中西武官の第二世教育問題への発言をめぐる論争

A disputa surgida a partir das declarações do oficial Nakanishi a respeito da educação dos nisseis

Controversy over remarks of military attaché Nakanishi about the problem of Nisei education

ブラジル駐在陸軍武官の中西良介は、第二世の教育問題について積極的に発言し、在留同胞から熱烈な支持を受けた。特に1938年(昭和13)10月10日にサンパウロ市内の大正小学校で行った講演(下掲「支那事変と精神力」)での言葉に、多くの在留邦人は、ブラジル社会における日本人排斥の動きが強まる中で、溜飲を下げる思いがしたという。ところが、その中西が翌年正月に、邦字紙上で「和魂伯才」など陳腐だと、文教普及会の路線を批判し、よきブラジル人になれというような、全体として外交的な配慮が目立つトーンを抑えた談話を発表した。これに対し、邦字紙上で「変節」だと論争となった。
ここでは中西の発言と弁明および論争当事者とは別の視点から論じた三浦鑿の論説を掲げる。

支那事変と精神力(抜粋)     中西良介


『黎明』 昭和13年11月号 <移(一)-Z73>

……日本は神国である。このことが戦争にどんな風に現はれてゐるかお話し度いと思ひます。私は神国日本男子であることを片時も忘れません。恐らく皆さんも、神国日本男子、女子であることはわすれられますまひ。皆さんは今ブラジルに来て居られるブラジルに子孫をいよいよ繁栄させようと思つて居られるでせう。

 なる程これからは日系伯人が多くなるが、その皆さんの子孫は日系伯人と云ひはしても決して伯人ではありません。ブラジルで生まれたからブラジル人。これは法律の問題で、その法律は人間が勝手に作った約束に過ぎません。その法律にしても神様のやうな人が作つたものではなく、我々同様な人間が勝手に決めたことで、人間の力でどうすることも出来ない血、皆さんの子孫には何時までも日本人の血が通つている以上立派な大和民族であります。

 人間お互の約束ではない切るにも切れず、捨てるにも捨てられない血の繋りがある以上は未来永劫大日本帝国臣民であります。天皇陛下の赤子であります。私は皆さんを神の光の遠端としてブラジルに来てゐる者と解します。神の光が、人間として現出してゐるのであると思ひます。我が国は神の国なる故に危機に臨んで必ず天裕があります。……


邦語教育問題に対する頂門の一針 中西武官は語る


『聖州新報』 昭和14年1月1日

(リオ二十八日同盟)移民法実施により来る同胞教育界受難に端を発し文教会が愈々その教育方針の大改革をなした事は二十万同胞関心の焦点となつた観があるが[、]記者は右に関し過日聖市邦字新聞紙上に発表された文教会主催教育会々議関係の記事を根拠として[、]二十七日帝国大使舘にわが陸軍の代表にして常に大乗的見地より日伯親善政策を高調し[、]融和問題(同化問題)に就いては公平無私の見解を有せられる中西武官大佐を訪問しその個人的感想を求めると[、]大佐は例の如き忌憚なき調子で左の如く語られた真に在伯同胞教育問題の根本義に触れるの感がせられる

中西大佐談 目下在留同胞の教育問題で聖市に於て教育会議が催されて居る様だが総領事はじめ教育界の指導的地位に在る方々の在伯同胞に対する御心遣なり御苦心は一方ならぬものと推察される、云ふまでも無く教育問題は在留同胞の為めの問題で無く伯国の問題である[、]

 伯国民となり骨を伯国の天地に埋めんとの決意を以て渡航されて居る同胞が[、]優秀善良なる伯国民たらむがため伯国語以外に外国語を修得する必要あるは丁度日本人が日本に於て英語や独語を修得すると同然である、伯国民は広く智識を世界に求め自国の文化を進展せしめる為めに日本語のみならず英語も仏語も独語をも修得せねばなるまい、それは丁度日本が明治維新後盛に外国語を研究し今日の日本発展に貢献した様なものだ[、]伯国当局が日本語教育に諸種の制限令を出して居る様だがその動機に就いては弁りかねる

 何れ伯国も前述の如き趣旨に基き外国語の必要を痛感し将来必ずその緩和令が出る事とならう、リオに於て私の接触して居る軍首脳部方面でも大体私と同じ見解を抱いて居る様だ、若しも伯国当局の今回の日本語教育廃止の動機が排日的感情より来たものとすれば[、]在伯帝国官憲と言はず在留同胞と言はず極力その認識不足と誤解の一掃に努力し[、]日伯関係はその基調が両国の誠意に存して居る事を互に再確認するにいたらねばならない、

 伯国民中の一部にも排日的運動があるとかの噂を耳にして居る、彼等の唱ふるところは日本が伯国に領土的政治的野心があるかの如く宣伝して居る様だが[、]私は帝国の軍人で今日まで相当軍部の枢要地位に居た事もあるのだが[、]未だ嘗て日本が伯国に対してかかる野心のある事を耳にした事も無ければまたそんなはずもないのだ、私は賢明な伯国民がこの種の宣伝に乗る様な事無く殊に伯国当局は絶対に無いと信じて居る、然し縦ひ一部と雖斯の如き宣伝をなし或は斯の如き事を考へて居る伯国民がありとすれば甚だ日伯両国親善上遺憾な事で[、]是非在留同胞と共に協力してその誤解を是正せねばならぬ

 去二十三日及二十四日の聖市発行の邦字新聞の記事によるも文教会の会合では随分と熱が上つて居る様だが皆さまの御熱誠には私と雖も深く敬意を表するに吝でない[、]ただ記事に対する卒直なる所見を述べると教育の指導的地位にある方々の言葉中合点の行きかねるところが沢山ある様である[、]私は帝国陸軍代表たる立場からで無く新聞の読者の一人としての立場から二つ三つ気のついた点を述べ在留同胞諸君と共に今一度考へ直して見度い様な気がする

第一[、]教育問題の会合を遣つて居る事自体を新聞に喧しく書き立てる事が伯国民に対してどんな影響を来すか[、]其の結果は在留同胞の利益となるか不利となるかと言ふ事を深く考察して見る必要はあるまいか

第二[、]伯国はどこまでも伯国で日本でない、他国である厳然たる独立国である、其処に生活して居る在留同胞である、而して伯国民となり骨を伯国に埋めんとの決意の許に渡来して来られた同胞であると思ふ 換言すれば第一世の皆が皆迄も左様でないかも知れないが其子孫たる第二世以下は純然たる伯国民となるであらう[、]

 果してしからば在留邦人は日本と言ふ実家あり伯国と言ふ養家に養子に来た様なものであるから[、]養子たるものは実家に対する態度と養家に対する態度とを判然区別せねばなるまいでは無いか、養子が養家を捨てて実家に居ると同様の身振りや心懸動作をしては養家の気に入らぬ事は当然である、実家で享けて来た美風美質は飽まで保持増進して養家の進歩を来さしめんとする事は当然であるが、一方養家の風俗習慣規定等には精神的に服従し之に合致する様にせねばならぬのではないか、若し養子が養家の気に入らぬとあらば絶縁して実家に戻るより他に方法はあるまいではないか、

 また実家が養家に干渉し得る程度には自ら制限がある、実家が養家に干渉がましい事をすれば両家が不利になるのは道理ではないか、養子たるものの身は辛いのではあるが養子の心懸け手腕によりては又どの様にでも両家をもてなす事が出来ると思ふ若し然りとすれば日伯両国は親類である、しかも両家の親善増進は主として養子たるものの地位にある移植民諸賢に責任があると言ふ訳になるのではないか、元より実家の戸主も養家の戸主も相互の親善増進には種々努力せねばならぬ事は言ふまでもない

第三[、]「和魂洋才」なる言葉を真似て「和魂伯才」を以て教育のモットーと為し「完全なる日本人」を作り度いとの事であるがこの点私には頗る合点が行かない

 私が説くまでもなく無く「和魂洋才」なる言葉は我が国の鎖国時代にある漢学者の頭脳から割り出された言であるがこの言葉は明治大帝の五ヶ條の御誓文によって具現化された観があり、その結果わが国民が人類史上嘗て見ざる進化国民となつたのである、併し乍ら右の「和魂洋才」なる言葉も舊時の日本に当はまつたとしても日本が現在の如き国際的地位を獲得し真に名実共に世界一の大国民となつた今日に於ては全く陳腐極る言葉となつて了つた、現在の日本人は飽くまで「和魂和才」で行かねばならぬのである、

 従つて完全なる日本人を作る事をモットーとするならば、「和魂伯才」では大いに物足らぬはずである、と言つて決して第二世が「和魂和才」で行かねばならぬと云ふ訳ではない、ただかかる不合理極る言葉の使用を咎め度いのである、申すまでも無く教育なるものは人工的よりも環境より受けた教化なるものが遥かに大きい感化を与へるものであるから真の日本人は日本の如き環境に於てのみ作り得るので、伯国の如き環境にありて真の日本人を作らう等と言ふ事は誤である

 今や世界は挙げて民主々義と全体主義の闘争裡にありこの風潮は今後益々瀰漫する傾向にある、特に過般のリマ会議に於て露骨にこの種問題が論議されて来た様な折柄[、]真に大乗的見地より日伯関係の向上発展に思をいたすものは飽くまで慎重にして厳正なる態度を以て事に処せねばならぬのだ、教育関係者は特にしかりと言はねばならぬ

 私の考では伯国に於て若し日本人が飽くまで忠良なる伯国家族の一員として行動するならば排日問題等は起るはずは無く[、]また仮に起つても何等怖るるに足らぬ人間正義の前に何をおそれる必要があるか  以上


中西武官 声明書に対する反響に付釈明す


『聖州新報』 昭和14年1月10日

(リオ七日同盟)文教会教育会議の新聞記事に対する中西大佐の感想がその主旨に於て大部分の有識階級並その他方面に於て相当の共鳴を得居るにも不拘猶一部方面に多少の誤解を抱ける模様なるに鑑み記者は六日帝国大使館に仝大佐を訪問し、輿論の趨勢を伝へ大佐の回答を求めた、左は記者と大佐との問答の要旨である

記者 極く一部方面では貴下が所感を新聞紙を通じて発表した事実に不審を抱いて居る様である

大佐 仮りにもあの教育会議に関する邦字新聞の記事が伯国側に知れる様な事があらば一体如何言ふ結果を招来するか、わが対伯移民の運命にも関す可き重大結果が現る可き事は云ふまでもあるまい、最近移民問題に就いて諸種の流説が行はれて居る折柄、特にこの感を深ふするものがある、僕が敢て僕の個人的所感を併行的に発表したのは万一に対する準備に過ぎない、若し以前の記事が伯国当局に知れた場合[、]当局者たる僕等は何と之に答へ得るか、教育会議主催者方面を攻撃しよう等と考へた訳では決してない

記者 貴下の過日の御所感主旨と、大正小学校に於ける先達つての貴下の御講演主旨との間に相当のひらきがある様に見て居るものもある様だがこの点に就いて御釈明願ひたい

大佐 僕はあの講演と今度の所感との間に相違があらう等とは毛頭考へて居ない 

 一体同一の物を観るにも観る者の位置によつて見え方が違ふものじやないか、又同じ事柄を云ふにも主観的に云ふ場合と客観的に云ふ場合とある、従つてそれによつて表現の仕方の相違は免れないものだ

 大正小学校に於ける講演はその主題が日支事変を中心として戦場の事を述べたので飽くまで日本を主観としたものであるし、聴講者は日本国民であるとの主観で話したまでである、伯国との関係等は全然顧慮する必要のない事を話したのだ、

 ところが今度の教育問題は問題が大いにその性質を異にして居る、大いに法的方面を顧慮せねばならぬのだ[、]問題自体が日本主観許りでは行けない性質のものじやないか、伯国の宗主権下に於ける問題でありその宗主権下に於て実質的成果を挙げねばならぬ実際の問題だ[、]単なる戦争談ではないんだ[、]飽くまで在伯同胞子孫のための実際問題である、伯国民となれる方々の問題である、日本へは帰らず伯国に骨を埋めんと考へられる方々の問題である、彼此混同は御免蒙り度い

記者 大正小学校講演中に血は血であり末代までも大和民族である云々、と述べられた点に就いて御説明を願い度い

大佐 あの講演の際「皆さんは大和民族であり天皇陛下の赤子である帝国臣民である」と述べた事は事実であるがその点は前にも述べた様に、帝国を主観として云ふ場合の事である、伯国と云ふ事を顧慮する必要のない時はそうなのである、天皇陛下は東京に在しまし伯国に居られる同胞を赤子と思召になり如何して居るかと日夜御軫念遊ばされて居るのだ、全く在伯同胞は陛下に対しては赤子である 

 ただ伯国に於ては伯国の国籍を有し伯国民となつた人々は法的には即ち日伯国際関係上の問題として取扱ふ場合には伯国民として取扱はねばならないのだ、伯国を対象とする法的問題を研究する場合に於ては帝国臣民として取扱ふ事は出来ないではないか、しかし講演の場合にも述べた如く法と言ふものは人の作つたものである、時と所の如何を問はず絶対的ではない、伯国民となれる人でも日本に帰られ日本に国籍を有する様にならば名実共に帝国臣民である、僕は彼是理屈を言ひたくはないが要は伯国民となられた人々の子弟教育の実際問題を如何様に取扱ふ事がより大きい効果をあげ得るかと言ふ事を伯国宗主権下に於て具体的に研究する必要ある事を同胞諸君と共に考へて見たかつたのである

記者 教育会議に関する新聞記事は会議の結論と云ふよりも会議中の一場面と見られる様だが

大佐 同感である、恐くは日本を主観として考察されたホンの一場面の事が発表されたものではないかと考へられる

 兎も角も僕が新聞を通じて所感を発表した目的と精神を汲み在伯同胞子孫の為め個人的感情等は之を放棄し虚心坦懐に而かも真剣に相共に協力し実質的成果を挙ぐる事に邁進したいものである、万一新聞に発表したために迷惑を懸けた事があるとすれば日伯両国親善の為め又在伯同胞子孫のため大乗的見地より許して貰ひたい、また発表した事柄に就いて誤があるならば虚心坦懐に御教示を受ける事とし相協力して実際問題の解決と実質的効果発揮を目標として進んで行きたいと考へて居る


日伯漫談     須田町人(三浦鑿)


『日伯新聞』 1939年1月18日

  リオの軍人さんが何か教育論をやつたとかで、待つてましたとばかりそちこちから教育論が出て大分賑ひましたなあ、大向のお客様方は川向ひの火事とケンカは成る可く大きい方が面白いから、もつとやれやれといふところなんでしやうが、あのケンカはもうおしまひでさあ、

 大体教育と宗教論とはハテシのねえものでしてねえ、真言宗と法華宗に宗旨争ひをさせたら、それこそ何年でもやつてるでしやうなあ、こんな中へ素人が飛込んでものを云つて御覧なさい、それこそヒドイ目にあいますよ、もう一つ厄介なことは教育論も宗教論も、自分の身には関係なしに、議論は議論として独立して成立つ代物ですから中々七面倒でごわすよ

 ナニ教育論か、それなら俺も一席やつてやるとばかり自分じや金でも出来たらサツサと日本へ帰つてやると明け暮れそんなことばかり考へてる奴が、教育論になりますと、勇敢に乗り出して来て、変な抽象論をやるのがよくありますなあ、

 手前ども無学でよく解りませんが、何様五月蝿うるさいもんですから教育だの宗教だのには余り掛り合はぬことにしてます、和魂伯才じや古いの、和魂和才でなくちやいけねえのとやり合つてるのは、坊主の宗旨争ひと同じで何時迄やり合つたからとてキリがごわせんや、此の子は

 日本人の血を享けて日本人のお腹から出て来たブラジル人だ、此の子に取つては生れた国のブラジルで生活するのが一番やさしい、日本みたいな所へやつたからとて到底喰つては行けない、そうすりや此国で旨く生活出来るやうに、十分活動出来るやうに育ててやる外ないと手前どもは始めからきめて掛つてますから、人様が何と云はうと素知らぬ顔をしてますよ、

 よく其辺の親御達を見ますと大抵は自分を中心にするか若しくは日本を中心にして教育論を彼此なさいますが一向に子を中心にして、この子の将来を考へてといふ方が居ませんなあ、エラそうな議論を並べる口の下から、俺はいつ何時日本へ帰るかも知れないし其時になつて子供がこの為体では困るしといふのが、殆んど総てでしてねえ、教育論をやつてる手合で、その臭味のせない者は一人も居ませんや、だが結局そいつはウソツパチでしてねえ、本当のところは此の国で仏さんになる覚悟をきめた者だけが子供の将来を考へ、此国でよく生活して行けるやうにしてやる、それ以外に手はありませんや、

 十四歳以下の子供に学校では日本語を教へることを禁じられたとて、恰も命でも取られるやうに騒ぐのは、日本人にも似合はず余り弱虫に過ぎまさあ、そんなことはやらふと思へば、何時からでも、どんなことしてでもやれませう

 見る影もねえ貧的で居て議論ばかりしてたとて何の役に立ちませんわ、ウンとお金を儲けて経済的の地歩を築いて御覧なさい、教育問題なんざあ放つといても自ら解決が付きまさあ、その方に目覚めない者にや、いくら教育問題を心配してやつても大した効能はありません、

 何でも国家のためと云はにや気のすまない人は聞いときなさい、在留日本人が揃つて経済的に地歩を占め、その子供のブラジル人が更らにより良き生活が出来りやこれに越したこたあごわせんじやないか、それが取りも直さず国家のためでしやう、その第二世を日本へやつて日本人にせねば気のすまぬ人は、御遠慮にや及びません、サツサと引揚げてお帰りなさい。