開館70周年記念展示「本の玉手箱―国立国会図書館70年の歴史と蔵書―」
開館70周年記念展示「本の玉手箱―国立国会図書館70年の歴史と蔵書―」
当館の源流は、戦前の貴族院・衆議院の図書館と帝国図書館に求めることができる。なかでも帝国図書館は、明治5(1872)年設置の書籍館(のちに東京書籍館、東京府書籍館、東京図書館と変遷)を前身として明治30(1897)年に設立され、昭和22(1947)年に国立図書館と改称後、昭和24(1949)年に国立国会図書館に合併されるまで続いた。
昭和4(1929)年に門柱に取り付けたものと記されている。
「開館来ル八月朔日」
〔博物館図画幷書籍館借覧規則等〕博物館〔ほか著〕〔明治時代前期〕【102-149】
日本における近代的図書館の嚆矢、そして当館の源流といえる書籍館は、明治5(1872)年8月1日に湯島聖堂に開館した。聖堂の中央に位置する大成殿(たいせいでん。孔子廟の正殿)を書庫とし、左右の回廊を閲覧所にあてた。展示箇所は、開館に先立つ6月、文部省博物局が公布した閲覧規則である。
「各国々立図書館ノ設アラザルナシ」
〔明治24(1891)年頃〕写【帝文-41】
のちに初代帝国図書館長となる田中稲城(たなか いなぎ)は、明治23(1890)年に1年半に及ぶ欧米留学から帰国し東京図書館長に着任すると、先進国に遜色ない国立図書館の実現に向け、邁進した。展示資料は、田中が国立図書館の必要性を主張し、のちに展示資料4の『帝国図書館設立案』へと結実する田中の意見書(草稿)である。
「設立ハ方今ノ急務ナリ」
〔帝国図書館〕〔明治29(1896)年〕【帝文-41】
明治29(1896)年、第9回帝国議会において、貴族院・衆議院の両院で帝国図書館の設立に関する建議案が提出され、それぞれ可決された。展示資料は、田中稲城が長年推敲を繰り返し、この議会に提出された設立案である。「国立図書館ハ国民全体ノ一大学校」などと説いた。
初めて東京へ出て来た頃のこと
自叙伝の試み24-27 和辻哲郎 著〔和辻哲郎〕〔昭和34(1959)年〕写【WB12-64】
哲学者和辻哲郎が、明治39(1906)年に旧制姫路中学を卒業して上京したのは、上野に帝国図書館の新館が開館した10日ほど後のことであった。和辻は、当時の東京の鮮やかな印象のひとつに「上野の図書館」を挙げ、大閲覧室の高い天井やシャンデリアを回想している。
東洋一の図書館
東京朝日新聞 7038号 東京朝日新聞会社 明治39(1906)年3月19日【Z81-1】
待望の帝国図書館新館開館式が明治39(1906)年3月20日に挙行された。上野の森の豪壮華麗な新建築は人々を驚嘆させ、新聞各紙は開館式や図書館の建物、利用の詳細などとともに、帝国図書館への期待、希望を報じた。展示資料は可愛らしい挿絵で建物を紹介している。
帝国図書館時代の利用者カード
展示資料は帝国図書館の閲覧証、回数券類である。書籍館時代の3年間と東京図書館時代の明治18(1885)年から、国立国会図書館支部上野図書館として生まれかわる昭和24(1949)年までの間、利用に際して閲覧料を徴収していた。
帝国図書館の様子はたびたび雑誌などでも紹介された。この資料では、刊行当時使用されていた求覧券や閲覧証などとともに、当館では現在失われた問答板や、新聞閲覧台など、歴史的な図書館の用品を画家深見洗鱗(ふかみ せんりん)の挿絵で伝えている。問答板については、何か調査したいとき、どの本にあたれば明らかにすることができるのか、閲覧者が互いに質問、回答する方法として設置された、と説明している。
戦禍を逃れて
受入掛 昭和18(1943)年11月-昭和19(1944)年8月 写【帝文-788】
昭和18(1943)年から終戦前後まで、空襲の被害を恐れ、帝国図書館では苦心して収集した貴重な所蔵資料を保全するために30万冊に及ぶ大規模な疎開を実施した。疎開先は県立長野図書館(再疎開先として飯山高等女学校)、山形県下の個人宅土蔵、帝室博物館地下室などであった。
終戦の日
〔帝国図書館〕昭和20(1945)年 写【帝文-787】
終戦間際、8万冊を超える第四次図書地方疎開が計画された。8月15日の搬出を目指して準備を進めた矢先、終戦となり、疎開計画は中止された。しかし連合軍の接収を恐れた帝国図書館は17日に再び計画の続行を決定し、24日には疎開先の山形へ向けて、秋葉原駅への搬出を完了した。