以下のことがらについて説明しています。
一枚の紙の片面のみに印刷されたものを、一枚ものと言います。暦 (almanac) 、免罪符 (indulgence) 、広告 (advertisement) 、布告 (bull) 等が一枚もので印刷されました。グーテンベルクやフストも免罪符を印刷しましたし、キャクストンも免罪符を印刷しました。出版物の広告や活字見本の一枚ものも印刷されました。 一枚ものインキュナブラの目録は、Einblattdrucke des XV. Jahrhundertsというタイトルで、インキュナブラ総合目録GW (1925- ) より一足早く1914年に刊行されました。
コロフォンの役割も兼ねています。
中世写本の冒頭は、ラテン語のincipitという言葉で始まりました。incipit ...は英語ではhere begins ...と訳され、「ここに・・・が始まる」という意味になります。この文章をインキピットと呼びます。普通incipitの後にはタイトルや著者の情報が記され、しばしば各章はincipitで始まりました。
一方、章の終わりはexplicit(英語ではhere ends) という言葉で始まる「ここに・・・が終わる」という文章が記されました。この文章をエクスプリキットと呼びます。これらの文章は本文とは別ですので、赤色で印刷された場合もあります。
ヨーロッパに製紙技術が伝わったのは12世紀のことですが、ぼろ布を原料とする紙には、13世紀始めより透かし模様を入れることが行われました。この模様は製紙業者の商標として入れられたと思われ、18世紀頃より紙の生産地、生産年の特定に利用するため、ウォーターマークの調査が少しずつ行われました。20世紀に入るとスイスのC.ブリッケがLes filigranesというウォーターマーク集を刊行し、現在ではウォーターマークのデータベースの作成も行われています。
詳しくは「ウォーターマークの世界」をご覧下さい。
本は4世紀後半に、巻物から冊子 (codex) に変わりました。この冊子 (コデックス) は、小さい冊子を何冊か重ねて綴じられています。獣皮または紙を4枚重ねて中央で折り曲げると8葉 (16頁) の小冊子ができます。これをquaternionと呼びますが、縮められてquaerまたはquairと呼ばれました。この小冊子が中世での製本の基本単位で英語ではquireと呼ばれ、折丁と呼んでいます。かならずしも8葉ではない折丁も作られました。
本が印刷されるようになりますと、大きな紙を何回か折りたたんで折丁が作られるようになりました。また、製本師に折丁を重ねる順番を伝えるため、折丁の前半分の葉の表面にはA1、A2...のような記号が右下に印刷されるようになりました。これを折丁記号 (signature, Signatur) と呼びます。
詳しくは第3章をご覧下さい。
いくつかのインキュナブラには、活字が組まれていながらインクが塗られず、紙面にはプレスされた跡のみが見られます。少なくとも200点 のインキュナブラに見られるという研究もあります。印刷しない部分 (ブランク) が多い場合、印刷面を安定させるためにブランクの個所にも活字を組んだのではないかと言われています。
「インキュナブラ・コレクション」のアリストテレス『問題集』 (ライプツィヒ、C.カヘロフェン、1494) のタイトル・ページの下部にもその例を見ることができます。
アルファベットの二大書体のひとつで、中世写本で広く使われた書体です。12世紀に大学が設立され、写本の製作が増えたとき、今日protogothicと呼ばれる書体が使われ始めました。その特徴は、その前のカロリング朝体と呼ばれるものより幅が狭く、やや角張っているということでした。この書体から、主に聖書や典礼書に用いられたtexturaと呼ばれる書体、これより少し丸いrotundaと呼ばれる書体、筆記体のように早く書けるようにしたbatardと呼ばれる書体が生まれました。インキュナブラの時代になってもこれらの書体は受け継がれ、次の例のようなゴシック体活字が使われました。
「ゴシック」はGoth (ゴート族のような) という言葉に由来し、ルネサンスの人文主義者が古代ローマの書体に比べて粗野であるとしてこう呼んだところから来ています。
印刷術の発明をめぐっては、様々な議論が行われてきました。現在では、発明者はヨハン・グーテンベルク (c.1400-1468) であるとされていますが、本当の発明者はオランダのラウレンス・コスター (c.1370-1440) であるとする説が有力視された時代もありました。1499年に刊行された『ケルン年代記』には「この原型はオランダで発明されたのであり、そこではマインツよりだいぶ前に『ドナトゥス文法書』が印刷された」と記されていますし、1588年に刊行された『オランダ年代記』には「ハールレムのラウレンスが1442年、文法書を印刷した」と記されています。17世紀にはコスターは木版で印刷したという説も出されましたし、18世紀には木活字で印刷したという説も出されました。しかし、1870年に発表されたA. van der Lindeによる研究では、印刷者としてのコスターは架空の人物であり、オランダ発明説は伝説にすぎないとされました。
コスターが印刷したとも言われてきた『ドナトゥス文法書』、『大文典』、『人類救済の鑑』、『イリアス要約』といった200点ほどのプリミティブな印刷物はコステリアーナと呼ばれましたが、今日では紙や活字の研究から、すべて1463年から1480年の間に印刷されたものとされ、印刷者も19世紀末のオランダのインキュイナブラ研究家M.F.A.G.CampbellにならってPrototypographyと呼ばれています。
初期のインキュナブラは、中世写本にならってタイトル・ページはありませんでした。というのも、写本の材料である獣皮は高価であり、無駄なく本文を収録したからです。その代わり、写本の末尾に著作のタイトルや著者名、筆写者の名前、筆写地や筆写年等が記されました。インキュナブラもそれにならって、末尾に著作のタイトルや著者名、印刷者名、印刷地、印刷日付等が記され、この部分はコロフォン (「最後の一筆」という意味) と呼ばれます。
インキュナブラ時代の紙は、ぼろ布を細かく裁断して水に溶かして発酵させ、それを水車小屋ですりつぶしてパルプ状にしたものを漉き桁 (mould) ですくって乾燥させたものです。手漉き紙は、全体が同じ厚さにならないで、漉き桁のすのこの目に従って厚さに違いができます。紙を光にかざすと薄い部分は明るく見え、数センチおきの太い線とそれに直角に密集した細い線が見えます。この太い線を鎖線、細い線を密線と呼びます。
全紙は縦方向に鎖線が見えますので、これを折りたたみますと判型によって下の表のように線の方向が変わります。
全紙 | フォリオ | クォート | オクターヴォ | セクスト・デチモ | |
---|---|---|---|---|---|
鎖線 | 縦 | 縦 | 横 | 縦 | 横 |
密線 | 横 | 横 | 縦 | 横 | 縦 |
左は当館の所蔵する中世写本、アリストテレス『オルガノン 霊魂論』です。14世紀か15世紀初めにパリで筆写されたとされるものです。右は1475年にヴェネツィアで印刷された『ラテン語聖書』です。欄外標題、イリュミネーションされたイニシアル、2段組など、デザインが非常に似ており、余白 (マージン) の取り方も似ています。このように、インキュナブラは中世写本のブックデザインを引き継いでいます。
中世写本では、筆記の節約のためしばしば名詞や動詞の綴りを短くしてしまうことが行われました。混同が起きないよう、「-」や「~」、「o」などをアルファベットの上部や中に書き加えて識別したりしました。略す方法としては (1) 単語の冒頭を残して後を省略する (truncation) 、 (2) 単語の中間を省略する (contraction) 、 (3) 「-」や「~」、「o」を加えて省略されている場所と文字を示す、 (4) 単語の末尾に記号を付けて語尾を省略する、 (5) 単語を別の記号で置き換える等が行なわれました。ヴァリエーションが非常に多く、18世紀の古文書学者J. L. Waltherが略字の辞書を作成して以来、A. Chassant、A. Cappelli、A. Pelzerといった人たちが様々な事例を集めて辞書を作成しています。
インキュナブラは写本をそのまま印刷しようとしたものですので、これらの略字や縮約形もそのままの形で印刷され、そのために、アルファベットに記号の付いた活字やアルファベット以外の活字も作られました。左図はライプツィヒのC.カヘロフェンのTyp. 3と呼ばれる活字のうち縮約形や略字のために作られたものの例です。
以下ではこれらの縮約形や略字の例を見てみましょう。
以上、C.カヘロフェンのTyp.3と呼ばれる活字から縮約形、略字の例をみましたが、インキュナブラではこれ以外のものも使われています。それらについては、A. Cappelli: Lexicon abbreviaturarum; dizionario di abbreviature latine ed italiane (1929. 6.ed.1990) をご覧ください。
なお、「インキュナブラ・コレクション」で紹介している「アリストテレス『問題集』」の冒頭部分を略字なしで記述すると、以下のようになります。
Incipiunt Propleumata Arestotelis.
[O]Mnes hominess naturaliter scire desiderant scribit
Arestoteles princes philozophorum primo methaphisice cuius causa potestas redidi talis Quia omne ens na turaliter appetit summa perfectionen et similiter conatur se associare primo enti diuino et immortali inquantum potest. ut quia scientia est de perfectione intellectus humani. ergo omnes hominess naturaliter scire desiderant. Rursus et alia ratio est. Nostra quodcumque ens naturaliter appettit bonum vt se conseruare potestas in rerum natura. sed quia omnis noticia scientifica est de numero bonorum honorabilium vt patet primo de anima. ergo naturaliter omnis homo scire desiderat Et ex consequenti omnis scientia inquantum intellectui humano est possibilis est adquirenda. Quamuis igitur quelibet scientia sit perserutanda magis tamen illaque est nobilior et communior alijs scientijs. sed quia philozophia naturalis confert maximas delectations vt patet. quarto Ethicorum. ergo preceteris scientia philozophica diligencius est inquirenda Etiam propter alias causas Nam presens scientia est filiaris scientie naturali quir ipsa clarificat animan ipsa facit delectari in hoc seculo. vt dicit Arestoteles in libro de pomo et morte qui etiam intantum clarificat hominen vt ipsum primo enti diuino et immortali assimilari laborat. teste seneca in epistola in talia prorumpens verba Hoc mihi philozophia promittit vt sumopere me deo parem reddit Libet igitur de animalibus corporalibus presertim de corpore humano ex pluribus artificialibus codicibus propleumata colligere Et est primum tale.
Queritur quare inter omnia animalia homo habet faciem versus celsum eleuatam Respondetur multipliciter. Primo Quidam est ex voluntate ipsius creatoris et quamuis illa responsio sit vera non tamen videtur valida in propositio. quia sic facile est omnia soluere Secundo respondetur quod omnis artifex opus suum primum facit deterius. et post hoc opus suum secundum melius et sic deus creauit bruta animalia primo. quibus dedit faciez de pressam ad terram inclinatum. Et secundo Aij
本の第1葉は痛みやすく、失われてしまう場合もあります。そのため、第1葉から本文を始めない本が1460年代後半に登場しました。第1葉全体を白紙にしたもの、あるいは第1葉表を白紙にした本が作られましたが、1480年代に入ると、その第1葉表に簡単な文字を入れた本が登場し、これがタイトル・ページに発展しました。
現在のブックデザインのような、装飾的で、書誌的情報を含んだタイトル・ページが普及するのは16世紀に入ってからのことです。
中世写本は、黒いインクだけでなく青や赤のインクでも文字が書かれました。それを再現するため、グーテンベルクは『42行聖書』で赤色印刷を試みましたが、うまくいかなかったため、その部分は手書きで仕上げるようにしました。1457年にフストとシェファーは『マインツ詩篇』でイニシャル部分を多色印刷しましたが、技術的に困難なためか、その後それほど普及しませんでした。しかし、1480年代に入ると、アウグスブルクのE.ラトドルトのように、部分的に赤いインクで印刷することが得意な印刷者も出てきました。
挿絵への色付けは、インキュナブラ時代以降も長らく手で彩色する方法がとられ、17-18世紀にはメゾチントやアクアチントのような凹版で多色印刷が行われました。17世紀後半にニュートンの光の三原色理論が出ますと、この原理によるカラー印刷がJ. C. Le Blonにより始められました。19世紀にはリトグラフが発明され、色を付けるchromolithographyという技法が発達しました。現在ではオフセット印刷によるカラー印刷が多く行われています。
冊子 (コデックス) の写本が作られ始めた4世紀終わり頃、写本は普通各ページとも3段組で書かれていました。9世紀以後は2段組が定着したので、『42行聖書』をはじめとしてインキュナブラも2段組 (double column) で印刷されたものが多くあります。また、中世写本において、法律書は法律本文の周りを囲うように注釈が記されました。インキュナブラでも本文を囲むように注釈を配置する組版が行われました。
グーテンベルクの印刷機がぶどう搾り機を改良したものであるとは良く言われることです。グーテンベルクが実際に使った印刷機は残っていないのですが、アントワープのプランタン・モレトゥス博物館に残っている印刷機と構造的にはほとんど変わらないと考えられています。日本でキリシタン版が印刷されたのもこの型の印刷機によってであると思われますが、こちらも1614年にマカオへ移されたことが分かっているだけで、当時の印刷機は失われてしまいました。
この印刷機は、手でレバーを水平に引くとねじにより垂直方向の力が版面にかかるという仕掛けで、ハンド・プレスと呼ばれます。ハンド・プレスの詳細については第一章をご覧下さい。ハンド・プレスで印刷された本はhand press bookと呼ばれ、インキュナブラ時代から大体1830年頃まではこの印刷機が使われたといわれます。ヨーロッパの学術図書館は、共同してConsortium of European Research Libraries (CERL) を作り、この団体がHand Press Book Databaseというデータベースを作成しています。現在100万件を超えるhand press bookが入力され、その中にはインキュナブラのデータベースIncunabla Short-Title Catalogue (ISTC) のデータも含まれています。
インキュナブラは全紙を何回か折りたたむことで折丁が作られていますので、本の大きさは全紙の大きさと、それを何回折りたたんだかで決まってきます。1回折りたたんだものをフォリオ (folio, 2o) 、2回折りたたんだものをクォート (quarto, 4o) 、3回折りたたんだものをオクターヴォ (octavo, 8o) 、4回折りたたんだものをセクスト・デチモ (sexto-decimo, 16o) と呼びます。これが判型の呼び名です。
典型的な4種類の全紙からできる4種類の判型の大きさを表にすると次のようになります。
全紙 | フォリオ | クォート | オクターヴォ | セクスト・デチモ | |
---|---|---|---|---|---|
Imperialle | 500 × 740 | 500 × 370 | 370 × 250 | 250 × 185 | 185 × 125 |
Realle | 445 × 616 | 445 × 308 | 308 × 223 | 223 × 154 | 154 × 112 |
Meçane | 345 × 516 | 345 × 258 | 258 × 173 | 173 × 129 | 129 × 87 |
Reçute | 315 × 450 | 315 × 225 | 225 × 158 | 158 × 113 | 113 × 79 |
普通、製本の際に、小口をきれいにするため折丁の端はカットされますので、実際の本の大きさはこれらの数字より小さくなっています。
グーテンベルクの発明した可動金属活字は、同じものが何本も作られたということが革新的でした。グーテンベルクは貨幣鋳造技術を身に付け、1439年頃にはシュトラスブルクで鏡職人であったという記録があります。彼は彫金技術を身に付けていましたので、硬い金属を削って活字の元になる父型を自ら作ることができたと思われます。この父型を元に同じものを活字として複製する工程が、母型の作製と、母型をL字型ブロックで囲んでの鋳造です。母型は鉄でできた父型を銅に打ち込んで作られた雌型で、ここに溶かした鉛等の合金を流し込んで冷やすと活字が自然にできるように、図のような母型鋳型の装置が考案されました。
写本時代のデザインを踏襲して、本の第1葉や時祷書の各ページを装飾的な縁飾りで囲むデザインがインキュナブラでも行われました。手でイリュミネーションを施す作業の代わりに木版で印刷するやり方が主となりましたので、木版挿図の印刷を得意にした印刷者がよく用いました。またパリで多く印刷された時祷書は、周囲を聖書中の場面をあらわす図で囲むデザインがされ、木版ではなく金属彫版で印刷されたものもあります。
インキュナブラの時代、フランスの多くの都市は復活祭の日に新年を迎えました。そのため、フランスの都市の西暦とドイツの都市の西暦が1年ずれる日があります。インキュナブラは定義が1500年以前に印刷されたものということですので、新年を迎える日の違いが重要になります。
復活祭の日は325年のニケアの公会議で「春分の日以後の満月の次の日曜日」と決められました。インキュナブラ時代の復活祭の日は、以下の表の通りです。(*のある年は閏年)
1451年 | 4月25日 | 1452年* | 4月9日 | 1453年 | 4月1日 | 1454年 | 4月21日 | 1455年 | 4月6日 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1456年* | 3月28日 | 1457年 | 4月17日 | 1458年 | 4月2日 | 1459年 | 3月25日 | 1460年* | 4月13日 |
1461年 | 4月5日 | 1462年 | 4月18日 | 1463年 | 4月10日 | 1464年* | 4月1日 | 1465年 | 4月14日 |
1466年 | 4月6日 | 1467年 | 3月29日 | 1468年* | 4月17日 | 1469年 | 4月2日 | 1470年 | 4月22日 |
1471年 | 4月14日 | 1472年* | 3月29日 | 1473年 | 4月18日 | 1474年 | 4月10日 | 1475年 | 3月26日 |
1476年* | 4月14日 | 1477年 | 4月6日 | 1478年 | 3月22日 | 1479年 | 4月11日 | 1480年* | 4月2日 |
1481年 | 4月22日 | 1482年 | 4月7日 | 1483年 | 3月30日 | 1484年* | 4月18日 | 1485年 | 4月3日 |
1486年 | 3月26日 | 1487年 | 4月15日 | 1488年* | 4月6日 | 1489年 | 4月19日 | 1490年 | 4月11日 |
1491年 | 4月3日 | 1492年* | 4月22日 | 1493年 | 4月7日 | 1494年 | 3月30日 | 1495年 | 4月19日 |
1496年* | 4月3日 | 1497年 | 3月26日 | 1498年 | 4月15日 | 1499年 | 3月31日 | 1500年* | 4月19日 |
1501年 | 4月11日 |
印刷者 (プリンター) は、しばしば自分の印刷した本のタイトル・ページか最終ページに木版の図案を印刷しました。これは自らの印刷所の商標で、プリンターズ・マークと呼ばれます。最初に印刷したのはマインツのフストとシェファーで、『ラテン語聖書』 (1462) に枝から下がる二つの盾をデザインしたマークを印刷しました。このデザインは一つの型となり、ローマのハン、バーゼルのケスラーといった印刷者が同型のマークを用いました。もう一つの型はヴェネツィアのジャンソンの後継者が用いたもので、長方形の中に円と直線がデザインされています。
プリンターズ・マークを集めて記録することは18世紀の書誌学者により始められ、19世紀にはM.L.PolainやL.-C. Sylvestreがプリンターズ・マーク図集を刊行しました。インキュナブラ学者のK.ヘブラーは『活字総覧』 (1905-24) の中で各印刷者の用いたプリンターズ・マークを記述しましたし、A.シュラムは『初期印刷の絵画的装飾』 (1920-43) の中でドイツの印刷者の用いたプリンターズ・マークを多数複製しました。
16世紀に入ると、アルドゥスやフローベン、ジュンタ、プランタンといった有名な出版者が独特のプリンターズ・マークを使い出し、様々な図案がデザインされました。イタリアで16世紀に刊行された本のデータベースEdit16は、1,000以上のプリンターズ・マークをデータ化し、検索できるようにしています。
アラベスク模様で囲まれた装飾的なイニシャルを、ルブリケーションするのでなく木版で直接印刷してしまうことも行われました。ウルムのヨハン・ツァイナーやヴェネツィアのエアハルト・ラトドルトの用いた美しい木版イニシャルは有名です。装飾的イニシャルは、16世紀には彫刻銅版 (copper engraving) で印刷されるものも出てきました。
中世写本には文字だけでなく挿絵の入れられたものがしばしば見受けられましたが、インキュナブラ時代になると、挿絵は木版画で作られました。というのも、活字の版面と木版は同時に印刷できるからです。最初の挿絵入りインキュナブラは、1461年にバンベルクでA.プフィスターが印刷した『宝石』という寓話集で、この時はまずテキストが先に印刷され、後で挿絵が印刷されたようです。木版挿図は印刷された後、手で彩色されたものもあります。ドイツでは、G.ツァイナー、J.ツァイナー、A.ゾルク、A.コベルガーといった印刷者が挿絵入り本を多く印刷しましたが、後にウィリアム・モリスがこれらの本を愛好し、自らのケルムスコット・プレスで木版挿絵入り本を印刷しました。また、イタリア、フランスでも挿絵入り本は多数印刷されました。
挿絵は、16世紀には金属彫版でも作製され、17-18世紀には凹版である銅版画で作製されました。19世紀に石版術 (リトグラフ) が発明されると、挿絵はリトグラフで作製されるようにもなりました。これらの挿絵には、植物図集や鳥類図集などのように手で彩色の施されたものもあります。
挿絵入り本の研究も行われ、18世紀にはアウグスブルク印刷史を研究した G. W. Zapfがインキュナブラの木版挿図の複製を作りましたし、19世紀末から20世紀始めにはW. L. Schreiber: Manuel de l'amateur de la gravure sur bois et sur métal au XVe siècle (1891-1911) や V. M. d'Essling: Les livres à figures vénitiens ... (1907-14) 、A. Schramm: Der Bilderschmuck der Frühdrucke (1920-43) のような大部な研究書が出されました。このうちSchramm: Bilderschmuck... (『初期印刷の絵画的装飾』) は、ドイツのインキュナブラで用いられた木版挿図 (縁飾り、木版イニシャル、プリンターズ・マークなども含みます) をほとんど網羅的に複製したもので、全23巻中に1万点を越す木版挿図が含まれています。
ヨーロッパでは、木版画は遅くとも14世紀には行われていましたが、製作年のわかる一番古いものは1418年に刷られた「四人の聖女と聖母子」であると言われます。これらは民衆向けの宗教画で、今では多くは失われ残存が非常に少ないため、印刷者等の詳しいことは分かっていません。この中から絵だけでなく文字も印刷された一枚ものも作られるようになり、さらには何枚かを冊子の仕立てにした本も印刷されました。この本を木版本 (block book, xylograph) と呼んでインキュナブラとは区別しています。「貧者の聖書 (Biblia pauperum) 」「人類救済の鑑 (Speculum humanae salvationis) 」「黙示録 (Apocalypse) 」「往生術 (Ars moriendi) 」等がよく印刷されたタイトルですが、これらはインキュナブラとしても印刷されましたし、木版本が必ずしも古いわけではなく、多くの木版本は1465-75年に印刷されました。木版本は紙の片面のみ印刷されているという特徴がありますが、ブランクページ同士を糊で張り合わせて、ブランクページがないように冊子化されたものもあります。
古代ローマの暦は、もともと太陰暦でしたので、新月の日と満月の日を特定する暦でした。太陽暦に変わっても日付の呼び方は元のままで、新月でなくとも月の初めはカレンデと呼び、満月でなくても月の半ばをイドゥスと呼びました。その他の日は、カレンデやイドゥス等に対して何日前であるという表現をしました。3月の表記例を表にしましたのでご覧ください。
3月1日 | Kal. Martii | 3月2日 | VI Nonas Martii | 3月3日 | V Nonas Martii | 3月4日 | IV Nonas Martii |
---|---|---|---|---|---|---|---|
3月5日 | III Nonas Martii | 3月6日 | Pridie Nonas Martii | 3月7日 | Nonas Martii | 3月8日 | VIII Idus Martii |
3月9日 | VII Idus Martii | 3月10日 | VI Idus Martii | 3月11日 | V Idus Martii | 3月12日 | IV Idus Martii |
3月13日 | III Idus Martii | 3月14日 | Pridie Idus Martii | 3月15日 | Idibus Martii | 3月16日 | XVII Kal. Aprilis |
3月17日 | XVI Kal. Aprilis | 3月18日 | XV Kal. Aprilis | 3月19日 | XIV Kal. Aprilis | 3月20日 | XIII Kal. Aprilis |
3月21日 | XII Kal. Aprilis | 3月22日 | XI Kal. Aprilis | 3月23日 | X Kal. Aprilis | 3月24日 | IX Kal. Aprilis |
3月25日 | VIII Kal. Aprilis | 3月26日 | VII Kal. Aprlis | 3月27日 | VI Kal. Aprilis | 3月28日 | V Kal. Aprilis |
3月29日 | IV Kal. Aprilis | 3月30日 | III Kal. Aprilis | 3月31日 | Pridie Kal. Aprilis |
本文の版面の余白 (margin) の部分に短い注の文章を入れることが行われ、この注は欄外注 (marginalia) と呼ばれます。文章の出典などを表示するのに用いられ、普通、本文より小さい活字で印刷されました。
写本の時代からヘッダーをつけることが行われ、しばしば赤と青のインクを交互に使って書かれています。この上部の余白には、本の標題や章の標題、あるいはそのページの主題語やこの本の丁付け (leaf number) が記されました。インキュナブラもこの習慣にしたがって、上部の余白に本や章の標題等が印刷されました。この標題を欄外標題と呼びます。
写本のデザインにならって、インキュナブラでも各章の冒頭の語の頭文字 (イニシャル) は赤いインクで大きく書かれました。印刷の段階ではその部分を空白にしておき、後でルブリケーター (rubricator) と呼ばれる職人が装飾的なイニシャルを書き入れたのです。空白にしておいた場所に書く文字を指示するため、あらかじめ小さく活字で印刷された場合もあります。この小さく印刷された文字をガイド・レター (guide letter) と呼びます。
写本の装飾は、この他にも縁飾りや頭文字を絵画化したもの等があります。これらの装飾はイリュミネーションと呼ばれ、インキュナブラでもイリュミネーションが施されました。
製本師 (バインダー) は、折丁記号を頼りに折丁を重ねて製本しますが、その本にはどのような折丁記号 (signature) が使われているかが分かり、あるいは折りたたんだ丁が乱丁になっていないことが確認できると便利です。そのために折丁記号とその記号の丁の前半の葉の冒頭の語を一覧にしたものが最後のページに印刷されるようになりました。この一覧は欄外標題として「Registrum cartharum」「Registrum operis」などと書かれ、レジスターと呼ばれます。
アルファベットの二大書体のひとつで、イタリアの人文主義者達が古代ローマの碑文で用いられた書体の復活をこころざし、8世紀末のカロリング朝体という書体を真似ることで広まりました。活字としては1465年にC.スヴァインハイムとA.パナルツが最初に用い、ドイツの印刷者にも広まりました。しかし、これらの書体は、今日のローマン体と比べると若干ゴシック的なものが残っています。今日のローマン体は、1470年にN.ジャンソンが用いたものが元になり、この活字は最も美しいものと言われます。
ローマン体は、16世紀にはオールド・フェイスと呼ばれるデザインが、また18世紀にはモダン・フェイスと呼ばれるデザインが流行しました。
インキュナブラ研究は17世紀から始まっていますが、印刷物を年報形式で古い順にならべていったM. Maittaire(1667-1747)やG. W. Panzer(1729-1805)の仕事を経て、19世紀前半には全インキュナブラを著者のアルファベット順に並べた目録がL. Hainにより刊行されました。しかし、この目録では、印刷地、印刷者、印刷年が不明とされるものも多く、活字の比較により印刷者を突き止めるという方法が19世紀後半に始められました。ヨーロッパ各国はこの方法を取り入れたインキュナブラ目録の編纂を開始しましたが、最も完全な目録刊行を目指したのがドイツです。
このプロジェクトの中心となったK.ツィアツコ (1842-1903) は、1901年に構想を発表し、1904年に「インキュナブラ総合目録 (Gesamtkatalog der Wiegendrucke) 」編集委員会 (Kommission) が設立されました。編集委員会の中心人物であるK.ヘブラー (1857-1946) は、1906年から11年にかけてドイツ国内676機関にある145,000点のインキュナブラのデータを集めました。この目録は、世界的なインキュナブラの所在を明らかにすることも目指していますので、さらに国外のインキュナブラ調査が行われると共に、1914年には、まず一枚ものの目録が刊行されました。さらにK.ヘブラーは、目録記載のツールとなる『活字総覧』 (Typenrepertorium der Wiegendrucke) 」を編集し (1905-24) 、さらにその副産物として3種類のインキュナブラ零葉集を刊行しました (1927-28) 。
GWは、全体で27巻からなる膨大な目録であり、第1巻がライプツィヒで刊行されたのは1925年のことでした。1940年までに第8巻の第1分冊までが刊行されましたが、戦争により刊行は中断し、第8巻は1978年に、第9巻は1991年に、第10巻は2000年に刊行され、現在は第11巻が分冊刊行中です。また2003年からは、GWのインターネット版が公開されています。