「蛮社の獄」で自刃した開明派文人画家
(わたなべかざん)
1793-1841(寛政5年-天保12年)
通称:登、名:定静、字:伯登・子安
号:華山のちに崋山、寓絵堂、全楽堂
三河国田原藩士
江戸半蔵門外、田原藩上屋敷裏門脇の長屋で生れた。生計のため画を修め、儒学を佐藤一斎、のち松崎慊堂に学んだ。天保3年(1832)江戸詰年寄役の末席となり、海防を担当した。高野長英(たかのちょうえい 1804-1850)、小関三英(こせきさんえい 1787-1839)ら蘭学者と交わり、海外事情を研究した。天保10年(1839)「蠻社の獄(ばんしゃのごく)」に連座し、田原蟄居を命じられたが、天保12年(1841)自刃した。年49歳であった。
画家として名高い。西洋画の技法を取り入れ、写実性を高めた。肖像画「鷹見泉石像」は国宝。
ほかに、「崋山」、「全楽堂文庫」など5種知られている。
「全楽堂」(ぜんらくどう):53x19mm
「田原藩士渡邉登蔵書記」(たはらはんしわたなべのぼりぞうしょき):59x34mm
国立国会図書館所蔵の「旧幕府引継書」の中に「崋山没収本」と呼ばれる蘭書の翻訳書があるが、すべてが崋山の旧蔵書かどうかは不明。
天保8年(1837)、米国船籍のモリソン号が日本に通商を求めるために来航し、幕府が「外国船打払い令」により砲撃して退去させる「モリソン号事件」が発生した。幕府の強硬論に対し、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)』を執筆し、慎重論をとった。蘭学者らと交友し、影響力をもっていた崋山の存在を警戒していた幕府は、これを理由に崋山と長英を処罰した。
「蛮社」とは、崋山らのサークルの呼称。
『日本大家論集 (13)』(博文館 1888-06)【雑55-12】
鈴木清節編『崋山全集』(崋山叢書出版会 1941)【289.1-W62k-S】
佐藤昌介著『渡辺崋山』(吉川弘文館 1986)【KC154-37】