第1章 政治・法律
4. 立憲政治の展開
自由民権運動の勃興に対して、政府は明治8(1875)年に新聞紙条例、讒謗律を制定し、言論取締りによって抑え込もうとしたが、他方では立憲政体漸次樹立の詔が発せられ、立憲政治の段階的樹立を認めることになった。その後、元老院による国憲編纂の試みがなされたものの挫折に終わる。
明治14年の政変で大隈重信(1838-1922)らが失脚した後、国会開設の勅諭が発せられた。これを受けて伊藤博文(1841-1909)がドイツへ渡航してプロイセン憲法を学び、井上毅(1843-1895)らに憲法草案を起草させた。これを元に成立したのが大日本帝国憲法である。同憲法は同22(1889)年に公布され、翌年には第1回帝国議会が開会する。同憲法にはドイツの影響が目立つが、その制定過程におけるフランス公法学ないし憲法学の影響も無視できない。
フランス公法学の影響
独刺屈爾西(ドラクルチー)(大井憲太郎訳・箕作麟祥閲)『仏国政典』司法省,明治6(1873)【15-22】
エミール・ドラクルチー(生没年不詳)は経歴等不詳。訳者は大井憲太郎。箕作麟祥は、副島種臣や江藤新平らの命で刑法典・民法典をはじめフランス法の翻訳を多数手がけ(『仏蘭西法律書』【CF2-3-07】など)、日本におけるフランス法研究の創始者とされる。Constitutionに「憲法」の訳語をあてたのも、箕作が最初という。
本書も江藤が翻訳させたもので、全体を4部に分け、第1部を国法(憲法)、第2部を政法(行政法)、第3部を私法(民法)、第4部を刑法の解説に充てる。
ヂブスケ訳・生田精述『仏蘭西憲法』博聞社,明治9(1876)【特39-77】
18世紀以降、フランスには多くの憲法典が成立した。本書は、フランス最初の成文憲法である1791年憲法の翻訳である。この憲法では、立憲君主制、一院制議会と納税額に基づく制限選挙が採用された。
アルベール・デュブスケ(治部輔、1837-1882)は、ベルギー生まれの軍人。第1次フランス軍事顧問団の一員として慶応3(1867)年に来日した。江戸幕府崩壊後も日本にとどまり、フランス法の翻訳、条約改正や軍隊の創設、元老院憲法草案等に関わった。日本人の妻子を持ち、日本で没して青山墓地に埋葬された。
なお、訳者の生田精(1830-1881)は、民法典編纂に当たって全国の慣習を調査した『全国民事慣例類集』【24-71】の編者でもある。
山崎直胤編訳『仏国政法掲要』博聞社,明治11(1878)【31-165】
本書は、元老院議長・有栖川宮熾仁親王(1835-1895)の命により編訳されたもので、第二帝政期のドラクルチーらの著作を取捨して成ったもの。第1巻で立法権と行法権(皇帝や宰相の行政権)、第2巻で行政事務と行政諸官(地方自治や軍を含む)、第3巻で三権の分立と行政裁判について論じている。三権分立という概念が早くから注目されていた様子がうかがえる。
山崎直胤(1853?-1918)は豊前(大分県)生まれの官僚。明治5(1872)年に渡仏してフランスの産業技術を調査した後、法制官などを務め、伊藤博文の訪欧にも随行した。本書以外に、『仏国民法註釈』【36-63】等の訳書があるほか、著書に『比国憲法釈義』【5-69】等がある。
帝国議会開設まで
大井憲太郎・蓑田真蔵訳,箕作麟祥閲『仏国民撰議院選挙法』滔々斎,明治7(1874)【CF2-251-01 】
フランス革命勃発後、共和政、ナポレオンの帝政を経て王政が復古する。復古王政期・七月王政期には財産に基づく制限選挙が行われた。1848年の二月革命によって共和政が宣言されると、同年3月には男子普通選挙が導入された。しかし、第二共和政は長く続かず、1851年の大統領ルイ・ナポレオン(1808-1873)によるクーデタを受け、翌年第二帝政が開始した。
本書は、フランス1852年選挙法の翻訳である。この選挙法は男子普通選挙・秘密投票・小選挙区二回投票制を採用しており、おおむね第二帝政と重なる時期に用いられた。なお、本書が出版された明治7(1874)年は、すでに普仏戦争の敗北により第二帝政が崩壊しているが、第三共和政はいまだ流動的な時期に当たる。
ヂュブスケ訳・細川潤次郎校『仏国民撰議院規則』元老院,明治10(1877)【BF2-2-01 】
自由民権運動は民選議院の設立を求めたが、議会の運営のためには議院規則が必要である。本書は、勅選の立法審議機関として明治8(1875)年に設置された元老院が作成した、フランス1849年議院規則の翻訳である。議院規則の在り様は国によって異なり、英国議会の運営は、成文の議院規則もないわけではないが、先例・慣行によるところが大きく、一方フランス議会では成文の議院規則を中心に運営される。
細川潤次郎は土佐(高知県)に生まれた法学者・教育家。蘭学・英語などを学んだ後、明治2(1869)年に開成学校権判事となる。この頃、新聞紙印行条例・出版条例を起草した。同4(1871)年、米国に派遣され、帰国後は各種法令の編纂、審査などに従事し、旧民法典編纂にも関わった。その後、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任した。
元老院訳『各国上院紀要』元老院,明治17(1884)【36-26】
本書は、元老院が作成したフランスを含む各国上院の制度の解説書。フランスでは、1789年の大革命から第三共和政までの間に一院制と二院制の両形態が見られたが、本書ではこの間に存在した上院について、その組織と権限を概説している。元老院は、左院の行っていた「国憲」(憲法)編纂事業を継承した。元老院が起草した「日本国憲按」は8篇に分かれ、当初案では民選議院を欠いていたが、同11(1878)年の第2次案では「代議士院」を規定して上下二院制をとった。その後第3次案が成ったものの、岩倉具視らの反対にあい、ついに採択されることがなかった。元老院は大日本帝国憲法の施行に伴い、同23(1890)年に廃止され、上院として貴族院が創設された。
大正以降の立憲政治
森口繁治『立憲主義と議会政治』大阪毎日新聞社[ほか],大正13(1924)【515-109-(4)】
帝国憲法の施行後、大正デモクラシーにおいて立憲主義が改めて論じられる。
森口繁治(1889?-1940)は、大正から昭和前期にかけて活躍した法学者・政治学者。京都帝国大学教授。ルソー『民約論』【382-122】を共訳したほか、『比例代表法の研究』【530-179】などの著書がある。昭和8(1933)年、京都帝国大学教授・滝川幸辰(1891-1962)が著書を発禁処分とされ辞職した(滝川事件)際、佐々木惣一(1878-1965)らとともに辞職し、立命館大学へ移っている。
本書は、「立憲主義」の語がタイトルに用いられた最初期の図書で、フランス留学後のもの。立憲政治とは、「民意による政治」、「法による政治」であり、大臣による議会への「責任政治」であるとしつつ、今日では法は個人を拘束するだけでなく、統治者をも拘束すると述べる。当館所蔵資料には若干の欠落がある。
美濃部達吉『議会制度論』日本評論社,昭和5(1930)【314-M513g】
美濃部達吉(1873-1948)は戦前期を代表する憲法学者。兵庫県生まれ。東京帝国大学卒業後、内務省に勤務し、英国・ドイツ・フランスに留学した。後に東京帝国大学教授。明治末頃から天皇機関説を唱え、これが学界・官界における通説となるが、昭和に入り、右翼からの攻撃を受けた。
本書では、各国の議会制度を概説する中で「フランス革命は此の如く直接にはフランス自身に於いても自由主義の政治を確立せしむるに至らなかつたけれども、しかもそれが後代の世界に於ける自由主義の發達に及ぼした影響は、極めて偉大なるものが有つた」などと述べるほか、フランス議会制度における予算や質問権についても非常に高い水準の記述を行っている。
美濃部の弟子の宮澤俊義(1899-1976)は、モンテスキュー『法の精神』【569-14】の新訳によりフランス憲法史研究に先鞭をつけ、戦後を代表する憲法学者として活躍した。