豊臣家、徳川家の侍医をつとめた名医
(まなせしょうりん)
1565-1611(永禄8年-慶長16年)
幼名:又五郎、字:養庵、号:玉翁、院号:養安院
医学者
一柳家に生まれたが、中世の医学者として名高い曲直瀬道三(まなせどうさん 1507-1594)について学び、曲直瀬の姓を与えられ、道三の孫娘を妻とした。天正12年(1584)豊臣秀吉に謁し、以後秀次に仕え、文禄元年(1592)には近江国に250石を与えられた。同年、正親町上皇の病気の治療により法印に叙せられた。文禄4年(1595)には宇喜多秀家の妻の奇病を治癒し、秀吉よりその謝礼として朝鮮の役に得た書物数千巻を与えられた。また、慶長5年(1600)には後陽成天皇に薬を献じ、平癒を得た功で「養安院」の号を賜わった。慶長10年(1605)には徳川家康の侍医となり、厚遇を受け、次いで秀忠にも仕えた。
蔵書印は正琳が賜った院号による。子孫も代々この院号を称し、この蔵書印が押されている書物の中には江戸中期以降のものもあるため、実際には正琳以降の曲直瀬家が使用したものとされる。
末孫の正珪(しょうけい)はあまり医学を好まず、荻生徂徠に学び、古文辞学に熱中、越智雲夢と称した。彼はまた書物を好み、その蔵書は「神門文庫」と呼ばれたが、その中核をなしたのが正琳以来伝来の書物であった。掲出印が押された書物には、この正珪の代に押印されたものも多いといわれる。
ほかに、「養安院」墨印と「養安」朱印がある。
「養安印蔵書」(ようあんいんぞうしょ):66x18mm