アリアンサ行移民を乗せた特別列車正面衝突の大事故の報道

Notícia sobre acidente ferroviário envolvendo um trem com destino à Colônia Aliança

Article on a head-on collision of the special train carrying Alianca immigrants

1927年(昭和2)5月25日深夜2時、アリアンサ行き日本人植民者177名を乗せた下りの特別列車が上り列車と正面衝突し大惨事となった。日本人からも死者重軽傷者が多数出た。この列車に乗り合わせたコロニアの代表的俳人 佐藤念腹は以下の句を読んでいる。
 土くれに蝋燭立てぬ草の露 (『念腹句集』暮しの手帖社 1953)

アリアンサ行殖民の
  特別列車正面衝突の大悲惨事
    ソロカバナ線ソロカバ駅附近で……
      死者五名傷者廿六名を出す
        在伯邦人未曾有の椿事 


 去る廿五日午前二時ソロカバナ線ソロカバ駅を距る約三キロの地点にて、アリアンサ行殖民百七十七名を乗せる四輌より成る特別列車と、当バウル駅を前日午後四時四十五分に発車したソロカバナ線夜行列車と正面衝突の大椿事を起し、ソ線夜行列車は機関車の僅かな破損で傷者も出さない程であつたが、不幸にも同胞の乗る特別列車は前二輌迄は惨に破壊され、火夫及掃除夫は即死し機関士は重傷[、]同胞殖民者に於ても此の大凶事の犠牲となり即死を遂げた者三名、重軽傷者二十六名を出す大悲惨事があつた。

 該殖民者は廿三日サントス入港のハワイ丸にて渡伯した信濃海外協会十四家族九三人、熊本海外協会十二家族五七人、鳥取海外協会五家族二七人、余りに人員の多い為め輸送困難から鉄道当局とも交渉の結果特別列車を仕立てる事となり、バウル一泊の煩雑も省かれ早速ノロ線に乗換えアリアンサに向ふ予定にて、輪湖俊午郎氏及林田鎮雄氏が引卒者として出聖されたのであつた。

 同日正午ひる迄には着芭[注 芭はバウルーの意]の筈であつた列車が、余りに延着するので不審を抱いて居る折柄、午後七時頃前記椿事の略報が伝えられ、被害者及其の家族を同地に残し約百二十名を乗せて九時三十分着芭した列車に殖民者を訪へば、惨事の後の疲労から皆横たはつてゐるもののおののきの色未だ面を去らず、当時の惨状を尚目前に見る如く次の様に語る。

 「サントス上陸後馴れない土地の煩雑は免れなかつたが、吾々のみの特別列車でもある関係から皆が伸んびりと軽い夢路に辿つた時、物凄い響は夢を破られ喫驚びつくりして跳ね起きたのは午前の二時を十分も過ぎて居たでせうか、私は三輌目の客車に居た為め―脱線かな―と直感すると同時に前車から女小供の悲鳴が烈しくするのです、早速下車して見るとマア何と云ふ惨状でせう、私等の機関車が第一客車の三分の一程喰ひ込み、第二客車へは第一客車が同じく三分の一程喰ひ込んで、其処に居た者は殆ど腰掛と腰掛の間に挟まつて只喚き叫ぶのみ、目前にそうした凄惨なさまを見ながら其を引き出す事が出来ず、幸にして、此の災禍を免れた友士ゆうしの必死的努力にも、マツシヤードと鋸で取り除けて進む事故救助する迄に一時間余を要し、其間悲鳴と苦痛の呻きを聞きつつ全力を注いだ吾々は殆ど夢中の活動でした。遂に、あたら尊き生命を此の大過失の犠牲とした者五名(外人従業員二名)重傷者八名(生命危篤三名)軽傷者十八名を出してしまひました、―居合せた外人何といふ無情な臆病者なんでせう只側かたわらに吾々の必死的活動を茫観してゐるのみでした―

 信濃協会の百瀬氏(長野県)家族の如きは、第二輌目前部に居た為め血気盛り前途有意の廿才になる息子そくしと十三の兄弟を失ひ、夫妻及二女は重傷、尚ほ同信濃協会の吉田氏(福井県)の息子(十二)は第一客車にて即死、母は重傷のうちからも愛児の悲惨な姿を抱きしめて放さず、同氏も重傷を負ひ、斯うした一家全部の被禍が三家族ありました、或者は悲痛な叫びのなかから俺はブラジルの土地を踏んだ、モウ死んでも諦めがつく」と云ひ又一方では「私の子供は何うしました、私の子供は………」と苦しいなかから子供を呼ぶ母もありましたなど、祖国一万二千まいるを隔て波濤をけつて無事着伯、理想の郷第二の故郷に向はんとする時此の災難、何と云ふ運命の皮肉なんでせう」と語り続けた彼の面にサツト訪る秋の夜風が、湿うるむ哀愁の涙を拭つた。記者もホロツトする。

 此の大椿事をかもした原因は一転轍手の不注意からで、同地点は複線になつて居りポイントを誤つた為め同線を向ひ合つて疾走して居るのを、機関士の複線運転の無経験から其れに気付かなかつたからだと。

 沖山ホテルよりの報に接した領事館では被害者を当方に迄運べば其れに対する準備も―と云ふので多羅間領事及入江古川両書記生が駅頭に見舞はれたが、前記委細を聞き慄きと疲労に悄々しようしようとする殖民者を慰め帰宅された。

 因に輪湖氏は被害者のママ後策を講ずべく同地に止まり、林田鎮雄氏の引卒にて、午前中より用意された三輌の列車に分乗し、沖山沢尾両ホテルにて準備され居たムスビと十袋の蜜柑が列車に運ばれ、疲れた身を薄暗い車内に横たへ十一時半、暗いノロエステの闇をアリアンサに向つて出発した。

 翌廿六日領事館への着報によれば危篤者の内二名は遂に死亡せりと。