徐々に移行し、恋文もその変化の波にのまれていきます。
こうした恋文の語り口の変化に注目しながら明治から昭和初期の恋文マニュアルをひもといてみましょう。
本書は明治22(1889)年出版の、男女が送りあう手紙の文例集です。
文例の中の一つ、「見初(みそめ)たる女に贈る文」を見てみると、「すいたらしき御方と存候(ぞんじそうろう)より胸の炎も休まらず何となう心苦しきまでにこがれて候」という風に一部に「候」が用いられる堅い書きぶりで、書き手の真剣な面持ちが目に浮かぶようです。
本書の後半には、附録として「目の大なるを小さく見する法」などの化粧法指南も掲載されています。
瞳の明るき乙女より
この間は失禮(しつれい)してね。まだ目のまへにチラつきますの、貴方のお顔が――ほゝゝ。私、ラブ?したんぢやないでせうか。ねえ。若し眞實(ほんと)に戀(こひ)してゐるのでしたら――貴方は什麼(どう)なさる。叶へて下さる。え?
本書は「現代の、若き男女の手紙を、大なる努力と苦心とによつて集めて見た」として、大正時代の刊行当時の「青年子女」による実際の書簡文集をうたった資料です。掲載された手紙の信憑性は定かではありませんが、引用した「瞳の明るき乙女より」と題された恋文は、くだけた口語体で軽やかに自らの恋心を伝えています。候文から口語体への変化によって恋文がより自由なものへと変化していったことがわかります。
本書は昭和3(1928)年の手紙文例集です。女性が男性からの求婚を受け入れる手紙の文例の一つは、「意外なお手紙を戴いてどんなに嬉しく拝見したか解りませんわ。眞實(ほんたう)に夢のやうですわ。」という書き出しに始まり、さらに「羞(はづ)かしさと、嬉しさの爲(た)めに胸がワクワクして、顔が眞赤(まつか)になりましたわ。」という風に、嬉しさや恥ずかしさといった感情が生き生きと表現されています。当時の人々も愛や恋の胸の高鳴りをこのように恋文に託していたのであろうか、と思わず想像してしまいます。
恋文を送り合うのは男女とは限りません。主に明治末から昭和初期にかけて広まっていたとされる「エス」と呼ばれる少女同士の親密な関係に注目し、雑誌に投稿された少女たちの愛の手紙を見てみましょう。
仲睦まじく帰り路を歩く二人の少女の絵は、当時の少女雑誌の挿絵を数多く手がけた高畠華宵(たかばたけ かしょう)による作です。
洋画家の清水良雄による表紙絵が華やかなこの雑誌は、当時刊行が相次いだ少女雑誌の内の一つ『少女世界』です。
エスとは、シスター(sister)の頭文字をとった言葉で、友情とも恋愛ともつかない少女同士の疑似姉妹的な親密な関係のことです。少女雑誌に次々と掲載されたエスをモチーフとする「エス小説」を愛読しながら、自身も現実の学校生活の中でエスの関係を築いていた少女たちも少なくなかったようです。そして現実の学校生活の中でエスの関係を結んだ少女たちにとってなにより大切なのは、互いに手紙をやりとりすることでした。では、彼女たちはどんな手紙を送りあっていたのでしょうか。
貴女は少しも知つてゐらつしやらないんですもの。私のため息。私のひとりごと。私の泪(なみだ)。私の手紙。それらのひとつびとつが貴女をお待ちして居りますのに。
(中略)
あゝ愛するOよ。貴女の目は何故そんなに美しいのか。貴女の目は何故そんなに私の心をとらへてはなさないのか。Oよ私の胸ははち切れてつぶれてしまひさうだ。一體(たい)どうしたらいゝのだらう。
(投稿者)正木まゆみ「書けなかつたこと」
この手紙は、雑誌『少女画報』の「薔薇のたより」という読者投稿ページに掲載されたものです。このコーナーには特定の相手を想定した手紙文が読者の少女たちから数多く寄せられましたが、中にはこの手紙のように少女から少女への恋文とも呼べるような情熱的な手紙が数多く存在しました。彼女たちが現実生活でやりとりした手紙がこのような内容であったかはわかりませんが、こうして雑誌に掲載された手紙をのぞいてみると、彼女たちの間には単なる疑似姉妹を超えた特別な親密さがあったことがうかがい知れます。
ユミカさま――
貴女の淸らかな乙女ごゝろに、ふつと湧き出た儚(はかな)い夢――あこがれ・・・・その何物にも替えがたい美しいあこがれを裏切り傷つけることは、幹代には死ぬよりも苦しうごご(ママ)います。けれど、黙つてあなたの願望を快く受入れることは、より以上の苦悩なのでございます。いつたい、幹代はどうしたらよいのでございませう。
(中略)
「葉山さん!!あえかなもゝいろの夢を貴女に捧げますつて――あのかたが」
などゝ揶揄(からか)はれ乍(なが)ら、貴女を指さゝれたとき、流石(さすが)私もうろたへました。――あんな可愛いゝ妹があつたら――ガバレツトの眞黒な髪、白いお雛様のやうなあどけない顔。・・・・その姿の貴女こそはほのかな眞晝(まひる)の夢にも似た空想の中の王女だつたものを――私の心はたぢろきました。
(投稿者)葉山幹代「淸きひとに」
こちらも『少女画報』の「薔薇のたより」に寄せられた手紙です。「ユミカ」さんという名前の後輩に好意を寄せられた手紙の筆者の「葉山幹代」さんがその思いに応えることはできないという悩ましい思いを吐露しています。
筆者をからかう取り巻きのセリフや、ユミカさんの容姿の描写からは、学校内でひそかにまなざしを向け合う二人の姿が時を超えて浮かびあがるようです。ちなみに、このユミカさんがしていたとされる「ガバレット」は当時存在した髪型の名前で、三つ編みをぐるりと頭頂の方に、天使の輪のように巻きつけるものでした。
ここでは一人の人物に焦点を当て、より具体的な恋文の世界をのぞいてみましょう。
主人公は明治の小説家、五千円札でお馴染みの樋口一葉です。短い生涯で数々の名作を残した一葉は、手紙の名手でもあり、恋文をめぐるエピソードにも事欠かない人物でもありました。
樋口一葉は明治5(1872)年に東京で生まれ、明治19(1886)年、中島歌子の歌塾萩の舎に入門しました。その後明治24(1891)年には半井桃水(なからい とうすい)に師事して小説を書き始めましたが、明治29(1896)年に若くして亡くなりました。
一葉については、電子展示会「近代日本人の肖像」もご覧ください。
これは一葉自ら執筆した手紙の手引書で、文体は前述の候文です。恋文の文例は未収録ですが、女学校出の友人同士の文通を想定した「事ありて中絶えたる友のもとに」では、一人の女性が友に宛てて、疎遠になったことの悲しみと変わらぬ思慕の情を切々と語ります。恋文に通じる趣があり、先にご紹介した少女同士の恋にも似た感情を指摘する説もあります。「此ほど上野の公園にて御影ほのかに見參らせしかど…」から始まる書き出しは小説の一場面のように美しく、一葉の優れた文才を堪能できます。
一葉の恋愛としては小説の師である半井桃水との関係が知られており、彼に宛てた手紙が多く残されています。当時19歳の一葉は、12歳年上の桃水と交流を重ねる中で恋心を抱いたようですが、出会いから1年程経った頃二人の間を邪推する噂が立ちます。この時、一葉が桃水に交流の断念を伝えるために書いた手紙が『樋口一葉全集』第4巻 下(和歌3.書簡.和歌索引)【KH134-2】に収録されています。
明治25(1892)年7月8日付け 師の君(半井桃水)宛
…私しは唯々まことの兄様のやうな心持にていつまでもいつまでも御力にすがり度願ひに御坐候を斗らぬ事より變な工(具)合になり只今の所にては私ししひてお前様におめもじ致し度などゝ申さば他人はさら也親兄弟も何とうたがふか知れ申さずとに角にくやしき身分に御坐候…
明治25(1892)年8月10日付け 御兄上様(半井桃水)宛
…師の君なり兄君なりと思ふお前様のこと誰人か(が)何と申傳へ候とも夫を誠と聞道理もなく…
直接的に「好き」と伝えているわけでなく、「あなたを先生とも兄だとも思って慕っていただけなのに、こんな噂が立ってお会いできなくなるのは悔しい」と述べているのですが、湧き上がる思いを必死に打ち消すかのような感情の高ぶりが読み取れます。
一葉が生活のために小間物店を営んだ下谷区龍泉寺町、その後移り住んだ本郷区丸山福山町(現在の文京区西片)はともに遊郭や銘酒屋街に近く、彼女はそこで働く人々の在り様を見聞きしていました。
明治28(1895)年1月4日の日記には、本郷区丸山福山町に居住していた当時、隣の銘酒屋で働く女性たちの恋文の代筆をしたという話が記されています。「女性たちが手紙を書いてくれと言って頼みに来るが、宛名はいつも違ってその数は多い」「こんな女性たちの中にもたまには真実の恋もあるのだろうか」という記述からは、彼女たちの奔放でありながら儚さを感じさせる恋愛事情が透けて見えます。
こうした様々な立場の人々との交流が「たけくらべ」「にごりえ」などの小説にも活かされています。
本書は有名な文学作品の中の恋文や文学者自身による恋文をまとめた1冊です。
徳富蘆花『不如帰』の武男と浪子の手紙、尾崎紅葉『金色夜叉』のお宮が寛一に宛てた手紙、森鴎外が訳したアンデルセン『即興詩人』のアヌンチヤタがアントニオに書いた別れの手紙など、様々な趣向の恋文を楽しむことができます。
これを下敷きにしたと思われる『近代名作に現はれたる愛の書簡集』【特108-79】、『愛の書簡文』【特113-632】という類書もあります。
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参考文献