「病院建設に就て」 『聖州新報』 1924年5月30日 ほか
病院建設に就て
『聖州新報』 1924年5月30日
北西会長上塚周平氏の発起にて北西方面に病院を設けやうと云ふ下相談会を開く事になって居る。此提案者は鈴木貞次郎氏である。此催しが聖市に出来て居る同仁会の向ふを張つて居る様な意気込が見えぬでもない。然しそれは同仁会が兎角世間から私生児扱されて居る時節柄自然と変に色づけらるる迠であつて、同仁会が聖市に病院を建てるといふに北西病院建設側が決して妨害するものでない。
北西線在住同胞が是迠医薬の道に如何に不便を感じ来たであらうか。それはイグアツペを除いた他一般地方同胞と同じく全く苦い辛い遣瀬ない経験の一つであつた。金の無い事は額に汗する労働者の頑健な体に決して遣瀬ない哀しみではなかつた。頑健な体も病んでからそれを薬療するの道が遠いとさとつた時憂患が重なつて全く苦悩したのである。そうして今でも医療の道が手近に手取早く開拓されて居らぬ処に疾痛持つものの血を搾られつつある。
それで一昨年の九月伯国百年紀念祭を期として北西線に邦人の一小治療所でも設け患病者慰安を企てんと上塚氏は提唱具体案を策し、当時祖国から来た彼の観光団諸郷に応分の寄附金を慫慂された事に一部の世人は知つて居る筈である。此案は不幸にして当時上塚氏の志を裏切つて失敗に終りバウル領事あたりからは空しく嘲笑されたものであつた。
当時上塚氏の治療所建設位置はプロミツソン駅イタコロミの嶺で予算は二十三コントス九百七十三ミル五百レース位であつた。併せて既に当時ドツトル笹田氏とは一縷の気脈通じ合て居たものである事は世間周知でない迠も慧眼なる聖市同仁会理事諸郷の充分御存知の筈である。
それで今度北西線に邦人患者本意の病院を建設しようとする事は、俺達に相談なく出来た同仁会諸郷の鼻の穴をあかしてやらうといふ逆乗気味から熱したものなく田舎に居るお互の全く生活の緊急要事の一として現はれたものである。
尤も彼の内務省が下附したる例の三万六千円の使途はお互田舎在留生活者の斯うした病院建設費又は其後の費用に差向く可き性質の金である事は一点疑のない事であるし北西線のお互にシツクリ合つた病院を設けて彼の補助金の一部を立派に北西在留同胞の衛生保健のため使いたいものであると云ふ意味は確に含まれて居るものである事は明白である。
然らば北西線同胞も同仁会に加入し其支部となり病院を建設したら如何とシタリ顔をなさる方もある。此際同仁会と北西線病院建設会とが妥協する事は表面何んでもない出来そうな筋合のものである。妥協するといふ事は多羅間領事や黒石時報社長やのお心持から行けば此際何かを好都合に埋め合せ呉れる事に違いない。
だが困つた事には北西線同胞の建設すべき病院の趣旨は相互補助から出発するものであつて黒石氏、三浦氏の期待さるる如き社会奉仕事業とか慈善事業とかいふ名目を完する動機から発起されるものでない事が同仁会と北西病院建設会との根底を異にして居る点の一ツである。
又此両者の異なる第二の点は聖市本位と地方本位との差もそれである。
それから衛生保健事業に民衆をよらしめると云ふのが同仁会のやり方であり、衛生保健事業は各自の覚醒を要す宜しくお互に知るべきであるといふのが北西線病院建設側のやり方で是れが第三の異ひである。
吾人は社会奉仕事業をなすには未た余りに痩せすぎて居るものであると信ずる。世間一般所謂の社会奉仕屋を見る時吾人は社会奉仕といふ美名の蔭に何かが常に潜んで居るかに戦慄させられる。吾人は頓馬かも知れない。又上塚氏其他北西線の人々はチト薄馬鹿の野呂間野郎等かも知れない。
然し誓つて泥棒する場合でも吾々は泥棒をせないと始めから不正直を云ふ嘘吐きではないのである。
斯うした人々の平集りによつて病院を建てようとするものである。
斯く言つて来れば何んだか北西線病院建設会は成立未だにして已に聖市同仁会と反対的意気込の如く感じられるであらふが、前提の三ツの差異があると言ふ迠で、北西線病院建設に関し、何も聖市の同仁会が邪魔になる訳ではなくそんなものが聖州にあらうとなからうと北西病院建設には自主亦よく此会の主旨を貫徹させて行くつもりであるのであると同仁会の趣意書の一部を芝居して見栄を切る訳ではない。明白に断っておく事は彼の内務省が補助した三万六千円の一部の金が北西線病院建設に来ようが来まいが●●をくくつて云ふのではない。
北西線病院建設についても無くてはならぬ金は、在留民衛生保健の為め補助して呉れる内務省の彼の三万六千円の一部である事だと再び茲に繰返しておく。勿論茲二三年もしたら北西線なりソロカバナ線なりの在留邦人は経済状態が愈々よくなり或は二三万のはした金はどうでもならうと云ふ時代が将来する事なしとも今の処では争そはれぬ趣であるも、今日小さくとも病院建設に実行をすすむる場合内務省で補助する在留民衛生保健の為めの金の如きは額の大小にかかわらず所謂ふさ合しき金である。
孰れ北西線病院建設が具体化した後に当方面の在留民は彼の金の使要許可を総領事に謂ふ事になるであらふと考へられる、政治にも様々な遣方がある様に、衛生にも保健にも医療法にも種々なやり方がある。衛生にも保健にも医療にも衆と共に知つて行かうと云ふのが北西線病院の此度の計画である。
北西日本人会の病院建設相談
『聖州新報』 1924年6月13日
八日午後二時半開会した。会場はルイス・ガマ街の榎木エビ孝内大広間に於て、列席者は八拾名近く
来賓席に列せられたのはソロカバナ線の星名謙一郎翁及び前日本貿易のリオ支配人粟津金六氏であつた。伯人伯医としての名誉を病躯に担へるドツトル笹田正数氏も勿論席上にあつた。
開会の挨拶が上塚会長より述べられ、病院建設の主旨は他なし、お互ノロエステ在留者は此□の設立を望む事多年、自分去る伯国独立百年紀念の観光団より一部の助力を得て、イタコロミーの峯に計画をしかけたが遂に事は志と違つて成らず、時の到らぬものとしてあきらめて居た処、今年始めより内務省は三万六千円を在伯同胞に保健衛生の補助費として下附するに到り、是迠先覚者を以て任ずるお互がまだ此種のものの設置なきは甚だ慚愧に堪へず思ひ居たる処、幸にして此度吾等が友笹田氏が伯医を通過されたるに依り茲にお互の臍を固めトツトル笹田氏をノロエステ日本人会より招聘愈お互の病院建設に着手する事に今日御相談申上げる次第であります。
併せて茲に申上げる事は自分としては病院設立計画に、茲に白紙を持つて居る。諸君の御意見を充分に此白紙に印していただきたい。其上で一ツのものを纏めたいと覚悟して居る。二三の人々により結束、事を隠密裡に運ぶ事は、社会的公共事業をなすものの謹しむ上にも謹しむことと思ふ。何卒充分の意見を述べ合つて事を
次に星名謙一郎翁に何か御意見を…と求めた処、五十八歳と云ふ高齢であるも人間の成熟せる頑健な丈躯やをら立上り会場を一睨し次の如く述べられた。
私はソロカバナ線ブレジヨン殖民地に棲む本姓を星名謙一郎と申すもの世間では私を
今日の盛宴にこのジヤカレ迠が列席致します事に到りましたのも全く諸君が是拾年の苦節を通して来た独立独歩の賜であります。
由来聖市のお役人様方からは田舎の殖民者等は無能と見られ低能と取扱はれて居りました事は衷心遺憾に堪へないものでありました。虐げられたる人々の集り、我々は飽迄も自治の必要を痛感させられました。茲に於て吾々は此際病院も自治的にこれを建設し経営して行かねばなりませぬ。全く諸君は自治でやる…他力をあてにしてはなりませぬ。
是迠の困難なる拾年もそうであつたがノロエステ諸君の知識力は自治的に全部をなし、且充分にして余りあるものであります。
是迄の困難なる時代であつたら兎に角、今日は財力必らずしも豊でないまでも喰つて着て尚余裕ある今日である。内務省の下附金如きは此際ノロエステ諸君にとつては呉れようと呉れまいと何等の痛痒を感ぜしめないと信ずる。
諸君は此際彼の金の如きを決して「あて」にしてはならない。お互はやる可き事をやつてのければいいのだ。
下附金は先方より使用を申出ずるが当然で、当方より分与を申出ずる如きは拾年の苦節を保う独立自営今日を来たせるノロエステ在留諸君の決してなすべからざるもの。若し彼の金がなければやつて行けぬとあれば……止むを得ぬ、病院建設如きもやめて自治で出来るまで待つて居るがよい。
斯くてノロエステ日本人会仮常任幹事香山六郎氏は起て病院建設の賛否を出席者一同に問ひ、若し不賛成のお方があれば席を蹴つて出て行つて呉れ、それが立派なる事である。と述べ[、]議長に山根寛一氏を押し饗に箸をとりつつ病院建設の議事に入つた。議長は株案と寄附案を提出一同に諮つた。
株で出来るものなら株で行かうと言ふのがプロミツソン駅ピント組代表の栗野延吉氏を筆頭にして、次にリンス駅カンベストレ珈琲耕主農田源行氏、ビリグヰ駅日本人会副会長目黒静氏及本社主等であつたが、寄附でやらうと云ふ理想論を実行側は上塚会長其他各駅代表やリンス側の意向であつた。
三時間に亙る論戦の結果、議長は起立に問ひし処株案派の敗戦に帰した。
因って直に実行委員を会長より指名となり、次の人々により病院建設案が画せらるる事となつた。
ペンナ駅 古庄常喜
リンス駅 農田源行
〃 太田久次郎
〃 村本善太郎
〃 山根寛一
〃 藤永力蔵
〃 松原米次
グロイサラ駅 佐藤次郎
(不出席につき承諾を求む)
〃 森部数衛
プロミツソン駅 間崎三三一
〃 坂本留次郎
〃 鈴木貞次郎
実行委員会長 上塚周平
右拾三名である。
次に上塚会長は起つて吾々は衛生保健の側に茲にドツトル笹田正数氏を病院長として招聘する事となれると共に一面お互の財産事業の保健衛生の為め元日本貿易支店長粟津金六氏をノロエステ日本人会常任幹事に推薦せんと招聘せる事を述べた。
会員一同拍手無限の賛意を述べる。
次に粟津金六氏は自分対在伯日本人同仁会との是迠の経過及対総領事との経緯を約三十分に互つて述べられた。
議長は其結果として在伯日本人同仁会に対しノロエステ日本人会としての決議を出席者一同に諮りし処、別項[注 下掲]の如き決議を見るに至れり。
尚会としては書信を以て在伯日本人同仁会宛通知を発せり。
斯くて快談雑談裡に入り、充分の饗をつくして散会したのが夜の九時であつた。
星名翁は鈴木貞次郎氏と自働車にてプロミツソン駅の鈴木氏宅へ引上げられた。
[決議]
北西日本人会員は現在の組織及定款による在伯同仁会に加入せず
右決議す
一千九百二十四年六月八日
ノロエステ日本人会
同仁会創立事情
『日伯新聞』 1926年5月
▲前後二回に亘つて田付とサンパウロとの関係を詳述しておいたから、読者は略赤松総領事の拒否権使用の動機が那辺にあるかを推測し得たと信ずる、田付のことに就いては未だ書かねばならぬ面白い特ダネが大分残つて居るが、余りにクドイので此の辺で端折り、サテこれから赤松の拒否権使用の批判に移る。
▲拒否権使用問題を議する前に一通り同仁会の創立事情、定款制定の立法上の精神を説明しておく必要がある、これは赤松など皆目知らず、又文書にも残つて居ない、然しこれが明白でないと問題の核心が飛んだ所に外れ、勢ひ赤松も迷惑することになる、吾人は多少とも将来ある官吏に、あらぬ事で浮名を流させ度くない、成る可くハツキリした事実に立脚して反省すべきものあらば反省せしめフンゾリ返るに足る可きものがあればフンゾリ返へらせ度い。
▲今から三代目前の総領事藤田敏郎が申請しておいた在伯邦人医薬衛生費と云ふのがタツタ三万円ばかしであつたが大正十三年次の総領事斎藤和の時に送つて来た、これは内務省の移民保護費の内から捻出したもので実は在伯邦人が主題でなく、内務省の対内政策に基いたもので政府としては始めから真面目に在伯邦人の衛生問題などを考慮したものではなかつた、只移民の衛生にもこれ程金を出しておるぞと云ふ口塞ぎに過ぎなかつた。
▲然し金が来て見ると之を何とかせなばらぬ、領事館には差当つて名案もなく調査材料もなし速急にどうする事も出来なんだ、かと云つてそれから調査だ研究だとやつて居ては会計年度内に間に合はぬ、そこで斎藤は聖市の主なる邦人を招致して之れが使用方法を諮問した、これは斎藤ならずとも伯国智識の乏しい者なら誰しも此の方法に出ざるを得ぬ、即ち斎藤の採つた方法は当然過ぎたほど当然であつた而して議にあづかつたのが海興、日伯、時報、高岡ドクトル。
▲これも無理からぬことで人物の乏しい伯国邦人社会ではイザ事がある時に誰をどうしてみやうもなく素より権造八蔵では細工にならず。其辺でゴロゴロしてるバガボンド[注 のらくら暮している人]を何十人狩り集めてみても在伯邦人の医薬衛生などと云ふ重大問題の解決は思ひもよらぬ、従つて批評の位置に立ねばならぬ吾人までが引出されたと云ふ変則を生じたのも止むを得ない。
▲これより先故北島ドクトル、青柳郁太郎、高岡ドクトル、我々など此国で仏さんにならふと云ふ永住決心者の間では、セメテ伯国に一の日本病院をと云ふことが可なり研究されて居た、事もとより大金を要する事業なので、一会社一個人の能く手出し得る問題でなく、之を如何にすべきかに付いては青柳氏を初め心ある者の間では可なり頭を悩まして居たものである、其所へ丁度内務省の金が来たツマリ在聖識者の予てから悩んで居た問題に一つのキツカケを与へて呉れた訳である、
それでは此際一の団体を組織し素願の病院建設に向つて礎石を下さう、而して内務省の金も団体に於て運用行使し、将来の大目的に向つて進まうと云ふことになり、茲に在伯日本人同仁会なるものが生れ吾人も亦不敏ながら創立発起人の一員として参加した。
▲当時創立委員間の申合せは内務省の金など一年限りか三年続くものか将た永久に続くものか判らぬから、会は左様なことに左右されぬやう、たとへ補助金の下附が切れても会は何所までも存続させ、初一念の病院建設に努力しやう、決して補助金行使の為めのみの会でないのだから之れが為には応分の犠牲を覚悟せねばならぬと云ふにあつた。
▲同仁会出生の動機にはこうした崇高な而して健気な決心があり、微塵も官金をどうのこうのと云ふ其辺の下らぬ連中が猜疑するやうな寒しい根性は誰れも持たなかつた、今でも誰も持つて居ない、寧ろ反対に補助金の下附があらふがあるまいが、一度び団体を作つた限り、会そのものの力で、例へ血と汗とを出し合つても初一念を貫き、日本人の伯国に於ける文化事業として是非とも病院の一つは建てねばならぬと云ふにあつた、従つて会員も成る可く此種の事業に理解あり同情あり尚且つ処分の負担に堪える者でなければイケぬこと勿論であつた。
▲会費を十ミルとし無暗と押付けがましく勧誘せなんだのも此の意味からであつた、一部では高い高いとコボして居る会費も実は安きに失するので、本事業の性質から云へば月三十ミル五十ミルを納めても尚足れりとせぬのである、只如何せん在伯邦人の経済力は月十ミルの負担に堪える者すらも少く、偶々負担に堪え得る者あつても本事業の性質を理解し得る者は至つて乏しいのは事実である、其辺の反同仁会として楯突いてる手合に自己の心を以て他人を肘度するか私怨を転嫁すると云ふ迄であつて、殆んど一として取るに足るものがない。
▲世間では補助金あつての同仁会と心得、これが無くなれば明日にも潰れるやうに思つて居るが、何ぞ知らん会創立の精神は何時補助金が切れても構はず依然として根気よく運動が続けられるやうに仕組んである、此の為めに日本の大きな商社の賛同援助を得てあり、少数ながら理解ある負担に堪ふる会員で支へて居る、若し補助金行使の為めのみの会だとするなら何も正金本店や郵船や商船其他の助力を求むる必要なく、官吏をして勝手に処分させ(赤松の希望はそれである)て差支なく、別に会などにたよる必要はないのである。
▲同仁会はこうした精神の下に生れた、此種の半永久的の文化事業は理解あり同情あり尚且つ負担に堪える者でなければやつて行けぬ、無理解の徒を何百何千集めて見ても、邪魔にこそなれ何一ツ役に立たぬ、にも拘らず何故か赤松は無責任なバガブンドの言を聴き、遮二無二会費を下げて無理解の徒に迎合しやうとした、それが理事連の反対で中途半端に折れ、辛くも二枚舌の汚名だけは免れたが、これが為め同仁会を堕落させ将来にゴタゴタの種を蒔付けた。
▲春秋の筆法に従へば同仁会を殺すものは理事連の不敏ではなく実は赤松である、在留邦人のため将又伯国の為め日本人の文化事業の出現を妨げるものは亦赤松である、吾人は彼の拒否権使用を糾弾する前に、先づ以て同仁会創立の主義精神を蹂躙した罪を鳴らさねばならぬ、赤松或は云ひぬけるであらう。俺は創立にたづさはらぬから会の主義精神など知らぬと、若しさうだとすると『俺は伊藤公の憲法制定時代は子供であつたから立法上の精神などは知らぬ』と云ふと同じで、苟くも法律の一ツも噛つたと云ふものにはテンデ問題にならない。
▲同仁会の定款制定も如上の主義精神に基いたこと勿論である[、]而して発起人に於て慎重審議練りに練つて作り上げたものである、只補則として帝国領事の拒否権使用を制定したのは、今の所同仁会の金の大部分が政府から出るに拘らず何等監督権の無いのは不合理だと云ふ所から斎藤領事の懇請を容れ、補助金使途の監督、並に補助金の使途を乱るが如き憂ある理事の任命を拒否すると云ふ、官金の使途に関する限られたる監督の意味の拒否権制定であつて、断じて田付が嫌ひだからとか赤松がすかぬからとかの私的感情で左右すべきものでない、これは厳として明かな立法上の精神であり創立当時も今日も少しも変りはないのである、拒否権があつたから使つたと云ふのでは三歳の子供にも劣る行為で、帝大出の法学士にはチト映りが悪い。
▲赤松は来任日尚浅く、まだ能く同仁会の事情を知らぬやうであるから吾人は茲に改めて説明しておき、一は読者の批判に便ならしめ併せて赤松の『存ぜぬ知らぬ』の遁路を塞いでおく。