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明治の錦絵

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江戸時代には浮世絵にも検閲があり、主に政治批判、風紀風俗の乱れ、奢侈という3点が取り締まりの対象で、幕府に対する批判が少しでも疑われれば処罰されました。また徳川家や同時代の事件や出来事を題材にすることは禁じられていました。明治8(1875)年に検閲は廃止されましたが、改印に代わって作者と版元の住所氏名を明記することが義務づけられました。

錦絵新聞

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東京日々新聞 百十一号 (新しいウィンドウが開きます) /
落合芳幾画 転々堂主人[文] :
具足屋【本別7-522】

明治に入り、これまで制限されていたジャーナリズム的要素が浮世絵に加わります。錦絵新聞とは、新聞に掲載された記事を元に事件の一場面を描いたもので、明治7(1874)年に浮世絵師、落合芳幾が初の錦絵新聞『東京日々新聞』を発行します。内容は殺人事件や刃傷沙汰、不倫などのスキャンダルといった、いわゆる三面記事が多く取り上げられました。落合の他に、月岡芳年、豊原国周など当時の有名浮世絵師も新聞社に挿絵を提供するようになりました。

横浜絵・開化絵

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横浜見物図会 異人雅遊 (新しいウィンドウが開きます) /
一川芳員 上金, 万延1(1860)【亥二-92】

幕末の安政6(1859)年6月2日に横浜が開港すると、寒村だった横浜に国内外から人や物が集まり、港町として発展しました。横浜の繁栄の様子や外国人の生活描写を描いた横浜絵と呼ばれる浮世絵が生まれます。(右図)

明治時代に入ると、文明開化で移り変わる町の様子をテーマとした開化絵が描かれます。洋装・洋髪の日本人、お雇い外国人の設計・指導による洋風建築物、石橋や鉄橋に架け替えられた橋、汽車・鉄道馬車・蒸気船などの開化乗物などが描かれました。

上野公園

花見

女性は洋傘を手に、男性はシルクハットをかぶっています。

東京名所之内上野公園地桜花盛之景の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京名所之内上野公園地桜花盛之景 (新しいウィンドウが開きます) / 広重 : 野田茂政, 明治13(1880)【寄別7-1-2-7】

博覧会

明治10(1877)年に第1回内国勧業博覧会 (新しいウィンドウが開きます) が開催されました。これは博覧会開場式を描いた錦絵で、壇上には明治天皇と皇后、左手前には各国公使が描かれています。

内国勧業博覧会開場御式の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

内国勧業博覧会開場御式の図 (新しいウィンドウが開きます) / 楊洲橋本直義 : 山本利兵衛, 明治10(1877)【寄別7-5-1-6】

こちらは第3回内国勧業博覧会 (新しいウィンドウが開きます) を描いたもの。現在、東京国立博物館がある場所が博覧会会場でした。その右側には蒸気機関車が見えます。

上野一覧内国博覧会之図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

上野一覧内国博覧会之図 (新しいウィンドウが開きます) / 香朝楼国貞 : 福田熊次郎, 明治23(1890)【寄別7-1-2-7】

浅草

仲見世の建物が煉瓦造りに。

東京浅草観世音並公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京浅草観世音並公園地煉瓦屋新築繁盛新地遠景之図 (新しいウィンドウが開きます) / 栄斎重清 : 三浦武明, 明治19(1886)【寄別7-5-1-4】

鉄道

汐留駅の様子、蒸気機関車を待つ人々の服装は和装、洋装さまざまです。

東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図 (新しいウィンドウが開きます) / 立斎広重 : いせ喜・伊勢屋喜三郎, 明治6(1873)【寄別7-1-2-6】

馬車・自転車

日本橋を人力車、馬車、自転車など様々な乗り物が行き交っています。

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東京日本橋風景 (新しいウィンドウが開きます) / 錦朝楼芳虎,孟斎芳虎 : 蔦屋吉蔵, 明治3(1870)【本別9-28】

両国橋

明治8(1875)年に西洋風木橋に架け替えられました。富士山の前に電線が通っています。

東京五大橋之一両国真景の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京五大橋之一両国真景 (新しいウィンドウが開きます) / 小林清親 : 松木平吉, 明治9(1876)【寄別7-2-2-4】

吾妻橋

明治20(1887)年に鉄橋に架け替えられました。

東京名所帖の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京名所帖 (新しいウィンドウが開きます) /
井上探景 : 福田熊治郎, 明治20(1887)【寄別7-9-2-1】

洋風建築

築地ホテル。慶応4(1868)年に開業した、日本最初の本格的ホテル。

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東都築地ホテル館之図 (新しいウィンドウが開きます) / 差配所, 慶応4(1868)【寄別6-3-4-5】

工場

小野組築地製糸場。ケンネル式抱合装置を備えるイタリア式製糸場で、明治4(1871)年8月に開業しました。

東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸を取る図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸を取る図 (新しいウィンドウが開きます) / 孟斎芳虎 : 丸屋平次郎, 明治5(1872)【寄別7-3-1-4】

銀行

明治7(1874)年、駿河町(現中央区室町)に清水組(現清水建設)が建設した為替バンク三井組(後の三井銀行)の洋館。

東京駿河町三ツ井正写之図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

東京駿河町三ツ井正写之図 (新しいウィンドウが開きます) / 孟斎芳虎 : 沢村屋清吉, 明治7(1874)【寄別7-3-1-4】

海水浴

海水浴を楽しむ女性たち。水着を着た女性もいます。

大礒海水浴 富士遠景図の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

大礒海水浴 富士遠景図 (新しいウィンドウが開きます) / 小国政 : 庁田長次郎, 明治26(1893)【寄別2-9-2-1】

江戸城内

江戸時代には禁止されていた江戸城内の様子も描けるようになりました。楊洲周延が描いたシリーズものの錦絵『千代田之御表 (新しいウィンドウが開きます)』、『千代田の大奥 (新しいウィンドウが開きます)』では将軍や大奥の年中行事や日常を垣間見ることができます。

将軍の前で武術の鍛錬を行う様子。

千代田之御表 武術上覧の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

千代田之御表 武術上覧 (新しいウィンドウが開きます) / 楊洲周延 : 福田初次郎, 明治30(1897)【寄別8-5-2-1】

江戸城内での花見の様子。

千代田大奥 御花見の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

千代田大奥 御花見 (新しいウィンドウが開きます) / 楊洲周延 : 具足屋 福田熊次郎, 明治27(1894)【寄別8-5-2-1】

光線画

明治に描かれた錦絵に「光線画」と呼ばれるものがあります。光線画とは西洋絵画の遠近法、陰影法、明暗法といった手法で光を表現した浮世絵で、明治9(1876)年に小林清親によって始められ、版元の松木平吉が名付けたといわれます。小林清親は写真術を下岡蓮杖に、西洋画法をワーグマンに、日本画を川鍋暁斎・柴田是真に学び、それらの技法を総合して光線画を生み出しました。清親は明治14(1881)年から光線画を描かなくなりますが、弟子の井上安治は明治22(1889)年に亡くなるまで描き続けました。

本町通夜雪の資料画像を新しいウィンドウで開きます。

本町通夜雪 (新しいウィンドウが開きます) /
小林清親 : 福田熊治良【寄別2-1-2-5】

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品川海上眺望図 (新しいウィンドウが開きます) /
小林清親 : 福田熊次郎, 明治12(1879)【寄別1-9-2-3】

赤絵

これまでに見てきたように、明治の錦絵では鮮やかな赤が特徴です。江戸末期になると、ベロ藍やアニリン(赤)、ムラコ(紫)といった人口顔料が輸入され、安くて発色もよいことから多用されるようになりました。輸入顔料により浮世絵の色合いはより鮮明になります。特に明治になると毒々しいまでの赤や紫が目立つようになり、特にアニリン染料を使った赤色が目立つところから赤絵と総称されました。明治初期の錦絵はその鮮やかな色合いからか、現代ではあまり人気がないようです。しかし、樋口弘は『幕末明治開化期の錦絵版画』の解説の中で、「赤、青、紫の原色ドギつき色調の間にも如何にも明治の跳躍し、伸び上らんとする時代の産物なるを思はせるものがある。」として、新しい色彩が明治という時代を象徴しているようだと述べています。

錦絵の衰退

明治初年頃から20年代にかけて、活版や石版といった西洋の印刷技術が続々と日本へ伝わって実用化され、大量印刷が可能になります。明治3(1870)年に『横浜新聞』が活版の日刊紙として発行されました。明治14(1881)年頃からは石版が流行し、明治22(1889)年にはその全盛を迎えます。また、同年には小川一真がアメリカで学んだコロタイプの製版工場を開き、星野錫もアートタイプ(コロタイプに同じ)を日本に紹介しました。明治23(1890)年には堀健吉によって写真亜鉛版の製版法が実用化され、写真が印刷できるようになりました。

発行までのスピードや写実性、価格の面で印刷に劣る錦絵は、徐々に衰退していきます。明治27(1894)年に始まった日清戦争では戦争錦絵の売れ行きがよく、人気が復活したかに見えました。しかし、明治37~38(1904~1905)年の日露戦争では、3色分解や、平版による大量のカラー印刷ができるようになったことや、逓信省発行の戦役記念絵葉書が爆発的に売れて、絵葉書が大流行したことなどからあまり人気が出ませんでした。

明治40(1907)年の『朝日新聞』の「錦絵問屋の昨今」という記事には「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」(10月4日朝刊)とあり、このころになると錦絵がほとんど出版されなくなった様子が窺えます。

引用・参考文献

  • 検閲・メディア・文学 = CENSORSHIP,MEDIA,AND LITERARY CULTURE IN JAPAN : 江戸から戦後まで / 鈴木登美, 十重田裕一, 堀ひかり, 宗像和重編 東京 : 新曜社, 2012 <請求記号:UM71-J5>
  • 文明開化風俗づくし : 横浜絵と開化絵 / 野々上慶一 編著 東京 : 岩崎美術社, 1978 (双書美術の泉 ; 36) <請求記号:KC16-713>
  • 幕末明治開化期の錦絵版画 / 樋口弘編 東京 : 味灯書屋, 1943 <請求記号:733-H448b>
  • 明治の浮世絵師と西南戦争 : 平成23年度鹿児島大学附属図書館貴重書公開 / 高津孝編・執筆 ; 丹羽謙治執筆 鹿児島 : 鹿児島大学附属図書館, 2011 <請求記号:Y121-J6383>