第2章 産業
3. 実業家たちの日仏交流
慶応3(1867)年正月、後に「日本資本主義の父」と称される渋沢栄一は、将軍徳川慶喜(1837-1913)の名代としてパリ万国博覧会に出席する徳川昭武(1853-1910)に随行し、フランス郵船アルフェー号で横浜を発った。昭武は、幕府崩壊のため帰国するまで、約1年半にわたってフランスで留学生活を送った。昭武一行の会計役を担った渋沢は、滞在を世話した銀行家ポール・フリュリ=エラール(1836-1913)から、資本主義経済の仕組みを学んだ。特に、フリュリ=エラールが軍人と対等に接するのを見て、身分制の打破と実業の地位向上の必要を痛感したと後年述べている。帰国後の渋沢は、大蔵省入りして株式会社制度や通貨制度の確立に努めるとともに、明治6(1873)年には実業界に身を投じて数多くの会社を作り上げた。
渋沢や稲畑勝太郎らフランスに学んだ実業家たちは、日仏会館の建設等にも尽力し、日仏交流史における重要な役割を果たしている。
渋沢栄一
幸田露伴『渋沢栄一伝』渋沢青淵翁記念会, 昭14(1939)【766-25 】
小説家・幸田露伴(1867-1947)による渋沢の伝記。財団法人渋沢青淵翁記念会が渋沢生誕100年を記念して刊行を企画し、岩波書店を通じて稿料3万円で露伴に依頼した。露伴の実弟で歴史家の成友(1873-1954)は、『渋沢栄一伝記資料』【289.1-Si267Rs
】の編纂に携わっており、本書の執筆にも資料面で協力したと考えられる。
渋沢の生涯は、明治6(1873)年の大蔵省退官まで、実業界に投じてから同42(1909)年に経営から引退するまで、社会公共事業に尽力した晩年の3期に分けられるが、本書においては第1期が記述の大部分を占めている。露伴は、日本に資本主義を根付かせるため、制度の確立に苦闘した前半生を渋沢の生涯のハイライトと考えたようである。
なお、露伴の格調高い文体は、伝記の普及に適していたとは言えず、依頼主は必ずしも満足しなかったと言われる。戦後になって、露伴の推薦により大仏次郎(1897-1973)が新聞連載小説『激流 渋沢栄一の若き日』を書いている。
渋沢栄一(青淵)・杉浦靄人『航西日記』耐寒同社, 明4(1871)【特31-677】
渋沢は、武蔵国(埼玉県)の農家に生まれ、従兄の尾高惇忠に漢学を学んだ。若年の頃、攘夷運動に加担し決起を図るも頓挫、追及を逃れて上京し、成り行きから一橋家に仕官した。当主慶喜の将軍就任に伴い幕臣となり、徳川昭武遣仏に随行を命じられた。
本書は、慶応3(1867)年正月の横浜出帆からパリ万国博覧会参加、欧州歴訪を経て同年11月にパリに帰着するまでの記録であり、大蔵省時代の明治4(1871)年、渋沢と杉浦譲の備忘録をもとに編集して刊行された。万博会場の見聞はもとより、渡航船中での洋食やコーヒーを美味と賞したり(1月12日)、華やかな舞踏会に感心したり(4月1日)、と新しい文明に触れた感動が生き生きと描かれ、旺盛な好奇心と適応力の高さがうかがえる。同時期の渋沢の日記として『御巡国日録』が知られており、本書はこれを元に編集したものと推定される。また、続く時期には、昭武の留学生活を記す『巴里御在館日記』がある。
渋沢栄一述『立会略則』大蔵省, 1871【W373-65】
元攘夷派であった渋沢は、西洋文明に触れ、日本に産業を興すことの必要を認識した。帰国後、渋沢は新政府に登用され、民部省、のち大蔵省に設置された改正掛に籍を置く。改正掛は、大隈重信、伊藤博文、井上馨(1836-1915)らに協力して、電信や鉄道の建設、郵便制度の創設、廃藩置県等、新国家建設に必要な諸施策の立案に取り組んだ。渋沢は、急速に産業化が進んだ第二帝政下のフランスを範に、通貨や商品、情報を流通させること、小資本を合わせて産業資本を形成することを重視し、銀行や合本会社(株式会社)の設立を推進した。
本書は、福地源一郎(1841-1906)が訳述した『会社弁』【106-283】を補足し、銀行を含む通商会社の設立を解説したもので、ともに大蔵省から刊行された。
渋沢は、明治6(1873)年大蔵省を辞し、前年の国立銀行条例に基づいて設立された第一国立銀行の総監役に就任した。以後、在野で実業界の発展に尽力した。
竜門社編『青淵先生六十年史』竜門社, 明33(1900)【86-117】
実業界に入った渋沢は、数多くの会社の設立・経営に携わった。その主なものを挙げると、第一国立銀行(現みずほ銀行)、抄紙会社(現王子製紙)、大阪紡績会社(現東洋紡)、東京海上保険会社(現東京海上日動火災保険)、共同運輸会社(現日本郵船)、札幌麦酒会社(現サッポロビール)、東京株式取引所(現東京証券取引所)、帝国ホテル等あらゆる分野にわたる。渋沢は、「論語と算盤」の合一を説いて財閥形成には関心を持たず、実業界の指導者として日本の近代化に必要な産業の育成に努めた。
竜門社は、渋沢(号青淵)を慕う書生たちの勉強会から始まり、討論会の実施や『竜門雑誌』【雑56-38】の発行を行った。本書は、明治33(1900)年渋沢の還暦を記念して、女婿・阪谷芳郎(1863-1941)を中心に竜門社が編纂した伝記である。「一名近世実業発達史」とあるように、渋沢の生涯は近代日本の実業の歩みに重なるものであった。前半生に関する談話は、『雨夜譚』として知られる。
日仏会館編『財団法人日仏会館報告』日仏会館, 大正14(1925)【14.5-363】
渋沢は実業界を引退後、もっぱら社会公共事業に力を注ぐこととなる。『航西日記』には、フランスで廃兵院を視察し、西洋の福祉制度に感銘を受けた様子(4月20日)が綴られているが、帰国後、明治7(1874)年から東京府養育院の運営に関与するなど、早くから社会福祉事業に取り組んだ。また、米国で日本移民排斥問題が生じると、民間の立場から平和外交に取り組むなど、国際親善活動にも尽力した。
平成26(2014)年に創立90周年を迎えた日仏会館は、日仏両国の学術文化交流を担う中心的機関となってきたが、その設立に当たり、駐日フランス大使ポール・クローデル(1868-1955)に協力して初代理事長を務めたのも渋沢である。会館の設立60周年を記念して創設された渋沢・クローデル賞は、相手国の文化に関する優れた研究に対して授与されている。本書は、会館の設立翌年に刊行された第1回の報告書であり、設立委員に渋沢の名が見える。
稲畑勝太郎
土屋富三郎『実用仏国染法』稲畑商店, 明36(1903)【81-814】
京都の菓子屋に生まれた稲畑勝太郎は、明治10(1877)年、近藤徳太郎らとともにレオン・デュリーに率いられてフランスに渡った京都府留学生の1人である。リヨンで普通学校を出た後、工業学校で染色を学び染工場で働いて技術を習得した。東洋人に対する差別も残る中、時にはフランス人職工と格闘になるなど、大変な苦労をして重労働を勤め上げた。その後、リヨン大学で応用化学を学び、通算8年間の留学を終えて帰国した。京都織物会社設立に参画し、染色技術を指導したが、人件費の安い当時の日本では染色工程の機械化の効果は小さく、同23(1890)年会社の業績悪化に伴い解雇された。以後、染料輸入を手がけ、同30(1897)年には大阪を拠点に染工場を興して成功した。
本書は、稲畑商店(現稲畑産業)が刊行した、フランス染色技術の解説書。冒頭には、同店取扱いの輸入染料品目が掲げられている。
稲畑勝太郎『欧亜に使して』日本評論社, 昭和4(1929)【578-238】
稲畑は、軍服に用いられるカーキ色染料の開発に成功し、日露戦争時に陸軍に採用された。その後、大正11(1922)年には大阪商業会議所会頭に当選、昭和12(1937)年日本染料製造(現住友化学)取締役会長に就任するなど、関西を代表する企業家となった。その一方で、民間の立場から諸外国との親善に取り組むなど、渋沢栄一同様その活動は実業界にとどまらなかった。
本書は、大正15(1926)年から昭和2(1927)年にかけて、日本実業界を代表しての仏領インドシナ答礼訪問と使用者代表委員として第10回国際労働総会出席のため、アジア、ヨーロッパを旅行した際の旅行記である。留学の地リヨンも再訪している。稲畑は日仏交流にも尽力し、駐日大使ポール・クローデルの要請を受けて、昭和2(1927)年の関西日仏学館(京都)の開設にも協力している。
大東楼主人『自動写真術』西田貞一, 明30(1897)【18-730】
稲畑の一風変わった功績として、日本に初めて映画を紹介したということがある。1895年に映画(シネマトグラフ)を発明したリュミエール兄弟の兄オーギュスト(1862-1954)は、リヨンの工業学校の同窓であった。明治29(1896)年にモスリン紡織技術視察のため渡仏した稲畑は、前年発明されたばかりのシネマトグラフを見せられ、東洋における供給代理人契約を申し出た。リュミエールは、機器操作と興行成績監視、日本の風景の撮影のため、映写技師コンスタン・ジレル(1873-1952)を派遣し、売上の6割を権利金として支払う条件で契約が成立した。日本における最初の興行は、翌30(1897)年2月大阪南地演舞場で行われた。稲畑自身は興行収益に関心はなく、この新発明によって日本人が西洋文明を視覚的に学ぶことができることに期待したようである。
本書は、日本で映画について書かれた最初の文献とされ、早くも初興行の2か月後に大阪で出版されている。後半には、映画を題材とした小説を収める。
薩摩治郎八
『文部省在外研究員規程其他ニ関スル注意事項』文部省専門学務局, 1933【FD43-8】
薩摩治郎八(1901-1976)は、大正12(1923)年頃留学先の英国からフランスへ移住した。実家の薩摩商店は日本一の織物問屋であり、治郎八は現在の貨幣価値で毎月3千万円の仕送りを受け、パリ社交界で蕩尽した。「バロン・サツマ」と呼ばれ、画家・藤田嗣治(1886-1968)やテノール歌手・藤原義江(1898-1976)を後援したことでも知られる。昭和10(1935)年の薩摩商店倒産後もフランスにとどまり、ドイツ占領下ではアンドレ・マルロー(1901-1976)ら文化人を庇護した。アンドレ・オノラ(1868-1950)が提唱したパリ国際大学都市の理念に共鳴し、留学生寄宿舎パリ日本館の建設に2億円の私財を拠出した。
本書は、同8(1933)年の文部省在外研究員向けの案内であるが、「薩摩治郎八氏ノ特志」による「巴里大学都市日本学生会館」の名が見える。同館は、多くの留学生を受け入れ、平成9(1997)年のパリ日本文化会館開館まで日本文化紹介の拠点としても重要であった。