少年少女のための
憲法のお話
金森徳次郎
少年少女のための
憲法のお話
金森徳次郎
はじめの言葉
この本は、絵を見ているだけで、少年少女の皆さんに、憲法の精神をわかってもらいたい、と思って書いたものです。絵を見ているうちに、憲法がしぜんに魂のなかに、しみこんでくるように、と思って書いたのです。ところが、見て考えねばならない本になってしまいました。
これは、なぐさみに見る漫画の本ではありません。むずかしい憲法の精神を、しんけんな気もちで書いたものです。大人にもむずかしいことを、やさしくして、皆さんにわかっていただこうとしたのですから、みなさんが、いくども、また、大人になられてからも、読んで、深い意味をさとってくださるように願っております。
これは、法律の本ではありません。国民の魂の、おきどころを説明したものです。だれもが知らねばならない、心のもちかたを、書いたのです。お父さま、お母さま、先生がたにも、見ていただきたいと思っています。
この本ができあがるためには、松田文雄、吉沢廉三郎、三輪孝の三画伯、その他のかたがたに、たいへんなお骨おりをかけました。お礼をのべます。
金森徳次郎
目次
一 |
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猿の芸 |
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一一 |
二 |
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人類の愛しあい |
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一六 |
(イ)弱い者いじめ |
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十六 |
(ロ)人を愛するよろこび |
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十八 |
三 |
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人と世の中 |
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二〇 |
(イ)ロビンソン・クルーソー |
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二〇 |
(ロ)人の顔をした狼 |
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二二 |
(ハ)樽漬けのヘビ |
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二三 |
(ニ)猿にも社会生活、人には? |
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二四 |
四 |
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法の必要 |
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二七 |
(イ)道徳、宗教、礼儀、国法 |
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二七 |
(ロ)国法がおこなわれるわけ |
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三一 |
(ハ)法治 |
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三二 |
(ニ)国法の種類 |
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三四 |
五 |
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政治力 |
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三五 |
(イ)政治力の必要 |
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三五 |
(ロ)政治力のもと |
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三七 |
六 |
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憲法 |
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四二 |
(イ)憲法とは何か |
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四二 |
(ロ)どうしてできたか |
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四三 |
七 |
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憲法のなかみ |
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四四 |
八 |
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憲法の根本の道理と、その四大眼目 |
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四六 |
九 |
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憲法は変えられるか |
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四九 |
一〇 |
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主権 |
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五二 |
一一 |
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三権の分立 |
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五四 |
一二 |
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正しい天皇制 |
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五九 |
一三 |
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国の象徴 |
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六二 |
一四 |
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天皇の権能 |
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六五 |
一五 |
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民主政治の徹底 |
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六七 |
一六 |
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国会 |
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七一 |
(イ)最高の機関 |
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七一 |
(ロ)立法機関 |
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七三 |
一七 |
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政党 |
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七五 |
一八 |
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内閣 |
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七七 |
一九 |
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裁判所 |
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七八 |
二〇 |
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司法権の独立 |
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八五 |
二一 |
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予算 |
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八五 |
二二 |
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地方自治 |
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八八 |
二三 |
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これからさきの見とおし |
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九〇 |
少年少女のための 憲法のお話 金森徳次郎
一 猿の芸
猿が面白い芸をしています。手をあげ、足をあげてさも面白く。猿は、人ではありませんが、どうして、こんな面白い芸をするのでしょうか。
猿のうしろの方をみますと、なるほど、猿がうまく芸をするわけがわかります。
猿まわしがいて、細いつなで猿をあやつっています。猿はそのつなのさばきかたと、猿まわしの目の色とで、動くのです。
そのそばには、しかるための『むち』と、ごほうびの『にんじん』があります。
つまり、おどかしたり、喜ばせたりして、猿を動かすので、けっして、猿が本心で動くのではありません。
猿のかわりに人を使ってみます。ずいぶん変なものですが、私たちは、こんなふうにつかわれて、喜んでいられますか。
ところが、いままでは、これで平気でいたのです。考えて見れば、おかしなことでした。
馬は引っぱられて行く。人は、自分の考えで、自分の足であるく。ここが、人と馬とちがうところです。自分で自分のために動くことを、むずかしい言葉で、自主と言います。
馬は、綱でつないで、引っぱられていますが、人は、自分の心から、手をつないでいきます。
こんな気もち、すなわち、なかよく、お互いに一しょに生きていくのは、他人に動かされるのでなくて、自分の心によるのだというのが、自主的な生きかたです。
二 人類の愛しあい
(イ)弱い者いじめ
歌をつくったり、詩をよんだりする人は、自然は平和であるとよろこんでいます。
花さき、鳥うたうなどと、のんきなことを言っています。しかし、木にさく花と、木のしたにはえている草とは、土地や日光を、争っているのです。うつくしい鳥は、春を楽しんでいる蝶々を、たべようとしているかもしれません。水鳥がなにくわぬ顔をして泳いでいても、その頭のなかには、近所にいるめだかや、ふなの味が、うかんでいるでしょう。つまり、強いものが、弱いものをいじめるのです。
弱肉強食という言葉があります。つまり、強いものが弱いものをたべる、という意味です。この世のすがたは、こんなふうにも考えられます。
(ロ)人を愛するよろこび
人の心は、どうでしょう。やはり、鳥や獣のように、弱いものをいじめたいのでしょうか。そういう心の人が、あるかも知れません。
しかし、よい人は、そうではありません。りっぱな人たちは、おたがいに、うやまい、いたわって、なかよく一しょにくらしていこうとします。こうして人どうしは、ほんとうに美しい心で、つきあっていくときに、一ばん楽しい気もちになります。正しい人の心のなかには、博愛や平和がみちているはずです。たとえば、世の中のために、えんぜつをしている人の心のなかを、のぞいて見たら、何があるでしょう。水鳥がめだかを見ているときの心と、ちがっているのでなければならないと思います。
心から、人を愛する気もちでなければなりません。
三 人と世の中
(イ)ロビンソン・クルーソー
無人島に流れついたロビンソン・クルーソーは、一人きりで、離れ小島のなかに住んでいました。友とするものは、鳥や魚や、波の音、風の声ばかりですから、人と人とのあいだの面倒なことは、おこりっこありません。
しかし、人は一人きりで生きていると、とても寂しくて、我慢ができません。石や木とでも、話をしたくなるでしょう。
(ロ)人の顔をした狼
人は、おおぜい集まって、一しょにくらしています。村や町や、市や国などを、つくって住んでいます。ところで、人というものは、自分のことばかりを考えて、人をいじめることがすきなものでしょうか。昔の人は『人は、人にむかいあうと、狼である』と言いました。共ぐいをするような、悪者だという意味です。
これは、ヒニクすぎる言葉で、おもしろいけれども、正しくはありません。
私たちは、正しくくらせる人だと思います。
また、だいたい正しくくらしています。
(ハ)樽漬けの蛇
しかし、人の正体は、のんきにボンヤリと、生きているのではありません。樽に入れた蛇としたならば、こうでもあろうかと思われるほど、人は、いろいろきそいあっています。頭をあげてはひっこみ、ひっこんでは、また頭をあげます。はげしい生存競争です。
(ニ)猿にも社会生活、人には?
私は、動物園がすきで、そのうちでも、猿の遊んでるところがすきです。たくさんの親猿、子猿、それに手長猿までまじって、キャッキャッと遊んでいます。猿も木から落ちる、との諺がありますが、なかなか、木から落ちるような、まのぬけたのはいないで、じつに元気よく、はねたり、とんだりしています。小さな子をいたわる、親猿があるかと思うと、ほかの猿から、ばかにされている老いぼれ猿もいます。あるいはなにか意地わるをする猿もあるし、食べものを争って、けんかをするのもあります。ときどき、ケタタマシイさわぎ声が起ることもありますが、しかし、だいたいは平穏無事ですんでいくようです。ところが、人の世界では、なかなか無事にはいきません。どろぼうもあれば、さぎもおり、人をいじめるものもあれば、人殺しまでもおこります。なんだか、人の方が、猿に劣っているのではないかとさえ、思いたくなります。人は、人と集まって、共同して生活しています。つまり、社会生活をしています。一人だけで生きているのではなく、多くの人の集まりである、社会のなかに生きているのだから、勝手きままなことはできません。それかといって、むやみにちぢんでいては、自分の生きがいがありません。ここに、ほどよい人の世界の秩序が必要になります。
四 法の必要
(イ)道徳、宗教、礼儀、国法
人が、秩序ただしく、平和に、社会生活をしていくことができるのは、どうしてであろうか。これは、たぶん人の本性からくるのでしょう。人は、たしかに、正しく生きようとする心を、もっているものです。しかし、そういう性質をそなえていても、みんなが、その考えで、ほねをおらなければ、よい生活はできません。人が、こうしなければならぬと考えるような、規則はいろいろあります。
人にあって挨拶するときには、帽子をとるのが、ふつうです。これは礼儀の法則であります。
人をいじめると、自分の心の中で、まことにスマナイと思う心がおこります。これは道徳の法則であります。
宗教を信ずる人が、その宗教の教えにしたがわないと、宗教の法則にそむいたことになりましょう。
ところで、これらとはちがって、国民ぜんたいのまとまった考えで、こうすべきである、と認められる規則があります。これが国法であります。つまり、人のおこないを判断する物差です。おこないが正しいとか、有効とかいうことを、はかりきめる物差であります。
礼儀にはずれたら、世の中から非難されるでしょう。道徳規則にあわなかったら、自分の良心に責められるでしょう。宗教規則にそむいたら、自分の宗教心に責められるでしょう。しかし、これだけでは、世の中の秩序をたもつのに、じゅうぶんでありません。そこで、国法が必要になります。国法に従わないと、国家がこれをとがめます。ですから、誰もこれに従わねばならぬ気もちになります。つまり大そうききめのある規則であります。
このように、人というものは、いろいろの規則で、四方から照されて、規則の光のなかを動いていくのです。
(ロ)国法がおこなわれるわけ
人が国法にしたがうのは、とがめや罰が恐ろしいからではありません。守らねばならぬものと思って、真心から従うのです。しかし、心の弱いのが人のくせですから、その真心の弱いのを、国の力でたすけ、強める意味もあります。朝ねをふせぐには、自分で目ざまし時計のねじを巻かねばならぬのと同じです。自分で、自分の目をさますのです。
1ねむいなあ、ねていたい。――これは気まぐれです。
2六時に起きることにする。――目ざまし時計がなります。
目ざましの針は、自分できめておくのです。
わたくしたちは、自分で方針をつくって、自分の動きかたをきめます。そして、つらくても、これを守ります。
(ハ)法治
犬や猫などに教えるには、事がおこったあとで、法をつくります。あとから規則をつくって、しかります。それで、よさそうです。
しかし、人は、法をまえからもたねばなりません。理性的動物ですから、法にしたがって生きていかねばなりません。法によって治めること、つまり、法治ということが、たいせつとなり、国の政治もみな法にしたがわねばなりません。法治国でなければなりません。法律をつくること、法律にしたがって政治をおこなうこと、法律によって裁判をすることがたいせつになります。
(ニ)国法の種類
人を規律する、国の規則は、数かぎりもなくできるでしょう。
その規則には、根本になるものと、枝葉のものとがあります。民法や刑法や、行政法は、枝葉のものです。憲法は、その根本であります。
五 政治力
(イ)政治力の必要
人間は、みんなでなかよく、くらしてゆかねばなりません。誰も、そうは思っています。国にいろいろの規則があるのも、そのためです。しかし、もしも、つぎの絵のような場面がおこったら、どうしますか。無理がとおれば、道理がひっこむでしょうか。
オレさまは、腹がへってこまるから、お金をみんなわたせ!なに?おまえたちも、腹がへってる? かまわん。おまえたちの腹なんか、オレさまの知ったことではない。
こんな乱暴者がでたら、礼儀や道徳ばかりでは、ふせげません。このときに、国の政治力がいりようです。じっさいに、世の中の秩序をうまくととのえて、人の共同生活の世話をしてゆく、政治の力が必要となってきます。
(ロ)政治力の大もと
昔の人は、政治は外からくる力によるものだ、と思っていたようです。雨や風が天からくるように、私たちに、いろいろなさしずをして、税をだせ、学校をつくれ、道路を掃除せよ、などという力が、私たちの手のとどかない、高いところからくるように考えていました。「お上」の力で、治められているもののように、ぼんやり考えていました。今では、人が噴水をつくったり、扇風機を使ったりしますが、それと同じように、私たちの政治は、私たち自身でやるのだと、はっきり知りました。どうしてやるか。私たちが、風の神になったり、雨の神になったりするのは、どうしてでしょうか。それは、憲法をつくってそれにしたがって、国会や、内閣や、裁判所をもうけるのです。憲法をつくるのも私たちです。国会や内閣や、裁判所の仕事をするのも私たちです。政治力の大もとが、国民全体にあることを、『主権在国民』といいます。主権とは、政治力の一ばんもとになる人の心の力です。
六 憲法
(イ)憲法とは何か
人間は、『ねばならぬ』ということを、知っています。よいことをせねばならぬ、なかよくくらさねばならぬ、約束を守らねばならぬ、などのように。つまり、規則を知っているのです。
憲法は、国のはたらき方をきめたり、国民のたちばをさだめたりする、大もとの規則です。一ばんのもとになるものだから、国の根本法規であります。また一ばん強い力のものだから、国の最高法規であります。そして、憲法とは、国の政治の根本法規であるというと、まとまった正しい説明になります。
(ロ)どうしてできたか
『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し……この憲法を確定する』とあります。国民が憲法をきめたのです。
つまりこの憲法は、国民が『……ねばならぬ』と思う心の一致したものであります。もちろん、たくさんの人間の考えは、なかなかキチンと一つにはなりませんが、できるだけ一致させたものです。
七 憲法のなかみ
憲法のなかには、どんなことが書いてあるかというと、
1、憲法自身のこと(効力、改正のしかたなど)
2、政治の大方針のこと(平和主義など)
3、政治をするための、いろいろのしくみのこと(天皇、国会、内閣、裁判所など)
4、政治をするために用いる、いろいろの方法のこと(法律、政令、裁判、会議など)
5、人間のひとりびとりを、たいせつにする考えかたのこと
憲法という宝物の中には、これだけのものがなければなりません。ほんとうに、はいっているでしょうか。はいっています。しかし、なかなかこの宝物は、たくさんあって、見るたびに、いままで気のつかなかったような、いいものがでてきます。よく気をつけて、しらべましょう。
八 憲法の根本の道理と、その四大眼目
人の世界は、まだ完全ではありません。だれもが、これでじゅうぶんだと思うようには、なっておりません。戦争で、苦しむものもあります。悪い政治で、なやんでいるものもあります。ところが、私どものつくりあげた憲法は、デモクラシーをもとにした、じつに立派なものであります。これによって進みさえすれば、私たちは、人間として、生きがいのある、まことの生活を、することができるでしょう。
この憲法は、どんな姿をしているかといえば、人間の主体性ということを基として、世界平和の原則、合理的な天皇制、民主政治の完成、基本的人権の確立という、四つのことをさだめたものであります。これは、どれもむずかしい言葉ですが、この言葉の意味は、だんだんわかるでしょう。
あらしの吹きまくっているような世の中に、しっかりした、美しい丘が、そびえたち、そのうえに四本柱の塔が建っている絵をかくと、この憲法の姿がはっきり心に浮かびます。この家を、自由の塔とでも、よんだらどうでしょうか。これはもちろん、人間の主体性の土台と、四大眼目の柱とになぞらえたのです。
九 憲法は変えられるか
私たちの、もとの憲法は、明治二十二年にできましたが、それが昭和二十一年に、すっかり改正せられました。一つの古い規則ものこらぬように、全体かわりました。それがいまの憲法です。
憲法をかえることを、昔の人はいやがりました。そして、少しずつかえることは別として、全体をかえることをたいそうきらって、そんなことはできないことだ、という人が多かったのです。しかし、いまもいったとおり、憲法は全体がかわりました。そして、いまでは憲法をかえてはならない、などという人はありません。人がつくったものを人がつくりかえてならないという、りくつはないからです。
しかし、それかといって、憲法を、むやみにかえることは、よくありません。これは、一ばんのもとの法であるからです。家のペンキがハゲたり、瓦がわれたときは、すぐなおしますが、土台をつくりなおすことは、たいへんな大事業で、家ぜんたいに大変化がくるからです。でありますから、アメリカやイギリスのようなおちついた国では、かるがるしく憲法の改正をしません。
私たちの憲法も、これをかえると、国の政治のもとがぐらつくことになるから、よほど大事にあつかわねばなりません。それゆえ、憲法を改正するには、ていねいな手続がいります。それは、国会で改正の案をいいだし、それを国民が投票して、承認(それでよいとみとめる)するのです。
一〇 主権
私たちは、八千万人いっしょに住んでいますが、どうして、いっしょになかよく、くらしていけるのかというと、政府があり、政治の力があるからであります。法律をさだめたり、税金を集めたり、裁判をしたりするのは、この政治の力です。ところで、政治の力は、『何々をせよ』とさしずする心の力ですが、その心は、誰の心でしょう。昔は、それは、だれか強い人の心であるように、思われたこともありますが、いまでは、それは、国民全体の心であるとされています。つまり、国の政治力の本もとは、国民全体の心であります。国民があつまって、自分で自分のことをよくとりはからっていくのです。このことを『主権が国民に存する』といいます。
主権とは、政治の力の本もとになっている、心(意思)のことです。国民というのは、日本人のみんなをさすのです。このことは、わかりにくいことですが、これをしっかり心にいれておかねばなりません。
それで、私たちは、治める人でもあり、治められる人でもあります。水道のホースをふりまわして自分で水をかぶることに似ています。
一一 三権の分立
太陽の光は、一つの白い光ですが、プリズムをとおすと、赤黄青などの、いろいろの光線にわかれます。また、この赤黄青などの光線をうまく合わせると、白い光になるのです。国の政治の力は、一つのものですが、これをいくつかの力に、わけることができます。そして、この力がほどよくはたらくと、国の政治全体が、うまくできるのです。
政治の力はこれを立法権(きそくをさだめる力)・行政権(一つ一つの政治をする力)・司法権(さいばんをする力)の三つにわけるのが、ふつうであります。このようにわかれることを、三権の分立といいます。さらに深く考えてみると、そのほかに、憲法制定権を加えるのが、いっそうよいと思います。
なぜ三権にわけるのか。これがたいせつな問題です。政治力のなかに、この三とおりのものが入っている、というだけのことではありません。非常にふかい意味があるのです。それは、三権をわけて、その権能(はたらき)をおこなう人を、べつべつにすると、政治が正しくできることです。うらからいうと、乱暴な不公平な政治がなくなることです。国民の自由がえられることです。
なぜ、三権分立にすると、政治が公平になるのでしょうか。それは、人々の役割をきめると、その人々の我がままができなくなるからです。おたがいに、おさえあうからです。ジャンケンをやるときに、石と紙と、はさみとが、おたがいにジャマをしあうのと似ています。
これが憲法の根本原理です。
一二 正しい天皇制
天皇と、わたくしたち一般の国民とのあいだは、敬愛の心でつながっています。わたくしたちは、お父さんやお母さんのころから、また、そのお父さんやお母さんのころから、そして、また、そのお父さんやお母さんのころから、というふうに、昔から天皇を、おうやまいしてきました。天皇に、お親みしてきました。天皇が、この国においでにならなければ、さみしくてたまらない気もちできました。
朝おきて、太陽がでていなければ、さみしいのと、同じようなぐあいです。このことは、わたくしたちの心に、しみこんでいるのです。
うららかな春の日に、花や草の芽が、世の中にみちわたるように、天皇のお心と、わたくしたちの心とは、なごやかに、とけあっているのです。わたくしたちが、天皇をおむかえして、大声に万歳をさけぶときの、わきたつ心のなかをしらべて見ると、これがわかるでしょう。これは、おさめるとか、おさめられるとかいうこととは、全く別のことです。わたくしたちの心の中に、しぜんに、わき出してきたことです。
一三 国の象徴(しるし)
子どもたちが、動物園へ行ってきました。帰ってからの夕食のあとで、おもしろそうに笑って、はしゃいでいます。見ると、妙なものをかいて、何だかあてっこをしています。きつねだ、きりんだ、猿だとさわいでいます。つのを見れば、牛を知り、富士山を見れば、日本を考え、国旗を見れば、日本を思うのは、あたりまえです。わたくしたちは、天皇をあおぐと、心にしみいるように深く、日本を感じます。これが象徴(しるしのこと)の意味です。甲を見ると、乙を心にピタリと感じられるときに、甲は乙の象徴です。桜の花がさいた、春がきた。紅葉が赤い、秋が深くなった。こんなばあいに、象徴の意味がはっきりします。
憲法には、天皇は、日本国の象徴であると、あきらかに書いてあります。天皇を、支配者と考えたのは、昔の考え方でして、今では正しくありません。
次の絵は何を象徴するでしょうか。
一四 天皇の権能
明治憲法のもとでは、天皇は、国の政治の総もとじめである、と思われていました。
新憲法では、全くこれとちがいます。国のはたらきはいろいろありますが、法律は国会でつくり、行政は内閣がそのもとじめであり、裁判は裁判所でします。
観音さまの木像を見ますと、ふつうの観音と、千手観音とあります。観音さまの頭に思いうかべられることは、この手で実行されます。このあいだまでは、ふつうの観音さまの手が、一組しかなかったように、国のことは一人の天皇によって、しめくくりができたのですが、新憲法では、国が、千手観音のようにたくさんの手をもっています。つまり国会や裁判所や内閣などが、べつべつに国の手となって仕事をするのです。
一五 民主政治の徹底
民主政治は、国民が自分で政治をすることであります。しかし、権力分立がありますから、実際のしかたは、いろいろちがいます。
(一)まず、憲法の改正は、国民がじかに投票してこれをきめます……直接政治
(二)法律をきめるのは国会です。国会は、民が選んだ議員が、これをつくります。だから、立法(法律をつくること)は国民から見ると、間接政治です。
(三)行政をするのは内閣です。内閣は国会が監督をします。だから、行政は、国民から言えば、間接のまたその間接の政治です。
(四)裁判をするのは裁判所です。その裁判官は、国民が直接に任命するのではありませんが、その中で、最高裁判所の裁判官は、国民の直接の投票で、これをやめさせることができます。
広く言って、国の役人は理くつの上では、すべて国民が役につけるものであり、また、やめさせるものであります。
中国の昔ばなしに、仙人が、口から人や馬などを吹きだして仕事をさせ、いらなくなると、また呑みこんでしまうようなのがありますが、国民と公務員とのことも、こんなふうに考えられます。
一六 国会
(イ)最高の機関
国会は国権の最高機関で、また国のただ一つの立法機関であります。むずかしいが、大せつな言葉です。
人間は考えるものです。物を言うものです。考えるのは頭でしょう、物を言うのは口でしょう。こんなふうに、はたらきをするものを機関と言います。頭は人間の考える機関です。口は人間がものを言うための機関です。
国民が、国の政治力、つまり、国権の本ではありますが、その力は国会がこれをおこなうのですから、国会は国権の機関です。内閣や裁判所も、同じような機関ですが、国会が一ばん強いのです。それゆえ、最高の機関です。
音楽会でオーケストラをやっています。バイオリンや、笛や太鼓が、調子をそろえてなっていますが、だれの力が、全体のしめくくりをするでしょうか、それはコンダクターです。その手のふりかたで、音楽がうまくできるのです。国会はこれに似ています。
(ロ)立法機関
法律は、立法機関が、つくるのです。法律は理くつから言えば、国民の思うとおりに定めるものですが、その仕事を国会が受けもつのです。そして、ほかのものは、これをやってはなりません。ただ国会から任されたときは、べつです。ですから、国会はただひとつの立法機関です。
国民の考えは、国会をとおって法律となります。つくるのも国民、従うものもおなじ国民です。
国会は、二つの会議体、つまり衆議院と参議院とから、できています。これは、一つの国民の考えでもいろいろの目で見なければ、全体がわからないからです。
一七 政党
国民の政治上の考えは、人それぞれにちがっています。政治の上で、同じ考えをもっている人があつまって、団体をつくって、政治をうごかそうとします。それが政党です。衆議院議員の、大部分は、みな政党の人です。政党がないと、国民の意見がまとまらないから、政治がうまくできません。つまり、国民の意見は、一人一人ちがうだろうと思いますが、その意見を、政治の上にのぼせるには、大づかみに種類わけにしてまとめなければなりません。政党が、その役をするのです。政党は、おもに衆議院議員の数の多い少いで政治の上に、強い力をもちます。
政党は国会に、力をもちます。内閣に、力をもちます。しかし裁判所に、力をもつことは、いけないと思われます。
政党を、悪いもののように、考える人がありますが、たいへんなまちがいです。
政党がよくならなければ、内閣はよくなりません。
一八 内閣
法律をつくるのでもなく、裁判をするのでもなく、一つ一つの、国のしごとをすることを、行政といいますが、行政の頭は内閣であり、手足はたくさんの公務員であります。行政のもとじめをする内閣は、内閣総理大臣と、そのほかの国務大臣とでつくられていて、合せて十数人です。
行政も、国民がするのが、本筋です。その国民のかわりに、内閣が行政をするのです。だから、内閣の大臣たちは、国民の人気をしょっていなければなりません。つまり、国民からまかされていなければなりません。だから、内閣総理大臣は、国会議員のなかから、国会で指名されて、任せられるのです。また、各大臣の半分までは、ぜひとも、国会議員の中から任じなければなりません。そしてもし、衆議院が、この内閣はいけないときめますと、内閣は総辞職(そのばあい、衆議院を解散することは、できますが、けっきょく、総辞職になります)をしなければなりません。つまり、国民の人気のうえに、のっていなければならないのです。
一九 裁判所
角力をとるにも、行司がなければ、勝負はわかりません。人を罰するばあいでも、財産の争いをきめるときでも、税金をとるにも、意見がちがっていれば、これをきめるために、行司のような役がいります。この役をひきうけるのが、裁判所です。その権力を、司法権といいます。
1 人を罰するには、裁判によらなければなりません。裁判をしないで、かってに、人を罰することはできません。
2 人を罰するには、法律によらなければなりません。そして、あとからつくった法律で、前にやったことを、罰することは、できません。刑罰の規則は、さかのぼることができないのです。
3 裁判所は、ほかの役所と別でなければなりません。公平な裁判をするには、公平な立場の人でなければならないからです。これは司法権の独立、という考えの一つです。
昔は決闘をしたり、かたきうちをしましたが、これは、自分たちで善悪をきめようとしたのです。今は、国が公平にこれをさばきます。
吠えたからといって、いきなりしかるのは、犬を教える方法ですが、人の規則では、『何々をしてはならぬぞ』ときめておいて、これにそむいたら、罰するのです。それでなければ、人間の自由はたもてません。これが、罪刑法定主義という、むずかしい原則です。
裁判所には、
最高裁判所
高等裁判所
地方裁判所
簡易裁判所
の四つがあります。
料理屋の主人や、酒屋の主人が、また、お医者さんでもあるとする。
『ああ!大へん、胃が悪いな。うんとお酒をのんで、お料理をたべなくてはならん!それでないと、命がもちませんぞ』
行政庁が、また裁判所でもあるとする。
『たばこを百万円買いなさい。それでないと、かんごくへ入れるぞ!』
二〇 司法権の独立
行司が、角力の勝負をきめるときには、ほかの人のさしずを受けては、ならないでしょう。同じように、裁判所は、その良心にしたがい、憲法と法律だけによって、裁判をしなければなりません。政府からたのまれたり、国民から贈物を受けたりして、裁判が公平でなくなっては、ならないのです。これが司法権の独立であります。
二一 予算
財布のなかを知らないで、買物をすれば、すぐにお金につまって困ります。
国の費用も同じで、よくだんどりをきめてからでなければなりません。とくに国のお金は、国民の税金で、できていますから、たいせつにしなければなりません。
国の収入と、支出とは、見込みを毎年つくって、国会で議決をしてもらわなければなりません。これを予算といいます。これを見ると、国のお金の廻りぐあいが、よくわかり、また、国が何をしようとするのか、その大体がよくわかります。予算は、国会が政府を監督する方法として、たいせつなものです。
二二 地方自治
人が方々で一所にくらすのは、人情です。それで、国が法律をつくって、その組立や、動き方のすじをきめ、それから先は、その団体が自分でしごとをしていきます(地方公共団体)。
地方団体の長や、その議会の議員は、住民が直接にこれを選挙します。これは、国民の一人一人に自由を認めるのと、似た考えかたです。
国が大原則を示して、地方自治をたしかにしました。
二三 これからさきの見とおし
地球の上に、たくさんの国がありますが、古い考えの人が見ると、それは、爆弾がとび、砲弾がバクレツする戦場です。
私たちの目で見ると、それは美しい花がさき、きれいな、天人が舞っている楽園です。
どうしてそうなったか。それは、わたくしたちの憲法のおかげです。
わたくしたちは、あくまでも、憲法を尊重し、擁護しなければなりません。そして、道は遠いが、理想の光へむかって、一歩一歩と堅実に歩いて行きましょう。
(おわり)
先生父兄がたへ
この本は、金森徳次郎先生が、何をおいても、まず、次の代をうけつぐ子どものためにと、二年のあいだ、文に絵に想をねられ、画の先生も、一心に協力されて、ようやくできあがつたものです。お気づきのように、やさしい一言にも、面白い絵のすみにも、大切な意味がふくまれていますから、お子さまが楽しくみていくときに、年令にあわせて、これをくみとらせてください。
また、ご家庭ばかりでなく、学校の社会科の本にもなるように、配慮されていますので、どうぞ、ご活用をお願い申しあげます。なお、著者へのお問いあわせなどはおとりつぎいたします。
金森徳次郎先生は、愛知県でうまれ、東京大学をでられてから、政治や法律の学者となり、また政府のおもい役につかれていましたが、日本国憲法をつくるときに、その委員長で、大そうおほねをおつたかたです。いまは、国会図書館長として、たいせつなおしごとをしておられます。
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世界社刊 |