第1章 幕末・維新の人々(2)
西郷隆盛(さいごう たかもり) 1827-1877
幕末・明治の政治家。通称は吉之助。号は南洲。薩摩藩の下級士族の出身。藩主島津斉彬に取り立てられ、一橋慶喜将軍擁立運動などに奔走した。坂本龍馬の仲介で薩長同盟を結び、第2次幕長戦争以後は倒幕運動の指導者となる。また、江戸城の無血開城を実現した。新政府では参議となるが、征韓論などで大久保利通らと対立し、下野。西南戦争に敗れて城山で自刃した。「明治維新の三傑」の1人。
43 西郷隆盛書簡 慶応4(1868)年2月1日【牧野伸顕関係文書(書類の部)C13】
西郷から大久保利通に宛てた書簡。慶応4(1868)年1月11日、鳥羽・伏見の戦いが終局に向かう中で起きた神戸事件(神戸居留地附近での岡山藩兵と外国兵との衝突および外国人殺害事件)の早期解決を促す内容である。解決が遅れることにより、新政府が外国から侮られることを危惧する様子が伝わる。また、追伸では英国公使の通訳をしていたアーネスト・サトウ(のちの英国公使)の名前もみえ、前述の早期解決の重要性はサトウから内々に聞いたことであることがわかる。
書風から立ち位置がわかる!?
江戸時代には御家流(青蓮院流とも)という書風が主流でした。平安時代の書風の流れをくみ尊円法親王が確立した書風で、門下生が豊臣秀吉、徳川家康の右筆(文書作成の専門職)として召し抱えられたことから広まりました。一方、儒学者、僧侶等の一部文化人の間では中国風の唐様と呼ばれる書風が使われていました。
幕末の志士の字には、唐様を踏まえたものが見られます。また、明治新政府は公文書を唐様で執筆しました。これは反幕感情によるものと考えられます。
大久保利通(おおくぼ としみち) 1830-1878
幕末・明治の政治家。薩摩藩出身。初名は利済。西郷隆盛、岩倉具視と結んで公武合体運動を推進、その後転じて、倒幕運動の中心となる。新政府で、版籍奉還、廃藩置県などの改革を断行したのち、大蔵卿や内務卿を歴任した。明治11(1878)年、不平をもった士族により暗殺される。西郷、木戸孝允と並んで「明治維新の三傑」の1人。
44 大久保利通書簡 明治6(1873)年10月17日【三条家文書(書簡の部)279-4】
「奉職の目的立ち難く」と大久保が太政大臣三条実美に提出した参議辞任の趣意書。三条や岩倉具視らの要請をうけ参議に就任した大久保は、反征韓論の立場から、西郷隆盛が使節として朝鮮に派遣されることに反対した。しかし、10月15日の閣議により西郷の派遣が内定するにおよび、大久保は17日に辞表と共にこの趣意書を提出。この問題はそのまま決着することなく、最終的には24日に明治天皇が岩倉の奏上を受け入れ西郷の派遣を無期延期とした。征韓論に敗れた西郷は参議を辞し、鹿児島に戻った。
木戸孝允(きど たかよし) 1833-1877
幕末・明治の政治家。初め桂小五郎と称し、のち木戸姓。西郷隆盛と薩長同盟を結び、倒幕を図った。「五箇条の御誓文」起草に参画、版籍奉還や廃藩置県を推進した。征韓論・征台論に反対して一時政権の主流から離れたが、大阪会議により、再び参議となった。「明治維新の三傑」の1人。
45 木戸孝允書簡 明治5(1872)年9月14日【井上馨関係文書357】
岩倉使節団の副使として欧米歴訪中の木戸から、日本の井上馨に宛てた書簡。およそ7.5メートルにわたるこの長い書簡は、明治維新当時の苦難や犠牲の回顧から始まり、当時ワシントン在勤だった26歳の森有礼を引き合いに出しながら、日本の拙速な開化政策が内面の意識を伴わない「皮膚上之事」であると非難している。維新時の苦難を知り、新政府の発足に心身を削ってきた木戸にとって、維新前後に欧米留学歴をもち、外国に向かって軽々に日本政府を非難するかのような言動をとる森は容認しがたい存在だったことがわかる。また、文末の「長夜鬱々之余愚意吐露仕候」には、生真面目で思いつめがちな木戸の性格が表れている。
榎本武揚(えのもと たけあき) 1836-1908
幕末・明治の軍人、政治家。長崎海軍伝習所で勝海舟の指導下に航海術などを学び、次いでオランダへ留学し自然科学、法学などを学んだ。竣工した開陽丸で帰国、幕府海軍副総裁となる。戊辰戦争では箱館の五稜郭にこもり、政府軍と交戦するが降伏。特赦され、明治政府では諸大臣を歴任し、駐ロシア公使として樺太・千島交換条約を締結するなど活躍した。
46 シベリヤ日記 甲 明治11(1878)年【榎本武揚関係文書8】
榎本のシベリア横断の際の日記。榎本は特命全権公使として当時の北方領土問題を解決するためロシアに派遣され、明治8(1875)年5月、樺太・千島交換条約を締結した。榎本はそのまま初代ロシア公使として駐在し、明治11(1878)年に鉄道と馬車でシベリアを横断して帰国した。この日記はその66日間の記録である。内容はシベリアの地勢、風土、植物、政治、経済など多岐にわたる。出立日の7月26日の記述には、出発にあたり「パスポールト」(旅券)を渡されたことや、汽車の車中で貯えて置いた日本酒1瓶を開けて飲んだが口に合わなかったことなどが記されている。
大鳥圭介(おおとり けいすけ) 1833-1911
幕末・明治の軍人、外交官。名は純彰で圭介は通称。蘭学や西洋兵学を学び、幕府陸軍幹部となる。戊辰戦争では、榎本武揚と合流し北海道に入ったが、五稜郭の戦いで降伏。のち明治政府に取り立てられ、工部大学校長や清国公使を歴任した。
47 流落日記 明治2(1869)年5月18日~6月30日【大鳥圭介関係文書1】
明治2(1869)年、五稜郭の戦いに敗れた榎本武揚、大鳥ら7名は、東京まで護送されたのち入獄した。この日記は、5月18日の五稜郭開城から、6月29日に千住に着くまでの大鳥による道中日記である。日付と天気、宿泊地を基本とした簡潔な記述であり、日によっては昼食場所、移動距離などが記されている。また、各宿泊地での戊辰戦争による戦禍の状況も記されており、軍人らしい目線を感じさせる。サイズは小さいながら、榎本らの護送経路を伝える貴重な史料である。
ペンじゃなくて筆を持ち歩いていた!?
小さな旅日記(掲載資料48大鳥圭介)が筆で書かれているのを見て、不思議に思うかもしれませんが、現在の万年筆のように、持ち歩く筆というのが存在しました。13世紀頃から使われていたと考えられている「矢立」というものです。墨壺にモグサや綿を入れて墨汁を蓄えておき、筆とセットにして持ち歩きました。もともとは武士が用い、扇形でしたが、墨壺が丸いタイプへと変化しました。商業が発達した江戸時代には、全国を行き来する商人の必需品でした。近代になってもしばらく使われていたそうです。
『自然科学と博物館』 4(9)(45) 国立科学博物館,1933.9【Z14-213】
勝海舟(かつ かいしゅう) 1823-1899
幕末・明治の幕臣、政治家。明治維新後は安芳と改称した。通称は麟太郎で海舟は号。長崎の海軍伝習所で航海術を学び、咸臨丸の艦長として太平洋を横断して渡米した。帰国後は、幕府海軍育成に尽力。戊辰戦争では、幕府側代表として西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城を実現させた。維新後は海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任した。
48 勝海舟自画像【勝海舟関係文書43】
勝が自画像に自ら賛(画に添えて書かれた詩や文)を書き添えた、自画自賛である。賛は、小事にこだわらないのは自分の気質であるから、将にもなれば卒(雑兵)にもなる、朝廷にあれば参議、在野にあれば散人となるが、いずれにしても、心持ちはさっぱりとして時世を見ているといった内容である。野にあったときの心情を書いたものと考えられるが、作成年代は不詳である。「睥睨世一」と書き損じた箇所は上から貼った紙で「睥睨一世」と修正されている。
福沢諭吉(ふくざわ ゆきち) 1834-1901
明治時代の啓蒙思想家、教育家。大坂で緒方洪庵に蘭学を学び、江戸に蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設した。英学を独習し、幕府の遣米使節に同行して咸臨丸で渡米するなど、3度欧米に渡った。明治維新後は教育・啓蒙活動に従事し、『時事新報』の創刊、『西洋事情』、『学問のすゝめ』、『福翁自伝』の執筆などを行った。
49 福沢諭吉書簡 明治25(1892)年2月5日【榎本武揚関係文書25】
福沢から榎本武揚に宛てた書簡。前月27日に送った『瘠我慢の説』(コラム参照)の草稿について、時節を見計らい世に公にするつもりのため、事実に間違いはないか答弁を求めている。これに対し当時外務大臣の職にあった榎本は、返書の中で「多忙に付いづれ其うち愚見申し述べるべく候」とのみ応じた。なお、同様に福沢から問われた勝海舟は、「行蔵(出処進退)は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せず」と返書している。
福沢諭吉の「瘠我慢の説」
「瘠我慢の説」は、福沢諭吉が明治24(1891)年の冬頃に執筆した文章である。旧幕臣でありながら新政府に仕えて高位に上った勝海舟と榎本武揚を批判した内容であり、福沢はこの草稿を明治25(1892)年1月末に勝と榎本に送り、答弁を求めている(掲載資料49は榎本への催促の書簡)。
同書の中で福沢は、勝が官軍と戦わずして江戸開城に到らしめたことを「我日本国民に固有する瘠我慢の大主義を破り、以て立国の根本たる士気を弛めたるの罪は遁るべからず。」と評し、それにもかかわらず維新後は「得々名利の地位」にいることを非難している。
また、榎本についても、箱館での挙兵は「武士の意気地即ち瘠我慢」と高く評価しながら、「氏が放免の後に更に青雲の志を起こし新政府の朝に立つ」ことに関しては感服致しがたいと述べている。
執筆から約10年後の明治34(1901)年正月に「瘠我慢の説」は『時事新報』に掲載され、同年5月には「丁丑公論」と共に1冊の本に合本されて時事新報社から出版された。(『明治十年丁丑公論・痩我慢の説』【304-H826m】)
副島種臣(そえじま たねおみ) 1828-1905
幕末・明治の政治家。佐賀藩出身。尊王攘夷運動に加わったのち、新政府の参与となり、政体書の起草に従事した。外務卿を務め、樺太国境問題をめぐる対露交渉や、日清修好条規の批准書交換、マリア・ルス号事件への対応などに当たったが、征韓論をとなえて板垣退助や江藤新平らとともに下野した。のち枢密顧問官、第1次松方内閣の内務大臣を歴任した。能書家としても知られる。
50 副島種臣意見書 明治4(1871)年頃【三条家文書(書類の部)47-6】
副島による日露の樺太雑居問題の解決法に関する意見書であり、太政大臣の三条実美に提出されたと考えられる。幕末から明治初期にかけて、樺太全島は日露両属の地とされ、両国が雑居する状態であった。しかし、実際には樺太の単独領有を目指すロシアが軍隊や流刑囚を送り込み、日本人への排斥行動が盛んとなっていた。副島は明治3(1870)年頃から参議として、のちには外務卿としてロシアとの樺太問題の交渉に挑んでいた。しかし征韓論をめぐる副島の下野により、この問題の解決は明治8(1875)年の樺太・千島交換条約調印まで持ち越されることになる。
51 副島種臣書簡 明治28(1895)年11月20日【伊藤博文関係文書(その1、書簡の部)294-1】
東邦協会会頭を務める副島から、首相の伊藤博文に宛てた書簡。日清戦争後の日本の東洋および世界に対する施策について、東邦協会の建議書を奉呈するという内容である。東邦協会とは、副島、近衛篤麿らが中心となって明治24(1891)年に結成した、東洋諸邦および南洋諸島に関する地理・貿易・歴史などを調査する団体。書簡に述べている通り、建議は『東邦協会会報』の16号に掲載された。