序 日仏交流の幕開け

2. フランス軍事顧問団と軍隊の近代

外国の情報が少なかった江戸時代にあっても、ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の事跡などはある程度知られており、ナポレオンを詠んだ詩や翻訳物の伝記が残されている。
黒船来航の衝撃を受け、幕府は軍事力強化を目指し、幕末に軍制改革を行った。慶応元(1865)年、フランス・英国へ派遣された外国奉行・柴田剛中(1823-1877)の交渉により、フランスから軍事顧問団を招くこととなり、フランス式軍制の導入が図られた。薩英戦争後に薩摩藩を支援するようになった英国への対抗上、フランスが幕府への接近を図った事例と言える。
大政奉還後、旧幕府において軍事・洋学の知識を持っていた人物の多くは、徳川家に従って静岡藩に移住し、沼津に兵学校を開いた。これは後に陸軍士官学校の一部となり、明治政府もフランスから軍事顧問団を招くなど、維新前後の軍隊とりわけ陸軍は、フランスの影響を強く受けた。

ナポレオンの肖像

リンデン(小関三英訳)『那波列翁勃納把爾的伝』松岡氏清風館,安政4(1857)【W346-18『那波列翁勃納把爾的伝』の関連電子展示会を新しいウィンドウで開きます。

ナポレオン・ボナパルトの伝記は、すでに江戸時代から翻訳されていた。早くも寛政6(1794)年にはオランダ船からの海外情報(風説書)を通じてフランス革命勃発が知られ、文政元(1818)年には頼山陽(1780-1832)が漢詩「仏郎王歌」にナポレオンを詠んでいる。本書の訳者・小関三英(1787-1839)は出羽国(山形県)庄内生まれ。漢学を修めた後、江戸に出て蘭学を学ぶ。幕府天文方蛮書和解御用を拝命し、オランダ語の翻訳に従事したが、天保10(1839)年蘭学者らが弾圧された「蛮社の獄」に際会して自害した。三英は天保3(1832)年頃にヨハネス・リンデン(1756-1835)の原書を入手し翻訳したものと思われるが、その死後、安政4(1857)年になって出版された。なお、明治以降も、ナポレオンに関する著作や翻訳は少なくない。

一魁斎芳年画『仏蘭西英吉利西三兵大調練之図』玉明堂, 明治1(1868)【寄別7-5-1-1『仏蘭西英吉利西三兵大調練之図』のデジタル化資料

軍事教練を描いた錦絵

月岡芳年(1839-1892)は、「最後の浮世絵師」とも呼ばれる絵師。天保10(1839)年江戸に生まれ、数え年の12歳で歌川国芳(1798-1861)に入門した。21歳で独立し、やがて浮世絵師番付の一位まで上りつめ、多くの門弟を持つに至った。血みどろのグロテスクな絵が江戸川乱歩(1894-1965)、三島由紀夫(1925-1970)らに偏愛されたほか、エロティックな絵、怪奇幻想的な絵でも名高い。この図が実景かどうかは定かでないものの、幕末に駐留していた英仏軍の調練の様子を色鮮やかに描いている。生麦事件の発生を受け、外国人襲撃事件から自国民を保護するため、英国軍・フランス軍が文久3(1863)年以来、横浜山手に駐屯していたことが背景にある。なお、「三兵」とは騎兵・歩兵・砲兵のこと。

『法国歩兵演範小隊教法』標題紙

(松代藩学政局 訳)『法国歩兵演範. 小隊教法』松代藩兵政局,明治2(1869)【特39-893『法国歩兵演範. 小隊教法』のデジタル化資料

江戸幕府は慶応2(1866)年、パリにおいてフランスから軍事顧問団を招く契約を結び、同年12月にはシャルル・シャノワーヌ大尉(1835-1915)以下20名が来日した(第1次軍事顧問団)。幕府の軍制改革とともにフランス式教本の翻訳が行われ、本書はフランス式軍制を採用した松代藩が翻訳したものである。
第1次顧問団は旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いで敗北した後に廃止され、帰国した。明治5(1872)年には明治政府が幕府に倣って第2次軍事顧問団を招請し、20名を超える顧問団が陸軍士官学校の創設などに関与したが、日本陸軍は明治18(1885)年にドイツから参謀クレメンス・メッケル少佐(1842-1906)を招いて以降、ドイツの影響を強く受けることとなる。

『徳川家兵学校掟書』表紙

『徳川家兵学校掟書』【赤松則良関係文書51】『徳川家兵学校掟書』のデジタル化資料

幕末期、幕府はフランスに倣った軍制改革を行ったが、大政奉還後、旧幕臣が多く移住した静岡藩がその知識を継承し、兵学校を設立する。旧幕府陸軍局に属していた者の多くが沼津に移住しており、江原素六(1842-1922)らの主導もあって、兵学校は沼津の地に置かれた。本資料は、沼津兵学校の設立に当たり、明治元(1869)年12月に制定された規則書である。幕末にオランダに留学した赤松則良(1841-1920)、西周(1829-1897)を中心に作成された、全85条の規則と教授方詰所・授業所の掲示を収めている。入学資格や試験、病気休暇など生徒に関することのみならず、教授方の処遇についても同じ規則書内に定められており、兵学校の運営全般に関することを読み取ることができる。語学は英語またはフランス語を選択することとされ、特に陸軍においてはフランス式軍制による士官養成が目指されていた。

『沼津兵学校名簿』中面

『沼津兵学校名簿』【赤松則良関係文書52】『沼津兵学校名簿』のデジタル化資料

赤松の手元に残された、明治2(1869)年時点の沼津兵学校の名簿である。剥離の跡もあり、本資料のみからは兵学校の全容をうかがうに至らないが、沼津兵学校に関係のあった多くの人名を知ることができる。教授陣は、赤松・西らのオランダ留学生や幕府の陸海軍出身者、開成所出身者などがその任に当たっており、教育内容も優れたものであった。また、沼津兵学校には附属小学校も設けられ、一斉授業方式の実施や一般庶民にも入学を許したことから近代小学校の先駆と言われる。沼津兵学校は廃藩置県後の明治4(1871)年9月に兵部省に移管され、陸軍士官学校の源流の一つとなった。

『塞納府巴里その他 (仏国軍制)』中面

『塞納府巴里 その他 (仏国軍制)』【西周関係文書96】『塞納府巴里 その他 (仏国軍制)』のデジタル化資料

幕末に蘭学を学び、『万国公法』【W358-41】を訳刊した西は、沼津兵学校頭取を務めた後、浅草に開いた私塾で学問体系に関する概論的講義「百学連環」を行うなど啓蒙家として活躍した。一方、明治政府の陸軍創設にも重要な役割を果たしている。勝海舟(1823-1899)の推薦により兵部省・陸軍省に出仕し、山県有朋(1838-1922)の顧問として働いた西は、明治6(1873)年1月に発布された徴兵令の制定や軍人勅諭の起草に関与するなど、軍制の整備に当たった。本資料は、徴兵令制定の過程で、軍隊の規模を定めるに当たりフランスの軍制を調査したものと思われ、パリをはじめ各地域に駐屯している軍団の兵員数などが記載されている。