サンパウロ市の日本移民

Imigrantes japoneses na cidade de São Paulo

Japanese immigrants in São Paulo City

『日本之下層社会』で知られるジャーナリスト 横山源之助は、1912年(大正元)ブラジルを訪問した。『大阪朝日新聞』に寄せられた横山の現地レポートのうちから、ここではサンパウロ市の日本人に関する記事を採録した。レポートの全文は、『横山源之助全集 第7巻 殖民(一)』立花雄一編 法政大学出版局 2005 でも読むことができる。

 

サンパウロ市内の日本人
     伯剌西爾サンパウロ市に於て 横山源之助


『大阪朝日新聞』大正元年9月28日

 伯国内地に散在してゐる日本人の配置と、その人員とは前信に報じた。日本人の巣窟はサンパウロ州である。サンパウロ市と、州内の珈琲耕地とである。

 嘗て日露戦役後野間貞次郎氏(高商出身)が、藤崎三郎助氏の旨を帯びて、サンパウロ市に来た時は、殆ど一名の日本人だも見えなかつた。僅かに大平善太郎氏(後の日伯商会創立者)が農商務練習生として、サンパウロ市に滞在してゐた位のものであつた。野間氏がサンベント街に日本商店を開いて間もなく、明穂氏一行の来航あり、次いで隈部一族の来航あり、かくして第一回移民を迎ふることと為つたのである。故にサンパウロ市の日本人は、四十一年以前は元始時代で、第一回移民渡航初めて日本人史の初頁がひもとかれたものである。

 今四十五年三月編纂の移民調査報告を見るに、藤田代理公使の報告には、サンパウロ市在住日本人は、子供を除いて、二百十六名と計算されてある。は四十四年三月の現在である。一箇年を隔てたる四十五年六月の現在数は概略四百名だといふ。今度の第三回移民の中、単独でサンパウロ市に留まつたものは九十名(東洋三十五名、竹村五十五名)之に竹村、東洋二社の関係者を加ふれば、四百名位となるであらう。本年末には或は四百五十名或は五百名となるかも知れない。(耕地に出掛けた移民が、年末にはサンパウロ市に引返すものと見て)。余は日本移民の全部が耕地に居るのを望むものであるが、多分其の幾分は都会の華美と空想とに憧憬あこがれて、サンパウロ市にかへるものと予測せられる。

 そ[并の点々なし]は兎も角も、サンパウロ市に散在してゐる日本人の多数は、労働者である。大工其他の職人である。仮に日本人の全数が四百名であるとせば、その半数は大工である。ト書いてくると、読者はサンパウロ市に大工が多いのに驚くであらう。が、実は五年乃至七年の年期を勤め上げた真物ほんものの大工は極めて僅少で、十中の八九人迄は、素人が大工に化けたるものである。何しろ一日四十軒内外の家屋が新築されつつある当市の事とて、大工の需用が多く、器用な輩は、農具をてて俄に大工となるので。一日八時間で、五ミル(三円二十五銭)の賃銀が懐中に入るのが不思議だ。真物の大工は、サンパウロ市着匆々そうそう六ミル半(四円二十二銭五厘)を獲っている。伯国語に通じてくると、下請負を遣って、一日十ミル(六円五十銭)以上の利益を収めてゐる。サンパウロ市には、此の棟梁株が五六名居る。

 煉瓦積又は左官は、まだ居らない。煉瓦積は大工以上の賃銀を取つてゐる。余は或日本人に『煉瓦積となつちや、どうだ』と注意すると、『きたないから、いやです』といつてゐた。左官で技術に富んでゐるのは、二十ミルを取つてゐるのもあるとか。

 大工以外の職人を挙ぐれば、ペンキ、ブリキ、鍛冶職の類。工場に出てゐる男女もある。男子はビスケツト工場、鑵詰工場等の類で、之は一日三ミル五百の日給を取つてゐる。労働時間はやはり八時間が多く、時に九時間に出てゐるのもあるが、日本内地の諸工場に比ぶれば、極めて緩漫で、ビスケツト工場に通つてゐる或職工の如きは、『三十分間以上便所で煙草を吹かしてゐます』と澄ましてゐた。因に、日本内地特に地方町村の職人は、従業後家に帰つても夜業を試むる者のは随分見受ける。が、此のサンパウロ在住日本人は、僅に八時間の従業を終れば、日曜祭日の休日は固より、夜業を試むる者は殆んどない。或は八時間の労働で衣食は十分であるのか、又は居は気を移すものか、三四年前の日本生活を忘れて、サンパウロの日本人は、すつかり伯国人となつてゐる。

 移民女子の過半は、下女コペロ奉公又は工場に通つてゐる。コペロの給料は、食物衣服は主人持ちで一箇月三十ミル、或は四十ミルを取つてゐるのもある。工場はモウカ附近に居る女子は、伊太利人経営の紡績工場に通つてゐる。最初は一ミル半だが、二三箇月後は、二ミル乃至二ミル半を取る。第一回渡航の或女子の如きは一日五ミル内外を取つてゐるのもある。


日本品と伯国
    伯剌西爾サンパウロ市にて 横山源之助

『大阪朝日新聞』大正元年9月29日

 手芸は日本人の誇りである。日本商品が伯国の一部に受けてゐるのは、一は亜細亜極東の生産品といふのが呼声となつてゐる外に、その生産品――たとへば陶器の絵画、漆器の鉄色、絹物の刺繍ぬひ竹器ちくきの細工等が、繊細なる手工に依つで成つたのを賞美してゐるのである。

 余輩は志ある日本人の中に此の日本人の特長を発揮せんとするの傾向あるを見て、甚だ愉快とするものである。一は紙製玩具である。二は麦稈むぎわら帽子である。三は窓掛である。四は扇子である。五は竹器である。竹器の製作は久しき以前より墨西哥又は秘露に行はれてゐた、リオ市の旧日伯商会が、竹器の製造に手を分けたのは、多分墨西哥メキシコ或は秘露ペリユーの旧套を襲ふたものであらう。今はリオ市に製造せられつつある外に、サンパウロ市の藤崎商会も日伯商会の職工一名を獲て、日夜竹器(多くは椅子類)の製作に繁忙を告げてゐる。麦稈帽子の製造は、日本貿易会杜の明穂梅吉氏が鋭意熱心してゐる所で、不日或は工場を興すの機会が来るであらう。

 明穂氏は鳥取県は八橋町の人、日露戦役後間もなくマルセイユを経て来航した一人で、サンパウロ州日本人中の古顔である。サンパウロに入るや、自ら進んで帽子工場に入り、サンパウロに於ける帽子工芸の熟達に努めたる蓋し同氏の郷里は麦稈帽子に関係あるを以て、此麦稈帽子に依つて世に出でんとしたのである。日給一ミル五百レースより仕上げて、二ミルとなり、三ミルとなり、二三箇月の後には日給五ミルとなり、一二年の後に職工監督となるに至つた。恰も伊太利人ギヤチツ氏と知り、組合事業を以て、別に一の帽子工場を興した。是れ同氏が事業に手を着けた最初であつた。次に窓掛の製織に腐心し、日本女工数名を用ひて、窓掛工場を開いた。著るしい成績が見えなかつたやうだが、兎にかくも普く行はれてゐる窓掛の製織を思ひ附いたのは機敏である。斯の後リオ市の日伯商会に関係し、一時サンパウロに引き上げた。東洋移民会杜の神谷氏と知つたのは、此のリオ市在留中であった。今や東洋移民会社に関係して、移民事業に携はつてゐるが、氏の目的は工業に在り、特に麦稈帽子の製造に在り。昨年智利、秘露を経て帰朝したのも、一は麦稈の漂白法を知らんが為であつた。幸ひにして志望の麦稈を得たので腕をして日本人の特長を発揮せんと意気込んでゐる。余輩は其志を壮なりとして、氏の上に成功あらんこと望むものである。

 扇子製作も同氏事業の一である。目下準備中である。

 紙製玩具も一の工業である。日本人製造の「花がへし」は、伯国内地到る処拡がってゐる。は鹿児島人松下某氏の行商の結果であるが、とにかくも三百二十二万方哩マイルの面積、霖雨数月、密林蓊鬱たるアマゾナスの僻地に至るまで「花がへし」が行はれてゐるのは一種の現象である。余輩は此の紙製玩具の裏には、幾多の血性と努力とが払はれてゐるのを思はざるを得ない。四十二年五月の頃、ルア、カルロスゴーメスの陋屋に数名の日本人が潜んでゐた。曰く上塚周平(法学士)曰く井上新平(法学土)曰く有川新吉(鹿児島人)曰く松永二三にざう(熊本人)等の連中であつた。当時は皇国殖民会社瓦解後の事とて、同社の代理人たる上塚氏が、死地に陥つたのみならず、同氏を囲繞ゐねうせる有川氏以下の諸人も同じく窮乏に陥つた。此の時北米より来航した井上氏の発案で、着手されたのが「板かへし」の玩具であつた。松下氏は専ら行商に当り、上塚以下の豪傑は、夜を日に継いで、玩具の製造に熱心した。此の一団は南米に雄志を抱ける理想男児である。然も志を抑へて玩具の製作に熱中した心事を思へば、うたた同情に堪へない。特に「花がへし」を成就した経歴の如きは、宛然ゑんぜん発明家の経歴である。今日上塚氏等の志半成り、第三回の移民を見るに至つた。但し余輩は氏等が玩具の製作に砕身した経歴上の変遷と、日本人製玩具を伯国内地に普及せしめた功積を多とするものである。昨今上塚氏は無関係となり、松永二三、西島仁作の二氏は、主として玩具の製造に当つてゐる。いづれも熊本県人である。

 母国より加工品を入るるのも、日本帝国の利益の一に相違ない。併しながら関税其の他に煩瑣の手続を要する此の伯国の如きは、既製品を入るる代りに、原料と職工とを以てして、貿易品の足らざる所を補ふの寧ろ得策なるに如かず。余輩は日本品の輸入を望むと共に、切に我が日本人に依りて、有らゆる工業の興らんことを望むものである。(六月九日)


伯剌西爾に於ける日本人商店
    サンパウロ市に於て 横山源之助


『大阪朝日新聞』大正元年10月6日

 「伯刺西爾に於ける日本商人と日本商品」は、余が神戸発以来念頭にした問題であつた。伯国内地の日本商人は、二タ通りに分けられる。一はリオ、デ、ジヤネイロ市で、他はサンパウロ市である。別に一種の商人が挟つてゐる。行商連である。遠くリオ、グランデ、ド、スール辺にまで出掛けてゐる。

 リオ、デ、ジヤネイロ市には、内外人の日本商店は幾つも有るさうだ。バザー、アメリカの如きは、生駒艦来航当時は、便乗者を歓迎した商会で、日本雑貨店の重なるものである。横浜在住の水島俊一郎氏は横浜から日本品を送つてゐる。前に日伯商会(大平善太郎氏)が羽振を利かせてゐたが、余りに手を拡げ過ぎたるが為に中途に挫敗し、相次いで興つたのは、曰く目本貿易会社出張所、曰く蜂谷商会、曰く山県商会等である。山県商会は、一時北海実業界に阿修羅王の如き活動を見せた山県勇三郎氏の経営で、リオ市外に農園を拓く傍ら、雑貨店に手を分けてゐるものである。蜂谷商会は蜂谷吾輔氏の任ぜるもので、陶器類を扱つてゐる。日本貿易会杜は東洋移民会社の分身で、豊島昌氏(外国語学校伊太利科出身)が専ら其の任に当つてゐる。蓋し日本貿易会社は濠洲ニユカレドニヤ、墨西哥、秘露等に日本雑貨を輸送してゐたのであつたが、数年前神谷忠雄氏(東洋移民会杜専務)の来航以後リオ、デ、ジヤネイロにも手が拡げられたのであつた。東洋移民会杜を以てしては移民の輸送に当り、日本貿易会社を以てしては商品の輸出に努めてゐるのは両手に花である。別に佐久間重吉氏あり、三宅島の人、伯国人エリンケ、ニーマイヤに知られ、伯国人の資本を以て日本雑貨店を開いてゐるのは異彩である。

 此のサンパウロ市には、サンベント街は藤崎商会がある。藤崎商会は伯剌西爾にイの一番に日本雑貨店を開いた日本人商店の元祖で、野間貞次郎氏(高商出身)が、後藤、佐久間、田中等の青年を同伴して、サソパウロ市に繰込んだのであつた。恰も日露戦役後間もない事とて、サンパウロ人の人気は湧くが如く、特に店員一同は、羽織袴の日本服装で、店頭に立つたのが人気となり、数日の中に携帯商品を売り払ふの盛況であつた。一箇年ばかりにて野間は日本に帰り、野間氏に代つたのは、佐藤某氏であったが、間もなく佐藤氏は病魔に襲はれて不帰の人となり、代つて主任の位置に就いたのは、目今花形役者となつてゐる後藤武雄氏であつた。後藤氏主任の位置に就くや、新進気鋭を以て店務に当り、暫くにしてサンベント街に一大新面目を発揮する至つた。後藤氏は岡山の人、大阪商業学校卒業後、野間氏に伴はれて、サンパウロに来たもので、時に僅に二十歳前後であつた。伯国語を操ること日本語の如く、一種の才人である。.第三回移民の来航を機会として、一大拡張を謀らんとするの意あり。ルア、ウルグヤナの自宅には竹器工場を置いてゐる。恐らく数年後或は十数年後には一大勢力となるであらう。

 サンパウロ市には、日本人商店としては、此の藤崎商店がある丈けである。リオ市のそれのやうに、幾つもない。但し日本の雑貨品は此の藤崎商店ばかりでない。サンベント又はキンゼノウブインブローの欧人商店には、陶器其他の日本品が陳べられてある。就中サンベント街のロジヤ、ド、ジヤポン(Loja do Japao)などは、日本種子(農業用)を商つてゐたが、近頃は陶器類も扱ふやうになつた。サンパウロ人の中には、如何かすると此のロジヤ、ド、ジヤポンは藤崎商店とごちやにしてゐるのもあり。ゼネラル、カルネルは、サンパウロ市に於ける土耳古人の商業区域である。英、仏、独、伊、西等の欧洲商人が雄を競うて居る間に、日本人商店が僅に一軒とは聊か呆気ないが、藤崎商店一つ丈けでも、商業区の中央に陣取ってゐるのは兎にかくも頼母しといつておかう。
 前掲商店の外に、行商者数名あり。或は租応の成績者もあるが、之は次便詳報しやう。


日本人の生活
    伯剌西爾サンパウロ市にて 横山源之助


『大阪朝日新聞』大正元年10月9日

 サンパウロ市内の日本人の職業は、ざつと紹介した。此の四百名内外の日本人が伯国第二の都市であるサンパウロ市で、如何どんな生活を遣つてゐるかは、読者の知らんと欲する所であらう。

 目下日本人が家を構へてゐるのは、ルア、サンパウロ、ルア、サンジヨアキン、ルア、モーカ、ルア、ベラチニンガ、ルア、タクアリ等に住んでゐる。サンパウロ市の中央区たるキンゼノウブインブロー又はデレタより、十町乃至十五十町許り離れてゐる。東京ならば本所深川の場末、大阪ならば北区の町尽頭に巣を作つてゐるのである。家屋の外観からいへば、日本人の家屋は、伊太利人又は西班牙人等と大した相違がない。大抵煉瓦建の家で、ルア、サンパウロ等の日本人家屋は、寝室五六間もある比較的大家屋である。屋内に入れば、ちよつと勝手が違つてくる。三家族乃至四家族雑居せる中に、独身者もごちやごちやと交つてゐる。床下の区画にも、二三家族同居してゐるのも珍らしくない。サンパウロ市の日本人で一族で一家を領してゐる者は、未だ一名だも見当らない。そは兎も角も、門構丈け見ると、サンパウロ市民の家屋と大した相違がなく、応接間兼用の食堂も、頗る気が利いてゐる。真正面に写真が掛つて居り、右には大鏡、左に日本地図又は伯剌西爾地図が掛つてゐる。言葉は日本人同志なら無論日本語だがどうかすると伯国語が交る。たとへばPaoポン麺麭パン)とかBatata(じやが芋)とかChaシア(茶)とかVinhoビニヨ(葡萄酒)とかいふのは、大抵伯国語を用ひてゐる。UmとかDoisとかいふ数字は、伯国語が普通となつてゐるやうだ。衣服は無論洋服。寝室に入ると、日本の単衣又は綿入を着てゐるのもあり。寝台ねだいにも日本流の布団が横はつてゐる。神秘を洩らすの嫌ひはあるが、ちよつと、寝室の模様を書いて見やう。六ミル以上の賃銀を取つてゐる輩は、大抵一室を領してゐるが、五ミル位の職人連なら、一室に二家族位同室してゐる。室の片隅に、二人寝の寝台があり、寝台の下には、柳行李は片顔を出してゐる。写真、鏡等の据付は、大抵変らないが、如何かすると、室の真正面に、神棚を飾つてゐるのも見える。多分日本から持つて来たものだらう。寝台の上に、ちよこなんと坐つてゐる者がある。何者だらうと見ると、奥様と呼ばれてゐる家の女房が、裁縫してゐるのである。其処等に椅子が二三脚散乱してゐる。

 サンパウロ在住日本人の室内は、ざつと右の如しである。生活費を挙ぐれば、之を十人十色であるが、六ミル内外の夫婦者なら、一箇月六十ミル(三十九円)といふのが普通であらう。独身者なら、一箇月三十五ミル(十九円八十二銭五厘)といふのが最も多いやうである(但し小遣銭は別なり)。左に市内の物価を挙ぐれば

  ミル    レース
 白米六十キロ(一俵、約四斗)  二五、 〇〇〇
  但し此の相場は、伯国産の中等、上白米は六十キロ三十ミル以上なり
 麺麭一キロ 〇、 三〇〇
 牛肉一キロ 上 〇、 八〇〇
  下 〇、 六〇〇
 豚肉一キロ 一、 二〇〇
 牛乳二合 〇、 四〇〇
 鶏卵一打 一、 〇〇〇
 砂糖一キロ 上 一、 〇〇〇
  下 〇、 八〇〇
 塩一リートル 〇、 二〇〇
 玉葱一キロ 〇、 五〇〇
 青菜十二把 〇、 八〇〇
 じゃが芋一リートル 〇、 三〇〇
 干鱈一キロ 一、 〇〇〇

である。這は移民自身に就て質したので、専ら日用品を本位として挙げたものである。或は市場の相場と異つてゐるかも知れない。サンパウロ生活の大負担は屋賃で、二三間ある家屋は、一箇月八十ミル乃至百ミル、稍々大きくなると、百二十ミル乃至百五十ミルである。一家屋に数家族同居し、又は一室に数人雑居してゐるのも、畢竟屋賃が高いからである、朝は麺麭に珈琲又は紅茶、午は飯米又は麺麭に肴、夜は飯米に肉類。豚肉は不廉だから、大抵牛肉を用ひてゐる。で、屋賃の負担を除けば日常品は案外低廉である。或は肉類を用ひず、干鱈をしやぶりながら済ましてゐる剛の者もある。床下の区画に六ミル内外の賃料を払ひ、一箇月二十ミルで遺つてゐるのも見える。

其処で一日六ミルの賃銀を獲るものとせば、一箇月(二十六日間の労働)の収入は、一百五十六ミル、日本貨幣の百〇一円四十銭。別に女房の収入があり。此の中生計費六十ミルを除けば一箇月九十六ミル、一箇年一千百五十六ミル(七百五十一円四十銭)残るのである。大工の連中に一時に一コント(六百五十円)の送金者があるのも無理がない。以上は、真面目にして勤勉なる職人を目標として挙げたものである。家族の牽制がない独身者は、到底斯うはゆかない。或は百ミル内外の借銭を拵へてゐるのもある。或は為すこともなく、ぶらぶらしてゐるのもある。(六月七日)