第2章 産業
2. 各種産業におけるフランスの影響
第1節で取り上げた官営大規模工場による技術移転のほかにも、産業の各分野においてフランスの影響がみられた。明治維新後、西陣機業等の有力な在来産業にあっては、西洋の新技術を導入すべく欧米諸国へ留学生を派遣する動きがおこった。また、官営工場や外国人居留地で接した技術や生活文化を産業化する例もあった。本節においては、絹織物の一大産地フランス・リヨンに留学生を派遣した京都西陣、フランスの技術を導入し特産の甲州ぶどうを用いたワイン醸造を試みた山梨県、横須賀造船所を経て新技術による化粧品製造を事業化した伊東栄(1847-1911)、居留地から始まりフランス人技術者の助けを得つつ日本人の手で事業化された横浜のガス灯等を紹介する。
織物
近藤徳太郎訳『織文要訣』丸善[ほか], 明31(1898)【79-219】
明治5(1872)年、京都府は佐倉常七(1835-1899)ら3名の織工をリヨンに派遣し、ジャカードやバッタンなどの新機械を持ち帰らせた。続いて同10(1877)年、京都府仏学校教師等を務めたフランス人レオン・デュリー(1822-1891)の申し出を受け、近藤徳太郎(1856-1920)ら8名の留学生をフランスに派遣し、織物や染色を伝習させることとなった。
近藤は京都府仏学校を卒業後、東京の勧業寮試験場で織物を学んだ。その間、ギメ美術館に名を残すフランス人実業家エミール・ギメ(1836-1918)、画家フェリックス・レガメ(1844-1907)の日本旅行の通訳を務めている。近藤は、デュリーの推薦で京都府留学生に加えられ、織物機械の運用技術の伝習を命じられた。同15(1882)年に帰国後は、京都織物会社の創立に関わるなどしたが、栃木県工業学校に招かれ、足利織物を指導した。本書は、P・ファルコ(1804-?)による古典的な織物技術の教科書を近藤が抄訳したもの。
京都織物株式会社編『京都織物株式会社五十年史』京都織物, 昭12(1937)【740-34】
明治維新後、東京奠都に伴い京都は深刻な衰微に直面した。主要産業の西陣機業も、宮中装束が洋装に改められたことなどから不振に陥った。京都府は、洋式生産技術の積極的な導入を図り、佐倉らの持ち帰ったジャカードを大規模に備えた「織殿」と称する織工場を設置した。しかし、織殿の経営は収支が見合わず難航した。府からフランスへ派遣された近藤徳太郎、稲畑勝太郎(1862-1949)らが帰国し、折からの皇居造営に伴う装飾品需要に応えようと努めるが、北垣国道(1836-1916)府知事は織殿の民間払下げ方針をとり、渋沢栄一、大倉喜八郎(1837-1928)ら東京資本と地元資本との合作で、明治20(1887)年京都織物会社が創立された。従来の西陣機業は、家内工業ないしはマニュファクチュア段階にあったが、会社では同19(1886)年に織殿に導入された蒸気機関を擁し、大規模な機械制工場生産をおこなった。本書は、会社創立50周年を記念して刊行された社史である。
ワイン醸造
福羽逸人『甲州葡萄栽培法』有隣堂, 明14(1881)【7-139】
明治維新後、当時の米不足を受けた酒米の代替と帰農士族への授産の観点から、ワイン醸造は国家的事業として開始された。福羽逸人(1856-1921)は、津和野藩士の子に生まれ、内務省勧農局試験場等に学んだ。本書は、明治11(1878)年葡萄栽培法調査を命じられ、山梨県に出張した際の報告書を刊行したものである。
甲州葡萄は、同県に古くから産し、江戸時代に栽培が本格化した。日本在来種のヤマブドウと異なり、ワイン醸造に適したヨーロッパ系の品種に属する。同13(1880)年、福羽の建議により兵庫県に官営播州葡萄園が設置され、フランス式のワイン醸造が試みられた。福羽は、同16(1883)年から園長心得(後に園長)として同園の経営に当たるが、寄生虫害や気象災害により経営は難航した。同19(1886)年、葡萄栽培法及び醸造法研究のため仏独両国への留学を命じられ、帰国後は宮内省に勤務し新宿御苑の整備等に尽力、日本における園芸学の草分けとなった。
高野正誠『葡萄三説』高野正誠, 明23(1890)【37-178】
明治10(1877)年、明治初年以来のフランス留学から帰国した前田正名(1850-1921)は、官営種苗会社の設立を建議し、三田育種場が設立された。育種場には、国内外のぶどう品種が集められ、ワイン醸造の産業化が研究された。当時山梨県では、すでに特産の甲州葡萄を使用してワイン醸造を試みる動きが民間にあり、県令・藤村紫朗(1845-1909)も、殖産興業の一環としてワイン醸造を推進していた。同県祝村(現在の勝沼)の在地の豪農を中心に設立された醸造会社は、高野正誠(1852-1923)、土屋龍憲(1858-1940)の2青年を伝習生とし、同年パリ万国博覧会事務官として再渡仏した前田に託して渡仏させた。2人はフランス語も習熟しない中、農園での1年間の実地作業を通じて栽培技術を取得し、さらに醸造工程を学ぶために自費で留学期間を半年間延長するなど、大変な苦労の末葡萄酒製法を持ち帰った。本書は、高野による製法解説書。
化粧品
山岸惣次郎 編『芝翫』丸見屋, 明42(1909)【特53-183】
伊東栄(初代、1847-1911)は、フィリップ・フォン・シーボルト(1796-1866)に学び種痘の普及に尽くした蘭方医伊東玄朴(1800-71)の4男。横須賀造船所を経てフランスに留学し、武器商人となった。明治37(1904)年、同じくフランスに留学し化学を学んだ長谷部伸彦(1850-1924)が無鉛白粉の製造に成功すると、その事業化に協力し伊東胡蝶園を創業した。
日本では、伝統的に鉛を原料とした白粉が用いられてきたため、女性や歌舞伎役者に鉛中毒に苦しむものが多くいた。特に同20(1887)年、井上馨外務大臣邸における天覧歌舞伎において、当時の名優中村福助(成駒屋系4世、後の5世中村芝翫、5世中村歌右衛門、1866-1940)が鉛中毒から体の震えが止まらなくなり、毒性が広く知られることとなった。伊東胡蝶園の「御園白粉」は、歌舞伎役者らの支持も受け大ヒットした。本書は、5世中村芝翫が御園白粉の販売促進のため筆を執ったもの。
野村久太郎編『婦女重宝記』伊東胡蝶園, 大正1(1912)【特111-92】
伊東胡蝶園が発行した販売促進用の小冊子とみられ、前半に肌の手入れ法や化粧法、後半には製品カタログが掲載されている。化粧品産業と広告の結びつきは今も昔も変わらず、メディアの発達とともに新たなタイプの広告が次々と登場した。ライバル製品との比較はもとより、百貨店とタイアップして化粧文化を提案するなど、多様な手法が用いられた。
なお、時代はやや下るが、昭和10(1935)年からは、伊東胡蝶園の広告を洋画家・佐野繁次郎(1900-1987)が手掛け、後に『暮しの手帖』【Z6-352】の編集発行で知られる花森安治(1911-1978)も、佐野の紹介で一時期同社に所属した。その前年、含鉛白粉の製造が禁止され、無鉛白粉の競争が激化したため、御園白粉の売上が減少していたが、佐野の発案で新ブランド「パピリオ」を発売し、しゃれたロゴと淡い色彩で人気商品となった。同社は戦後、社名もパピリオに改めている。
ガス灯
『横浜瓦斯史』横浜市瓦斯局, 昭和18(1943)【575.34-Y75ウ】
横浜の外国人居留地においては、夜間照明としてガス灯の設置を求める声が多く、すでに幕末にはガス灯設置の計画が持ち上がったとされる。明治3(1870)年、ドイツ商社のライス社と在地の実業家高島嘉右衛門(1832-1914)らの日本社中がそれぞれ別個にガス灯建設を願い出、競争の末日本社中に免許が交付された。建設に際しては、フランス人技師アンリ・プレグラン(1841-1882)が招へいされ、同5(1872)年横浜に日本最初のガスの灯がともった。プレグランは、その後東京のガス灯建設にも従事し、同12(1879)年離日している。高島は、北海道炭礦鉄道会社や東京市街鉄道会社等、数多くの会社の経営に携わる傍ら、『易経』の研究に打ち込み高島易断の開祖となり、明治の元勲らを占ったことでも知られる。なお、横浜のガス灯事業は同7(1874)年に町会所へ譲渡され、瓦斯局が設立された。同22(1889)年の市町村制施行以降は、横浜市営事業として運営された。本書は、横浜市瓦斯局刊行の史書。