第2章では、年中行事に登場したり各地の名物として知られた和菓子を紹介します。
年中行事や、人々の人生の節目に、特別な料理を食べる習慣は古くからありました。ここでは特に節句(節供)と呼ばれる年中行事と、菓子を食べたライフイベントを取り上げます。
節句とは桃の節句、端午の節句、のように現在も行われる祝い日ですが、元は「節日の供御(くご)」を意味する言葉でした。「供御」とはお供えのことで、季節ごとに定めた日(節日)に、神々に対して供え物をしました。『荊楚歳時記』【特7-265】という古代中国の歳時記には節日と供え物のことが書かれており、そのうちのいくつかはほとんどそのまま日本の節句(節供)となりました。
日本では、天長10(833)年に成立した『令義解』【WA17-6】(『養老令』の注釈書)に正月一日を始めとする7日を節日と定めた箇所があり、遅くともこの時期には日本で節日とそれにまつわる儀式が行われていたことがわかります。時代が下るにつれて、数ある節句の中から正月七日(人日(じんじつ))・三月三日(上巳(じょうし))・五月五日(端午)・七月七日(七夕)・九月九日(重陽)という5つの節句が重要な祝日とされるようになり、江戸幕府はこれら「五節句」を式日(特定の行事に当てられた定日)として定めました。このうちのいくつかを紹介します。
上巳とは陰暦3月の最初の巳の日のことをいいます。現代では雛祭りで知られるこの日は、元々中国で行われていた水辺で禊を行い、桃花酒を飲む厄払いに由来します。『荊楚歳時記』によると、古代中国では三月三日に竜舌ハン(米偏に半)という母子草(ゴギョウ)の汁を蜜と共に米粉に混ぜたものを食べていたそうです。日本でも平安時代の歴史書『日本文徳天皇実録』【839-5】に、三月三日にゴギョウを用いた草餅を作るのが歳事(年中行事)であったという記録がありますが、この点も中国の風習に影響を受けた可能性があります。
三月三日に草餅を食べる習わしはその後も続きました。しかし、遅くとも江戸時代になると、三月三日に供える餅菓子は菱餅が用いられるようになりました。第1章で触れた『守貞謾稿』【寄別13-41】には菱餅の絵が載っています。それによると江戸時代の菱餅は現在一般的な紅白緑の三段ではなく、緑白緑が多かったそうです。ただし、全ての菱餅がこのような組み合わせであったわけではないことも当館所蔵資料からうかがえます。たとえば安政4(1857)年に出された『おもちゃ絵』【寄別3-1-2-4】はその好例です。「おもちゃ絵」とは、子どもの手遊び向きの図柄に描かれた浮世絵版画(絵草紙)の一種で、安政(1854-1860)前後から明治時代の中ごろにかけて流行しました。『守貞謾稿』がまとめられたのと程近い時期に出されたこの版画では、菱餅は白緑白の三段重ねとなっています。雛祭りを描いた浮世絵では、白緑白緑白の五段重ねの菱餅が描かれたものもあり(歌舞伎座資料館)、その多様性は興味深いところです。
この『守貞謾稿』は江戸の風俗を京・大坂の風俗としばしば比較しているのが特徴です。「三月三日」に続く「蓬(よもぎ)餅」の項でも江戸と上方双方の習俗を取り上げ、上方では「戴(いただき)餅」と呼ばれる菓子が配られた、と書かれています。餅の一方をつまみ上げた上に餡を乗せたこの菓子は、形があこや貝(真珠貝)に似ているところから「あこや」、先端をちぎる意で「引千切(ひきちぎり)」とも呼ばれます。
3) 喜田川季荘 編『守貞謾稿』【寄別13-41】
喜田川季荘(守貞)(1810-?)の著わした、江戸時代の風俗に関する最も重要な文献の一つです。内容は約700項目にのぼる名辞・事象を、27のテーマに分類し、説明を加えています。稿本のまま残され、江戸時代には刊行されませんでした。この資料は当館で所蔵する守貞自筆稿本です。
今回の企画でも度々取り上げているとおり、この資料は随所に菓子に関する記述があります。それだけ江戸時代には日々の様々な場面に菓子が浸透していた、とみることもできそうです。食べ物を取り上げた後集巻一では「菓子」も項目を立てて記述しており、その後ろに立てられた「餅」「羊羹」「饅頭」などの項目とともに江戸時代後期の菓子事情をうかがうことができます。
もとは月のはじめ(端)の午の日のことをいい五月に限りませんでしたが、中国の漢代以後、五月五日をいうようになったとされます。古くから邪気払いとして菖蒲が使われましたが、「菖蒲」が「尚武」に通じることから武家で祝われるようになり、江戸時代に男の子の節句として定着しました。
端午の節句に登場する菓子といえば粽(ちまき)と柏餅が有名です。粽は平安時代の辞書『倭名類聚抄』【WA7-102】にも登場し、これを五月五日に食べると書かれています。ただしその製法は真菰(まこも)の葉で米を包み灰汁で煮たものとされ、甘いものではなかったようです。いつ頃から甘い粽が作られるようになったかははっきりしませんが、『守貞謾稿』には京の川端道喜という菓子屋の粽が取り上げられ、遅くとも江戸時代にはこれに砂糖が使われていたことがわかります。先の菱餅の例と同様に、『守貞謾稿』には三都における端午の節句の行事も書かれています。それによると、京・大坂では男の子が生まれて最初の端午の節句には親族などに粽を配り、二年目以降は柏餅を贈ったそうです。これに対して、江戸では最初の年から柏餅を贈った、としています。
節句ではありませんが、六月十六日には「嘉祥(嘉定)」という菓子が重要な役割を果たした行事が行われました。起源は定かではありませんが、室町時代の記録にはこの行事に関する記述が多く残されています。特に武家では楊弓(遊戯用の小さな弓)を射る遊びを行い、敗者が宋銭「嘉定通宝」16枚で食べ物を買って勝者に贈りました。室町時代の公家・一条兼良(1402-1481)は『世諺問答』【853-233】の中で、「嘉」定「通」宝の名称が「勝」に通じることから盛んになった、としています。江戸時代、「嘉祥」は重要な式日とされ、大名・旗本等が江戸城に登城し、将軍から菓子を賜りました。明治時代に編纂された江戸幕府の儀礼・制規についての史料集『徳川礼典録』【210.5-M283t】によると、嘉祥において用意される菓子とその数量は以下のとおりです。
一饅頭三ツ盛 百九十六膳 惣数五百八十八
一羊羹五切盛 百九十四膳 同 九百七十切
一鶉焼五ツ盛 二百八膳 同 千四十
一阿古屋(あこや)十二盛 二百八膳 同 二千四百九十六
一金飩(きんとん)十五盛 二百八膳 同 三千百二十
一寄水三十盛 二百八膳 同 六千二百四十
一平麩五ツ盛 百九十四膳 同 九百七十
一熨斗(のし)二十五筋盛 百九十六膳 同 四千九百筋
嘉祥の前日にはこれらが片木(へぎ)(板を薄くはぎ、そのままけずらないで作った角盆)に載せられ、江戸城の大広間に並べられました。そして前夜は不寝番を立てて当日に備えた、とされます。
嘉祥は明治に入って廃れましたが、昭和54(1979)年に全国和菓子協会が6月16日を嘉祥にちなんで「和菓子の日」に制定しました。
江戸時代になると京・大坂・江戸の三都、さらには日本各地にそれぞれの名物として知られる菓子が登場しました。これらは各地の名所図会や風俗書、旅行記や旅をテーマとした文学作品に書かれることで、さらにその知名度を高めることとなりました。
江戸時代に入り社会が安定すると、それまで希少な輸入品であった砂糖の流通量も増加し、様々な菓子が作られました。そのうちの一つが江戸時代前期に京を中心として作られるようになった「上菓子」です。上菓子とは、高価な白砂糖を使った上等な菓子のことを指しますが、朝廷・幕府・公家・大名・大寺院などへの「献上菓子」のことであるとも言われます。
なお、江戸では京・大坂など上方から下ってくる商品が「下りもの」として珍重されました。これは菓子においても同じで、江戸の菓子屋でも「下り京菓子屋」を名乗る店が複数存在しました。元禄5(1692)年に刊行された『万買物調方記』【本別13-19】は当時有名な商店を掲げた買物案内書で、ここにも「下り京菓子や」は4軒登場しています。「下りもの」として京から江戸にやってきた上菓子は、後述するように諸大名の参勤交代などによって日本各地に広まっていきました。
元禄期(1688-1704)は和菓子の歴史上、重要な時期です。全5巻のうち第2巻を菓子の製法に当てた料理書『合類日用料理抄』(『江戸時代料理本集成』【W435-4】資料篇 第2帙所収)が元禄2(1689)年に、多数の蒸菓子・干菓子が登場する『男重宝記』【111-234】は元禄6年に出版されました。『男重宝記』は男性向け芸事の指南書ですが、「菓子類」が茶の湯や生花と並んで立項されており、茶の湯と和菓子の関係をうかがわせます。正徳年間(1711-1716)から享保年間(1716-1736)にかけて刊行された絵入の百科事典『和漢三才図会』【031.2-Te194w-o】にも、巻105・造醸の項で「果子」の項目が設けられました。
菓子の製法が料理書から独立して刊行されるようになるのは元禄期の終わり頃からで、享保2(1717)年に『御前菓子秘伝抄』【159-74】が、宝暦11(1761)年に『古今名物御前菓子図式』(『菓子文庫』【W435-7】1号、2号所収)が出版されました。『御前菓子秘伝抄』には南蛮菓子が多く載っていましたが、『古今名物御前菓子図式』では和菓子の割合が増え、記述も詳細になり、半世紀の間に和菓子の地位が向上しているようです。なお、『御前菓子秘伝抄』に製法が取り上げられた食べ物の一つにパンがあります。「波牟(パン)」という単語は上述の『和漢三才図会』(巻百五)にも登場しますが、「蒸餅即ち饅頭に餡無きもの」という説明からわかるとおり、パンは餡抜きの饅頭として認識されていました。しかし『御前菓子秘伝抄』では、パン種を作って膨らんだらそれを焼くとしており、「発酵パンを焼く」という製法が記された江戸時代の文献としても注目されます。
ところで元禄期に確立した出版物のジャンルとして、役者評判記というものがあります。京・大坂・江戸の三都を中心に刊行された歌舞伎役者の容色や技芸を評した書物ですが、宝暦・天明期(1751-1789)にはこれのパロディとして名物評判記が登場し、菓子も対象として取り上げられました。安永6(1777)年に出された『富貴地座位』(『徳川文芸類聚』 第12【918.5-To426-K】所収)は、京・江戸・浪花(なにわ)(大坂)の三都の名物を評しています。京は総巻頭に「大至極上々吉 京の水」を挙げ、飲食之部で菓子屋が登場しています。また、京は飲食之部全体で19件という数で後述の江戸と比べると少ないように思えますが、これは江戸にはない部門(琴・書・女医を取り上げた女才之部など)に紙面を割いていることと、禁裏御用の菓子屋を載せていないことによるものと考えられます。江戸は「菓子之部」に一項を割いており、「評判のひびき渡る唐ぐわし(菓子) 鈴木越後」を始めとして28軒が取り上げられています。浪花は評判記の形をとらず、堂島の「米の立チ相場」を始めとして名物を列記しています。菓子屋はそのうち5軒と少数ですが、その一つに「虎屋の饅頭切手」というものがありました。これは現在の商品券に相当するもので、虎屋の切手は『富貴地座位』だけでなく、『攝津名所圖會』【839-77】にも店の評判と共に描かれています。また「饅頭切手」については、『守貞謾稿』(後集巻一)でも「饅頭」の項目で江戸の様子にも言及しつつ説明しています。
この翌年には『京都名物 水の富貴寄』(『徳川文芸類聚』第12【918.5-To426-K】所収)が出版されました。これは掲載されているランキングは『富貴地座位』のとおりですが、それぞれに頭取(音頭を取る人)・見功者(みごうしゃ)(歌舞伎の劇評家および見方が高度な観客)のコメントが付いています。例えば筆頭に挙げられた亀屋良安という菓子屋の場合、「亀良丈を飲食の巻頭とは呑こまぬ、此広い都に根生の衆中も有さうな物、出直せ/\」と諸方から野次が飛びます。それに対して頭取が「昔より仕似せ名物はおゝく御ざりますれ共、たゞ持まへ一色計、亀良丈はくわし一通り、何をさせても引受せられ、別て當時むしぐわしの仕内は、此人につづくはござりますまい」と評判し、見功者が蒸し具合や菓子の色合い、さらには菓子の入れ物(高蒔絵の重)についてコメントします。最後に再び頭取が「先(まず)近来のまれ人、又何ぞ新製をまちます/\」と締めくくるという形を取っており、読み物として充実しています。なおこの部分の記述からは、菓子のオーダーメイドが行われていたと読み取れるのも興味深いところです。
江戸時代に入ると、街道を始めとする交通網が整備されました。やがて参勤交代する諸大名や伊勢参りをする人々など、身分を問わず多くの人が旅をするようになります。人々の集まる寺社の門前や行楽地、都市や街道の名物として菓子が売られ、それを様々な人々が楽しめるようになったのもこの時代です。旅をした人の記録である道中日記には、食べ物に関する記述が頻繁に登場しますが、それらを見ると各地に名物菓子と呼ばれるものが存在し、またそれが広く知られていたことがうかがえます。
こうした記録の中には、日記ではなく自身が旅行を通して見聞きしたことを元に後日執筆された作品もあり、尾張藩士・高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)(種信)によって書かれた『東街便覧図略』【さ-67】はその一つです。全7巻で自筆稿本(名古屋市博物館所蔵)は挿絵と詞書をそなえていますが、当館所蔵資料は江戸時代後期にその一部を転写した端本と考えられ、また詞書を欠いています。この資料は寛政9(1797)年に刊行された『東海道名所図会』【839-82】 よりわずかに早く成立したとされますが、これら名所図会と同様に名所旧跡にとどまらず、菓子を含む各地の名物を描いています。
江戸時代中期以降、街道の往来は一段と盛んになり、各地の名所旧跡や景勝地、名物等を取り上げた名所記や名所図会と呼ばれる通俗地誌が刊行されました。また浮世絵にも歌川広重『東海道五拾三次』【寄別2-2-1-6】に代表されるように、街道の様子をテーマとしたものが登場するようになります。さらには、『東海道中膝栗毛』【120-53】を始めとする道中案内記的な作品が出され、大いに評判となりました。これらの作品には各地の名物とされた食べ物も多く描き込まれ、現在も名の知れた菓子もたくさん描かれました。特に東海道は安倍川餅(静岡市)、宇津の十団子(とおだんご)(静岡市)、日坂の蕨餅(掛川市)、草津の姥が餅(草津市)など名物菓子が多くあり、様々な作品に繰り返し描かれることでさらにその名が広まることとなりました。
4)高力種信「きつひむだ枕春の目覚」『駿遠豆叢書』 第3編【特260-207】
『東街便覧図略』の筆者・高力猿猴庵(種信)(1756-1831)が寛政8年に著した黄表紙(江戸時代の小説の一種)です。あらすじは、『東街便覧(図略)』の完成を祝ってこれに取り上げられた名物たちが作者の元に集まる、というものです。
第3章で紹介する『名代干菓子山殿』【208-792】と同じく、『東街便覧図略』で描かれた東海道の名所・名物を擬人化し、彼らの道中でのドラマを古典のパロディや洒落を織り交ぜつつ描写しています。この作品には、掛川の葛粉、安倍川餅、新坂(日坂)の蕨餅、佐夜(小夜)の中山の飴の餅、猿が馬場の柏餅、宇津ノ谷の十団子が名物のうち菓子の類として登場します。
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第3章 文芸のお菓子箱