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【1コマ(8行目)~5コマ】
十九日の朝、新聞で奉天の郊外に於ける鉄道爆破の事件を読んだ瞬間、自分は直覚的に、愈々やつたな、と思つた。―というふのは、五日前の十四日に―つまり陸軍大臣が御殿場から帰つた日に、直ぐ建川少将を以て、関東軍司令官に親展書を持たしてやつた。その内容は、十一日に陛下の御召があつて、陛下から軍規に関して御注意があり、殊に満蒙に於ける軍隊の行動に就ては、更に一層慎重なる可きことを言はれたので、其聖旨を関東軍司令官に伝へて、満蒙に於ける陸軍の種々の画策をやめさせたいと考へて、抑へる意味の手紙だつたのだ。その時相談に与つてゐた軍務局長が、この使は、建川を以てしなければ治らん、と陸軍大臣に言つたさうだが、当時各種策動の糸を引いてゐたのは、矢張り建川と、軍務局長だつたからであらう。【6コマ~10コマ】
陰謀的行為としたならば、我国の世界に於ける立場をどうするか。斯の如き不幸なる出来事に対しては、衷心遺憾の意を表する次第であるが、偶然に起つた事実であるならば止むを得ない。この上はどうか之を拡大しないやう努力したい。で、即刻、関東軍司令官に対して、此事件を拡大せぬやうに訓令しようと思ふ。官庁及び城郭等の砲撃占領をしないやうに・・・」と云ふことを言つてゐると、既に占領した、とか、関東は凡て之を日本軍の手に収めた、とか云ふ報告が来てゐた。【11コマ~15コマ】
官邸に行つた処、非常に弱り切つてゐる様子で、先づ第一に、「外務省の報告も陸軍省の報告も、自分の手もとに来ない」と云ふことを頻りに言ひ、「然し川崎書記官長を以て今注意させて置いた」とも言つてゐた。それから「自分は出来るだけ此の事件を拡大しないやうに、何とかして止めたいと思つていろいろ心配してゐるが、軍事当局が、歩哨占領をしたいらしい。元来この歩哨占領なるものは、政府の決定に待つべきものであつて、軍事当局の権能を以て濫りに出来る性質のものでない。また、満蒙に於ける支那の現兵力は廿万以上もあるのに、日本軍は一万余りであるから、現在の対兵力で、余りに傍若無人に振舞つて、若し万一のことが起つたらどうするか』と云ふことを聞くと、『朝鮮から兵を出す』或は『既に出したらしい』との答なので、『政府の命令なしに、朝鮮から兵を出すとは怪しからんじやないか』と詰つた処が、『田中内閣の時に、御裁可なしに出した事実がある』。で、これは後に問題を残さないと思つたらしく、事実は、既に鴨緑江近くまで兵を出し、そこで止めてあるが、一部、既に渡つて了つたものは已むを得ない、と云ふやうな陸軍大臣の答であつた。かう云ふ情勢であつてみると、自分の力では軍部を抑へることは出来ない。苟も陛下の軍隊が、御裁可なしに出動するといふのは言語同断な話であるが、この場合一体どうすれば好いのか。こんなことを、貴下に話す筋でないかも知らんけれども、何とかならないか。貴下から元老に話してくれとか、どうしてくれ、とか云ふのではないけれども、実に困つたものだ。」と芯から弱つたやうな様子であつた。尚いろいろ話をきくうち、之は側近に注意をして置く必要がある、と思つたから、「まあ、陛下の御裁可なしに軍隊云々に就ては、侍従長辺りに含んで置いて貰ひませう」と言つて自分は辞去した。
恰度家で客をしてゐたので、一旦帰って、直ぐ宮内大臣に電話をかけて、「そちらの官舎に侍従長と木戸に来てゐて貰つて、八時半から、四人で話したいが、差支ないか」と、都合を聞いた処、「待つてゐる」と云ふ返事だつたので、侍従長や木戸にも電話をかけて、
【16コマ~20コマ】
内大臣官舎に来て貰ふやうに取り決めた。で、その席上、侍従長も宮内大臣も同様に、「総理が余りに他力本願であることは面白くない」と云ふ感じを抱いたやうに思はれたから、自分は「あながち総理も、側近の方々にその話をしてくれと依頼されたのでない。ただ現行の実情が斯の如くに総理を弱らせて居ると云ふことを、自分の考から申し上げて置くわけだ。且又、総理も云はれる如く、御裁可なしに軍隊を動かしたりするのは、一種のクーデターであって、洵に容易ならん悪例を残すものであると、自分も思ふから、侍従長の御参考までに御話したのである」と言つた処が、侍従長も、「田中内閣の前例があらうがあるまいが、御裁可なしに軍隊を動かすことは怪しからん」と言つて怒つてゐた。
尚又、此間から話して居た政党の両総裁をお召しになつて、陛下から御注意を賜つてはどうだらう、と云ふ、あの問題も出た。結局、侍従長や木戸は、「臨時閣議でも開いて、閣議をもつと熱心にやつたならば、なんとか軍部を抑へられないこともなからう。兎に角、もつと閣僚達の結束を固めなければいかんのじやないか」と云ふ感じを持つたらしい。自分も至極同感であつたから、其点は何とか努力してみようと思ひながら、十一時頃に帰って来た。
翌朝早く高橋蔵相を訪ねて、非常に総理の弱つてゐる話から、誰か確りした閣僚が、側から激励し、力を付けることが、此場合必要ではないか、それには、閣下のやうな方が最も適当と思ふ、といふ意味を述べた処、「無論自分も、できるだけ力になつてやらう。それは、当然のことだと思つてゐる」と云ふ話であつた。更に外務大臣の所に廻つて、同様の話をした処が、これも同感で、ただ政党の大臣が、比較的冷淡であると云ふことを不足に思つてゐる様子だつた。
それから自分は総理の所に行つて、「昨夕の話に就て、侍従長辺りには一応含んで置いて貰ひました。側近の見る処、―自分も亦それに同感だけれども、かう云ふ重大事に、閣僚の結束が鈍いやうに思はれます。で、度々閣議を開いて、閣議を以て事々に陸軍を抑へて行くより途はないかと思ひます。無論閣下が、側近をあてにして居られると云ふことはないでせうが、成るべく内閣の責任、内閣の全能力を発揮して、事件の解決を図られることが、此際一番必要なことだと思ふから、甚だ差し出がましいが、
【21コマ~25コマ】
連日閣議を開くにされたらどうですか。外務大臣もそれに就ては賛成らしい。閣下の処に外務省から報告が来ないと云ふことは、外務省に行つて自分も話して置きました。書類で間に合はなければ、此事が済むまで、毎日亜細亜局の事務官でもこちらによこして置く、と云ふことも一案だ、とまで亜細亜局長は言つてゐました。然しそれは、閣下と外務大臣との間で、直接御相談になつたら好しいでせう」と言つて自分は帰つて来た。前晩に、参謀総長から、「十時に参謀本部まで来てくれ」と云ふ電話があつたので、自分は参謀本部に行つて総長に会つた。総長は、「満蒙の空気が、今日まで長い間非常に悪かつた。日本人に対する侮辱を能ふ限り我慢して来たのが、極度に達して、遂にああ云ふ事件が突発したのであつて、日本人の中にも色眼鏡をもつて見てゐるものがあるやうだが、決してさう云ふことはない。謂はば日本打倒を鼓吹する目的を以て書かれたやうな教科書で教育された支那子供たちが、既に大人となつてゐるし、その他いろいろな事情が、今日斯の如くしたのであらう」と云ふことで、頻りに日本軍隊の陰謀でない、と云ふ点を強調してゐた。
自分は、「張作霖の事件があつて未だ幾年も経たない今日、日本人が襲へば、外国人は、又日本の陸軍が陰謀をやつたな、と思ふのも当然のことであつて、あの時の張作霖爆破の張本人である参謀を、軍律に依つて処罰し得ず、今日尚ほ満洲にやつて働かせてゐると云ふ事実を以て見ても、貴下の弁解は到底成り立たんと思ふ。それで、今度のことは陸軍の策動ではないだらうと自分は思ふけれども、然し多くの人の、又やつたな、と云ふ感じは覆ふべくもないのだから、陛下の幕僚長である貴下は、陛下の軍隊の為に、余程厳格になすつて、苟も脱線などないやうに注意されなければいかん」と云ふことを言つて、「公爵の御心配も其処にあるのです」と附加へて置いた。
参謀総長は、「満洲に於ける二十万の支那兵が、【26コマ~31コマ】
何時馬賊に変ずるかわからない虞もあるのだから、現在の一万何千の日本の軍隊では到底足りない」と云ふ風に言つて、頻りに増派する必要があることを仄かして居た。尚又、「自分は陛下に対して、『斯の如く満洲に事故の多い原因は、銀貨の暴落や大豆の不作で、兵隊に報酬が亘らないと云ふ風なことから来て居り、随つて排日の根底もそこにあるのだ』と云ふことを申上げた処、陛下も頷いて居られた。」とか、「早晩、支那にも日本軍を出さなければならんことになるかも知れん」とか言つてゐた。
同日、自分は午後一時発列車で京都に向ひ、十時頃著いたので、十一時頃亜細亜局長と電話で話して其晩は寝た。翌朝九時半に総理、外務大臣、亜細亜局長と電話で話して、十時に公爵の処に行つて今迄の経過、情報をすつかりお話した処、公爵は、
「自分もかうなりはしまいかと心配はしてゐたが、実にどうも困つたものだ。宮内大臣と侍従長の話に『陛下は閑院宮を陸軍の長老として、又陛下の予ての輔導役として、軍規に関して御相談になるか』と云ふこと、或は又『公爵に東京に帰って戴いて、当分居て戴かなければならんかも知らん。御下問もあるかも知れん。』と云ふことを言つてゐた。」
で、公爵は、「閑院宮に御下問があるならば、その前に閑院宮の頭を造つて置かなければならん。木戸でも内大臣でも閑院宮に拝謁して、よく今日の事情のお分りになるやうに申上げて置く必要がある。それから若し陛下から御下問があるならば、自分は無論此方から出る。」
と云ふ話もしてゐた。
それから直ぐ御所にゐる木戸に電話をかけて、閑院宮の話と、「万一そんなことはあるまいが、政府内に辞意があっても、今日の場合陛下は絶対にこれを御許しになることはいけない。此事件が凡て片付くまでは、辞職を御勅許になることはよくない、と云ふことを侍従長と内大臣に言つて置いてくれ」と云ふ公爵の伝言をも木戸から取次いで貰ふやう頼んだ。同時に、「御裁可なしに軍隊を動かしたことに就て陸軍大臣、或は参謀総長が上奏した時に、陛下はこれを御許しになることは断じてならん。又黙つて御出になることもいかん。一度考へて置く、と保留して置かれて、後に何等かの処置をすることが必要だから、此の点の注意もして置け。」
と云ふことで、これも木戸に話して置いた。