「国立移民収容所の一週間」 『神戸又新日報』 昭和3年3月13日〜19日
国立移民収容所の一週間
シガーの煙を輪にふき
美女携帯の青年紳士
洋行気取りで自動車の横づけ
『神戸又新日報』 昭和3年3月13日
▲第一日―午前(身体検査)▲第二日―午前(第一回注射)▲第三日―午前(講習、二時間―一般的心得、特に外国に於ける邦人の心得、伯国事情特に歴史、社会事情、国民性及学業並に移民事情)午後(講習、二時間―ブラジル語及び衛生講話)▲第三日―午前(種痘)午後(講習、三時間―女子裁縫)▲第四日―午前(代表者会議)午後(荷物整理)▲第五日―午前(第二回注射)午後(渡航費計算)▲第六日―午前(家長会議)午後(講習、二時間―ブラジル語)▲第七日―午前出発
『せまい日本にや住み飽きた』ところからコーヒーのかほりも高き南米の天地―ブラジルに自由を求める人たち―来る十七日神戸港を出帆するハワイ丸でブラジルへ渡航する六百人あまりが日本で始めて出来た国立移民収容所へ収容されて、旅立つまでの一週間を一人前の移民として仕立て上げられる日常生活である。
第一日―十日は折悪くも雨ふりだつた、雨の中を子供を連れ、荷物をかついで、移民収容所前のアノ阪道は嘸かし辛からうとの思ひやりは無駄…いづれも堂々自動車で乗り込んで来たのに係員は先づアツト驚ろいた
中にはリユウとした洋服を着込んで悠々シガーをくゆらし美人の妻君を携帯…といふまるでスツカリ洋行気分の青年の顔もみえた
体格検査がすむと、彼等は収容室へ入れられた、一部屋十二人づつの収容室五十が忽ちにして一杯つまつた、賑やかな光景ではある
行李の中から取り出された目覚まし時計が鳴る。赤ン坊が泣く、着物を着換へるお父さんの側らを始めてベッドに上つた嬉しさから飛び廻る子供はお母さんから激しく叱られた
昼飯時が来た、一ペンに四斗たける蒸汽釜に二杯と一斗…九斗の御飯がお櫃のリレーを演じてカラになる、ごうぎなものだ、牛肉と馬鈴薯にねぎのたきあはせ―上等のおかずである、ところか、牛肉と馬鈴薯とを一緒に食はぬ地方の人が居たから厄介だ、『何でもよいからほかのおかずとかへてくれ』と賄方を困らせた火事場のやうな騒ぎのうちに時は進む…
係員も文字通りの転手古舞ひ、何しろ六百人が老も若きもの集まりだからたまらない、「赤ン坊が熱を出しましてね…」と診察を求める、長嶺さんが聴診器を当てると肺炎だ、それ氷だといふ遑もなく歯いたを訴へて来る子供もあり長嶺さんは引張りだこだ 眼がまわらないかと傍の目が心配する…とうとうひる飯は食はなかつたさうである
雨降りな[の]で廊下の賑やかなこと、子供等はすぐ友だちをこしらへた二階では女の子が鬼ごつこを始めたかと思ふと、三階では男の子がキヤツチボールをやり出した。マラソン、レース組もまぢつてキヤツキヤツキヤツキヤツと騒いでゐる幾百里を隔てた南米の空へ旅立つものとは思はれない、天真爛漫さである、各階別の入浴がすんで、明日の注射の準備ができた、夕飯のリンが鳴りひびく、かくて―第一日は暮れる
老幼や男女も無差別に
腕に刺される注射針
南米事情を繙き論戦する単独移民
『神戸又新日報』 昭和3年3月14日
第二日―明けやらぬ午前四時ごろから子供が廊下をバタバタと走り廻るのに暁の夢は破られた、朝日がキラめくころ大ていは起き揃つた、輝く陽光をうけてバルコニーでは子供が嬉々として戯れてゐる、のどかな春の情景である。
午前九時からチブス予防の注射が始まった、七十七歳のおばあさんも生れて三ヶ月の赤ん坊もみんな長嶺医官から左りの二の腕へ痛い針をチユツとさされたのである、注射のあと左り肩からスツポリ露出したまま腕を上げもやらずおろしもせず、あやつり人形そつくりな恰好をして泣き叫ぶ子供もあつて一しきりにぎやかなコーラスが各階を通じてつづけられた。
注射は軽微なチブスの症状を起す…熱が少し高くなるのである、そこで―午後は休養といふわりになつてある、ところが寝室に転がつてゐるといふ人は一部屋で二三人づつを一見するぐらゐ―。子供を連れて町へ買物に出掛ける主人、赤ん坊を背負ひながら洗濯にいそしむ主婦、南米事情を繙いて口角泡は飛ばす単独移民たち―色とりどりではあるが、何れも素晴らしい元気の所有主ばかりだ、流石、故国を放れて、未知の南米に天地を求め雄飛せんと決心を固めた人たちの集まりである、
第四十六号室の山口善太君、小野幸造君の両君を再度の渡航者と知つたので漫談を試みる、両君ながら青春の十余年をブラジルで刻苦勉励、渦重な労働を忍んで今日漸く相当な地位まで進んだといふだけに色あくまで黒く骨組みもガツシリしてみるからに強健な、からだである『労働はエラいですよ、朝は日が上らぬ間から、夜はお月さまが出るまで働きづめです、大がいは参りますがね…然し、三年もミツチリ働けば金は残りますよ』と交々にブラジルを謳歌した
鐘が鳴つても集りが悪い
所員が狩出して講習
馬耳東風で居眠りする者もある
『神戸又新日報』 昭和3年3月15日
三日目は講習日、ブラジルをパラダイスと心得て、南米に行きさへすれば、ひとりでにふところが膨らむやうに考へてゐる人たちが移民の中にはかなり多いやうである 新らしいトランクを買ひ込んだりハイカラな婦人帽を注文したり、ホンコンの寄港では籐椅子を船の中へ積込まう…と楽しい夢を追ってゐるてあひにとつてはブラジルの天地は決して楽境ではない、文字通り堅忍不抜の精神がブラジル、未開を開く鍵だ、鍵には貴い血と汗の労働がにぢんでゐるといふことを前以て一通り頭の中へたたきこんでおくことだ、ブラジルには宝の山はない、荒蕪の大原に立つて―ガツカリ悲観しないやうに予め教へて置かうといふのがけふの講習である
九時、リンが鳴つた、講堂に集まつたのはたつた五十人あまり、これではいかぬと監守サンが狩り出しに各部屋をしらみ殺しに廻つた 故国を放れる淋しさに、深夜そつと察出して朝になつてそつと帰つて来たといふ不所存者がグーグー寝込んでゐる。中には荷物大事と講習をそつちのけに行李をヒツクリかへしてはつめかへてゐるのもある
講習は始まった。講師の中島さんはブラジルのコーヒ園について話を進めた
諸君がブラジルへ行つて先づ働らくのはコーヒ園だ、ところがこの仕事は実に辛い設備が悪くて労働もえらいわりに賃金はやすい、然し、コーヒ園を重要視しなければならぬ二つの理由がある、一はブラジルの事情に通じることで、一は独立資金を得るためである
と、講習をうけてゐるものは泣いても笑つてもブラジルへ行くときまつた人たちの集まりだもの……あちらの模様をウンとこき下す中島さんは人が悪い青くなつて『こんな筈ぢやないが…』とため息をつく人もみうけられる、良薬口に苦しで居眠つたり、浮はの空で聞き流してゐる者もある。
午後は田口講師の衛生講和―これ亦集まりが少かつたので、狩出しの後開かれた、ブラジルの風土病やマラリヤの予防に関する話があつて
「日本人は平地へ家を建てたがるが、平地は川に近くマラリヤが多い少々の不便は忍んでも丘へ建てなさい」
と一々実際の例をひいて日常生活の説明もする、(つづく)
ステツキはどう振る
珍問に面喰つた中嶋講師
発音の稽古に引出された猫の鳴声
『神戸又新日報』 昭和3年3月16日
第四日の種痘は医官をはじめ所員が頭痛の種、子供が治療室を覚えこんで、注射の痛いことを知つたからだ、子供たちは又しても注射かと思ふ、女房が綾して、いとしい子供を治療室まで連れて来たが子を思ふ親心はどうしても中へ入れない、やつと、だましつ、すかしつ中へ連れこんだが冴えわたつたメスをみて女房は再び尻込みをする、それを長嶺さん、心を鬼にしてメスを執つた、気の毒ながらとんだにくまれ訳である、あはれ恐い先生と敬遠され、子供からの憎まれ役を一人で背負ひ立つた講師の中島さん、珍らしく朝早くから顔を見せると、不思議にお客さんの絶え間がない、移民諸君の『質問』に襲はれづめなのだ、その尋ねるところは
「ステツキはどう始末したらよろしいでせうか」「刀は持つて行けますか」「金はどうして日本へ途るのですか」「子供の菓子はどんなものを持つて行けばよろしいか」「雨合羽の用意は要りますか」々々
念の入りすぎた質問である『麦藁帽子をどこで買へばよろしいでせう?』に至つて、島さんはハタとつまつたが、すかさず『香港あたりで買つたらよろしからう』とうまく切りぬける
「辞書はどんなのがよろしいかと尋ねる者が現はれた、午後のブラジル語の講習に備へるのであらう、講習は始まる、こんどは人の集まりが極めてよかつた ブラジルは礼儀が正しい国と聞かされてゐるので、挨拶の仕方ぐらゐ知つてゐなくては日本男児の威厳にかかわるといふわけだ
『アー、ペー、セー、デー……』といろは……から教はつた、発音のお稽古である、ところが『アウン』といふ発音が誰にも出来ない『アン』『ウン』など……急ぎの物にならない、困惑した中島先生が『猫の泣き声ですよ』といつたのでやつと分つたらしい、『ニヤウン』ですかとシヤレてもみたい
『講習時間は静粛に……』との貼紙が講堂にかかげられた、ところがチツとも静粛でない、乳を吸はせて寝かしつつ講習を受けてゐた女房の赤ン坊が泣き出だす。小便に出入する子供に附き添のおやじ……など立つたり、座つたり、しまひに子供は)後の方で鬼ゴツゴ[ママ]始めたのに流石の中島さんも口アングリ
あんまり外泊するものが多くなつたので『外出禁止』と書いた立札が出口にかかげられた、若い人は脾肉の歎に耐えぬものがあるらしい、明笛や尺八をもて遊んで夜は更かされる (つづく)
ボンデア・ノアデケエー
変な呪文がはやる
と思つたらブラジル語の応酬
『神戸又新日報』 昭和3年3月17日
『ボンデア』『ボンデア』といふ言葉が五日目の朝は廊下の至るところで交された、『お早うさん』の挨拶である子供は『おつかあ』を捉へて『マンエ』と叫ぶ、記者はウツカリ移民君の足を踏んだので『失敬』と云つたら、『ノアデケエー』(どういたしまして)とやられた、早くもブラジル語が使ひ出されたのである
午前の代表者会議つて?どんな会議を開くのかと思つたら、何のことはない、各家長のうちから府県別に一人づつを選んだ十三名を集めて、渡航に関する一般の注意を与へたのであつた、海外興業の森島さんは荷物の拵へ方から話し出した『荷物はブラジルへ着くまで要らぬもの』に赤札、『船で時々必要のあるもの』には青札を附けて会社へ預け身の廻り品は各自で持参すること、絹物や薬品は必要外は持つては行けぬ、凶器も持参せぬがよい、サンパウロの収容所は設備が悪いから蒲団は持つて行くこと、毛布の準備も必要である[、]荷物の中へマツチを入れて置くと火災のおそれがある、寄港地の香港やシンガポールは親日であるから上陸出来るが、ケープタウンでは猛烈な排日が起つてゐるところだから上陸せぬがよい、お金は為替の変動などでややこしいから海外興業であちらへ着くまでお預かりする、但し必要なだけは出して上げる……と実にこまかしい点まで注意するものだ
すると今度は商船の武山さんが『印度洋を通るときは暑いので汗をかく、子供のためにてんかふんの用意が肝心である[、]船中で一番大切なのは生水だから、これの乱費は絶対に謹んで貰ひたい、従つて子供のおむつの始末に困られることもあらうから小便袋の使用をおすすめする、妻君の寝巻姿はともすると風紀を紊すもとで御注意ありたい、また船中での下駄履きも困る』等々と船中での注意を述べ
こまかしい注意は代表者から各家長に話された、女房が『あんた、これや青札ですよ』といふやつをおやじ『いや、こんなものは赤でよい』と報ゐる、『だつて、着換へが要るぢやありませんか』と女房は思ひやりが深い、家庭の円満ぶりを発揮して午後の荷物整理も漸く出来上つた
所員が「宿屋商売つてむつかしいものだ」とコボす、コボす筈だよ奇行続出だ、ふき出される所作が起つて大騒ぎをやらかすからである、ある三十男が「どうも洋式便所は具合が悪い、第一ズボンをみんなぬがなくちや用を果せない」といふので「どうしてだ」と尋ねたら、うしろへもたれるところを日本便所のきんかくしのつもりでやつてゐた……反対に向いてやつてゐたのである
また四十がらみの女房は用便のあと『この糸を引いて下さい』と書いてあるので引張つたら水が出た、ビツクリして手で押へると水は止まつた、ナール程と感心したがこれは洗
美女の目玉が紛失
探しに来たモダン書記さん
片目と聞いてバツの悪い納得
『神戸又新日報』 昭和3年3月18日
第六日―午前中に第二回目のチブス予防注射が行はれる。二日目にやつた第一回の注射で大分熱を出した人たちが多いので、皆がいやがつて部屋から出て来ない。殊に子供たちは、またこはいおつちやんに針をさされるといふので、母親の膝に死噛みついて離れない[。]なだめつすかしつ係りの人々がかり出しにかかつても容易に姿をみせぬのでとうとう『注射せねば船には乗せぬ』とおどしたら、渋々ながら屠所に引かれる牛のあゆみのやうに、廊下へぞろぞろと列をそろへて、先を譲り合ひながら注射室へ―。
午後は海外興業会社の社員が出張して来て、渡航費の計算をやる、収容所にうつる前に、海外興業会社の厄介になつてゐた人たちの宿賃の計算や、其後の諸雑費が細かく算盤ではぢかれて呼び出された家長がそれぞれそれを支払つてゆく、次いで渡航費の支払ひである。移民申込みと同時に払ひ込んだ保証金の五円をこめて、一人につき二百円也、十二歳以下七歳までは百円[、]七歳以下三歳までは五十円、三歳以下は無料……の割で海外興業会社に支払ふと、切符の買入れからシートの決定まですべてをちやんと引受けてやつてくれる、そして皆は、素性調査書と健康証明と写真とに、旅券を添へて会社の手でブラジル領事館に差出して貰つてあつたので立派に査証も済み、いつでも渡航出来る準備がここに整つたのである『さあ、ゆけるぞ』の声が所内の部屋々々に溌溂と反響した。
ところが、査証を受けるためにブラジル領事館に差出した写真のなかに、二枚だけ妙な写真があつたといふので領事館から若くつて馬鹿にモダーンな書記カルロス氏がその本人を見た、といつてやつて来た、一枚の写真は眼の片方がなく、一枚はうつりが悪いといふのである、で調べたところが一人は片目であつたのと、一人は顔半面が火傷のあとで引ツつてゐたのとで若い書記さんは納得し、バツの悪い笑ひかたをして引揚げていつた。―夜は慰安をかねて活動写真の映写である。第一は『移民が神戸を出帆する情況』で、あと一、二日で出発する自分らのことを連想して拍手喝采が起る
移民たちが船に乗込む場面になると、自分らと同じやうに漫画のような洋服姿の人々を眺めてくすくす笑ふ声がする「第二に輸送船がサントス港入港」からかの地の収容所やその食堂などがうつり出すと、今ゐるこの収容所と比較して「こつちの方がええななどとささやく小声が聞えて来る。第三には「コーヒ園の生活状態」が展開する。皆はコーヒーの実を千切つて袋につめ込む様などを眺めて、血を湧かし肉を躍らせてゐるやうに激しい拍手が勃発する。第四『独立の生活』で悠長な日常生活の模様を眺め、にこにこした顔つきで平和な楽園の朝にあこがれをはせる。終つて「運動会の日」と云ふ車夫の子を主材とした貧と涙と愛の映画をみて、皆一様に涙をしぼつた (つづく)
十九男と二十四女の
恋の道行で大団円
出発間際に紛れ込んで涼しい顔
『神戸又新日報』 昭和3年3月19日
午後、東京の上智大学教授でローマ法王特派、移民保護代表のヘルマン・ホイフエルス師がわざわざ来神した。そして『ブラジルの宗教』について約一時間にあまる講演をしたところ、移民諸君スツカリ魂げてしまつた。お話しの内容に驚いたのではない、紅毛碧眼のヘルマン氏から流暢な日本語で話されたからである。移民諸君の大ていは、西洋人の話しは英語にきまつてゐると思つてゐたのだ。
中島さんの最後の講習―ブラジルにおける本邦児童の教育についての話は大へん移民たちを喜ばせた、『ブラジルは国際私法による属地主義である、即ちブラジルで生れた子供は皆ブラジルの国籍に入る、従つて、どんな出世でも出来るのだ[、]ドイツやイタリーの移民のうちには既に上院、下院議員に当選してゐる者も少くない、諸君も子弟に完全なるブラジル式教育を施し、進んでブラジルの学校に学び大いに我が国威を発揚せられんことを祈る』と結ぶや、彼等の眼は希望と光明に燃えた。
あくる朝が早いので門限を午後八時にして八時半に点呼をとつたところ、二十四の沖縄女と十九のこれ亦沖縄男の姿が見えない、十時[、]十一時、十二時を過ぎても帰つて来ない、サア大変である、係員の田中君は眠い眼をコスリながら『マダか、マダか』と監視に当り散らす、とうとうその晩帰つて来なかつた二人ははあくる朝、出発間際にヒヨツコリ顔を現はした、そしてドサクサにまぎれこんで涼しい顔をしてゐるところを係員から発見、大眼玉をくらはされた、美はしい?恋の道行を演じてゐたものとわかつた。かくて―移民収容所の第一回収容は恋の実を結んで幕を下した