国士舘大学新聞 第213号 昭和56年3月27日~第217号 昭和56年7月27日、第220号 昭和56年11月27日、第221号 昭和56年12月27日、第226号 昭和57年5月27日、第230号 昭和57年10月27日、第235号 昭和58年3月27日、第236号 昭和58年4月27日、第241号 昭和58年10月27日、第243号 昭和58年12月27日、第244号 昭和59年1月27日、第246号 昭和59年3月27日、第248号 昭和59年5月27日
学校法人国士舘所蔵
Arquivo da Universidade Kokushikan
高拓生とアマゾン開拓 (抄)
アマゾン文化の礎 高拓生 ブラジル、マナオス在住 高村正寿
目 次
- 血判で署名し移住船に
- “閉口”したブラジル食
- アンヂラ模範植民地開設
- 悪因縁だったのか 不運の爆発
- 合同結婚式 多勢の花嫁を迎え
- 洋行帰りの男爵夫妻のこと
- 十月半ばの“山焼き”は大試練
- =山焼き= 灰が荒地を沃野に
- 寄せ焼き(クイバラメント)
- 生まれてはじめて稲を収穫
- リヤカーの援軍が、助けに
- 山焼きで、住宅延焼の危険
- 山焼きの猛火、原生林に入らず
- ST事件
- 記事になったマナオスでの米売り
- マナオス向け籾の輸出を始める
- 高拓六回生の到着
- 神戸商大田崎学長来訪
- 百万町歩コンセッションの喪失
- OQ事件
- サンタルジヤ区の施設完備
- 高拓第七回生到着
- 楽しいはずのピクニックが……
- 三回生MKの死
- ジュト栽培 種の起源
- ジュト栽培に凱歌揚がる
- 浸水地帯生活とジュト栽培
- ジュト栽培、増水の危機も
- バルゼアにおける食糧獲得
- 際限なく獲れる鯉
- 直営農場を経営
- 植民地の主作物、ジュト
- 十年祭と戦中の会社・高拓生
- 本物の花火に大喜び
- 開拓の歴史を道標に
- 中野順夫氏による補注
血判で署名し移住船に
私は支那動乱が沈静したら、また支那に帰って行こうと思っていたので、学生にもそのとおり話して、私はまた支那へ渡って行く。君達もアマゾンに帰って開拓事業にたずさわる。開拓と言う言葉は勇ましいが、実際問題は非常な努力と苦労をしなければならない。その覚悟を今のうちに決めて勉強しなければ、現実に直面してから後悔しても追いつかないぞ、と戒ましめていた。
私は舎監という職務上、昼夜学生と接する時間が多い。以上のような話をしていると学生は自然と私の周囲に集ってくるようになり、六ヵ月とたたないうちに、私が学生の中心になってしまった。そうなると、俺はまた支那へ帰るが、お前たちだけアマゾンに行って苦労せよ、とは言い切れなくなり、「それでは俺もアマゾンに行って一緒に努力するから、お前たちももっと真剣に勉強をせよ」と言うようになってしまった。
また、上塚さんからも「俺が生きている間は君を困らせるようなことはしないから、この学生を引き連れてアマゾンに行ってくれ」と頼まれて、結局、支那に帰ることは諦めてアマゾンに行って開拓事業に従事しようと、決心をしてしまった。
そうなってくると、学生にはますます厳しく対しなければならない。学生の中に二回生で残留して助手になっているのが二人いた。HTとSMである。この中でHTは頑固ほど真面目である。非常に私の手助けになった。
私は精神教育に重きをおき、時には試胆会などもやった。学校の背後地の森の中に荒れ寺があって、人もいない。真夜中十二時ころ一人一人そこまで歩かせ、置いてある一冊の本の何頁かを読んでこいと命ずる。二十分ごとくらいに一人一人出て行く。全部の学生が終るのは夜開け近くなる。しかし、学生は皆真面目に行動した。その中には私もHT助手たちも加わっていた。それから、心身鍛錬のため毎朝五時に起きて、玉川河畔まで往復駆け足を実行した。
なお、私は学生を集めて話をする時に、開拓というものがいかなるものであるかを説明した。アマゾン開拓とか、原始林に突入するとか、言う言葉は勇ましいが、実際は百姓をすることである。同じ百姓でも、日本の百姓はすでに開墾された立派な耕地で百姓をするのであるが、アマゾンにおける百姓は、原生林を伐り払い、焼き払って、荒地で百姓をするのであるから、日本で百姓するよりもズット辛い。
だから、アマゾンに行って百姓をしようと思うなら、まず日本の百姓家に半年でも一年でも無給で奉公して、日本の百姓の苦労を味わい、これでも俺はやって行ける、と思うならアマゾンに行け。もし、こんな仕事にはとても耐えれないと思うならアマゾンに行くのは中止しろ。こういう話を聞かせている内に、アマゾン現地からは刻々に悲報が入ってくる。その手紙を謄写版で写しをとり、学生全部に読ませてアマゾン渡航の覚悟を決めさせた。
私が以上のような話しをするようになったり、学科以外の特種な行事をさせるようになってから、学生は色々な理由をつけて一人去り、二人去りして、入学当時は九十名近くいたのが、渡航前になると五十五名に減っていた。(1)
一方、上塚校長の方では、知名人と接触することによって学生の精神的陶冶をはかるべく、永井柳太郎外多くの知名人の講演を聞かせ、また頭山満翁や末永一三氏などを学校に招聘してきて、学生をその風貌に接しさせ、精神的向上を計るなどして、学生の精神教育に重きをおいた。
昭和八年初めになると、学生は渡航準備で忙しく、ことに妻帯して行く学生は、家庭内の家具が外の学生より倍する量になる。服装品、家財道具の質入れ、荷造り、大変な騒ぎである。
その複雑した気持ちの中から、誰が初めに言い出したか、多分HT助手ではないかと思はれるのだが、我々三回生はアマゾン開拓に全力を尽し一人の落伍者も出さないため渡航学生全部で誓文を作り、署名血判をしようではないか、との気運が持ちあがった。
これは上塚校長が言い出したことでもなければ、私が勧めたわけでもない。学生の中から自然と持ち上ったことである。いよいよ実行に移る前に、校長の許可を得なければならない。上塚校長に話したところ、それは非常に結構なことであり、かつ大切なことだ。私もその血判に加わるということになった。
郷里に帰っていた学生も帰校して、学生全部が揃ったところで、いよいよ実行することになり、講堂に机椅子を配して一同着席した。一人が立って、誓文を読みあげる。すなわち「我々三回生アマゾン渡航者は、アマゾン開拓を貫徹すべく全力を尽し、一人の落伍者・脱落者をも出さざることを、ここに署名血判をして誓うものなり」と。
誓文書に短刀を添えて、一番端の学生に廻し、そこから始めて、指を切り署名し次々と廻してきた。室内寂として声なく、血判は次々に廻ってゆく。中には余り緊張の結果、貧血を起し顔面蒼白となり、室外に出でて倒れる学生も出てきた。いよいよ順番が廻って来て、上塚校長の番になった。校長は鮮やかに指を切り、署名血判をした。私も同様に署名血判をした。かくて五十余名のアマゾン開拓に誓い署名血判は終った。
“閉口”したブラジル食
私は早くから、学生は出来るだけ妻帯して行くように勧めていたが(2)、私もいつまでも独身でいるわけには行かない。渡航前に結婚しようと思い、かねて支那にいる時から、「高村さんの奥さんはぜひ私に世話をさして下さい」と言っていた同県の日清汽船会社の船長であった樫本さんの奥さんに、アマゾンに渡航する事情から詳しく説明して、妻の仲介をお願いしたところ、たちどころに話は決って、昭和八年の一月帰郷して結婚してきた。
渡航までの仮住いを、登戸で家を探し、落ちついた。学生で妻帯渡航の者は、KT夫妻、KU夫妻、TN夫妻、FT夫妻、KD夫妻、YD夫妻、MN夫妻、IY夫妻、KY夫妻。(3) この外に、高村夫妻と、ビラアマゾニヤに医者が居ないので日本から医者を連れて行くことになり、沖縄県人で長崎医専出身の城間夫妻が加わり、十一夫婦ができあがった。この外に学生NUの母親と兄妹が加わった。(4)
渡航までの第三回学生に対しては、これで大体終ったと言ってよかったが、日本高等拓
不完全な教育をしたものをアマゾンに送って貰ったら、結局困るのは私である。それで、これから将来のことを考え、誰か骨のある、筋のとおった教育のできる人を据えておかねばならない。種々考えた末、国士舘時代から一緒であり、そして、支那にも行っていたこともある人で、現在国士舘の学生の舎監をしている、私の最も敬服している中村誠太郎氏に後事を托することにして、相談したところ、心良く引き受けて貰ったので、将来のことも心配することはなくなった。(5)
三回生妻帯者十一家族、独身者四十六名のアマゾン向け出発は、昭和八年四月十五日の横浜解纜のモンテビデオ丸と決った。辻小太郎氏は、夫人と弟を連れて三回生よりも一カ月早く、アマゾンに出発していた。
三回生の出発当日、横浜埠頭は見送りの人の波で埋った。お互いに相手の名を呼ぶ声、テープのなげあい、船は「ホタルの光」の音楽を奏でつつ緩やかにゆるやかに埠頭を離れて行く。この瞬間、若者達は未来の夢よりも、現実の離別の悲しみで胸いっぱいだ。幼な妻達は泣いている。まだ、十七か十八歳だ。
モンテビデオ丸は、横浜解纜後、神戸に寄港し、一般家族移住者を約八百人積み込んだ。皆ブラジル行きだ。これから一カ月余の船旅をこれら一般移民と高拓生と問題を起さぬよう上手に接触して行かねばならない。
高拓生の船室は、船の中央部で普通特三と呼ばれている特別三等室で、一室に八人すなわち四夫婦が寝れるようになっている、他の一般移住者は、船底の船首と船尾の大広間に蚕棚式ベッドが、スシ詰めに並べてあり、殊に機関部に近い部分は熱気がこもっている。だから、一週間もたたない内に一般移住者の方から文句が出てきた。
「若い者たちが良い部屋に入って、楽をしているのに、我々老人がこんな熱い所の蚕棚で寝ているのは不都合だ。部屋を取り替えて貰いたい」と言うのである。
困った問題が起きてきたと、思ったが、移民輸送監督と話し合い、「高拓生は高い船賃を払っているのだから仕方がない」と言うことにして済ましてしまった。船賃は日本政府の補助金で、高拓生が特に高い船賃を払っているわけではないが、一般移民の或る一部分だけを入れたら、なお問題が複雑化するので船の方では一番無難な高拓生を入れたのである。
船内生活は日が経つにつれ、船員と高拓生の中にも親たしくなり、甲板洗いの手伝い、船内新聞の発行、風紀係等高拓生が引き受けて働いた。運動方面では角力、演芸では赤道祭ほど皆高拓生の舞台であった。
一ヵ月の日日も知らぬ間に過ぎてしまい、五月中旬にはリオデジャネイロに到着し、花の島の移民の収容所に入った。アマゾン行きブラジル船のあるまでここで過さねばならない。
丁度日本移民の二分制限案が議会に上程されるころで、リオの日本大使館は高拓生八十余名が着いても誰一人として出迎えにもこなければ、訪ねてもこない。同大使館の野田領事などは登戸の高拓に訪ねてきて講演したこともあり、すでに認識のある人だ。私は二分制限案など問題でない。高拓生全員を引き連れて大使館に乗り込み、館員の前で吾々アマゾン渡航の意志を述べ、高拓の門出の歌を合唱して引き上げてきた。
一週間後にブラジル船サントス号が、アマゾン河上航のためリオに寄港してきた。高拓生一同初めて見る外国船に乗り込んだが、その不潔なことに皆驚いてしまった。便所の中は、水溜りしめりで、ヌルヌルしている。便器の中には前者の糞が残っている。水栓を引いても水がタラタラと出るだけである。それでも、そこより外に便所はない。用を足していると、下から汚水がピチャピチャ上ってくる。終ったら、早速シャワーをかぶらねば気持ちが悪くてしようがない。
寝床は皆蚕棚だ。なお困ったことは食事の急変である。日本船ではまがりなりにもご飯、味噌汁、漬物、肉や魚が三等船客にも付いていたが、ブラジル船に乗り替えてからは、飯は半煮飯でゴッゴツしている。深皿の中には大きな牛の骨とスープが入っている。
別の皿にファリニヤと称するマンジヨカ芋の紛が山盛りにしてある。このファリニヤを牛の骨のスープの中に入れて喰うそうだが、誰れもたべる人はいない。食後皿を自分で洗わねばならない。皿は脂でギトギトしている。わきにあるファリニヤを皿に入れてなで廻すと、脂がキレイにとれる。それを水洗場に拾てるから、水洗場は水を吸って膨れたファリニヤが、小山のようになって捨ててある。船員がどうして大事な食料を捨てるかと、文句を言うがファリニヤが主食物であることを誰れも知らない。
こんな食事をしながらアマゾンまで三十日も旅をしなければならぬと言う事が解ると、女連中はガッカリしてしまった。船がレシーフェに着くと、勇敢な女は空腹から出た大胆さも一緒になって、早速上陸し、どうして探したか日本人の家を探し出し、日本飯を炊いて貰って腹いっぱい食べ、その上に握り飯まで作って貰って帰ってきた。(6)
かくしてサントス号はフォルタレーザ、サンルイス、ベレン、サンターレンと寄港して六月二十四日パリンチンスに着いた。夜であった。モーター。パテロン(荷積船)等を用意して職員や、一回生二回生が出迎えにきていた。荷下しを済まし、出迎えの人々と共にビラアマゾニアに向った。下航一時間、もはや夜明けに近い。
三回生及び同航者一行八十四名はすでに記述したような雰囲気のビラアマゾニアに着いたのである。辻さんはすでに一ヵ月前に到着していた。
[以上<6> 第213号 昭和56年3月27日]
アンヂラ模範植民地開設
(中略)
家族移民だけが、高台の陸稲畑にも湿地帯のジュト畑にも全面積蒔き付け、後の手入れも完全にしているので、立派な陸稲畑ができ上った。だが、家族移民は行動は早やかった。当アンヂラ模範植民地が見込みないと思うと、八家族の内五家族は日本に帰国、またはサンパウロ方面へ脱落して行ってしまった。例え、この植民地に踏み止って真面目にやろうとしても、アンヂラ植民地の土地条件や農作物条件では働くにも働きようがなかったのである。
学生はジュトには全然関心を持っていなかった。植付後のジュト畑を見に行く者もほとんどいなかった。ただ一人、第二回生のOBの家族で、尾山良太だけが非常な熱心さで、自分のジュト畑を管理していた。(7) 毎日ジュト畑に行き、除草をし、間引きをし、ジュトの成長を見つめていた。
ここに尾山良太氏によりジュトの歴史を書かれたものがあるから、この一部を転載して、いかにしてジュトができたかを知るよすがとしたい。
前述略 [以上<7> 第214号 昭和56年4月27日]
3、アマゾニヤ産業研究所は、一九三四年一月、ジュッタの最後の試験として、学生、家族移民一人に対して二反歩として、百五十人約三十町歩に、印度の一番よいといわれる種子により栽培試験をす。
4、播種後二カ月すなわち同年三月の終りになったころ、過去数年数回にわたる試験の結果と同様、茎の長さ一メートル半内外で、枝が出て花が咲いたため、失敗!見込みなしとして、ある者は繊維をとったが、収穫せずに茎を拾ててしまった者が大分あった。
5、アマゾニヤ産業研究所(現地支配人辻小太郎氏)は、一九三四年四月一日からジュッタの試験を一切中止するはもちろん、引続きその後三年間尾山良太が改良種により、五町歩栽培するまで、ジュッタの仕事から手を引く。
6、同年三月の刈取前に、尾山良太は試験地の五万本(学生で試験の結果が失敗に終ったので、ジュッタの収穫に興味を失った者から数カ所貰い受ける)ばかりの茎を全部みて、茎の長さは他と大差ないが、二本の枝のない、花のないものを発見、「優」か「劣」かは不明であるが、二本は刈り取らずに残す。
7、ジュッタの試験をした所のアンヂラ河流域は、毎年三月末から六月にかけて、一メートル以上も増水、流水はげしくアマゾン到着まだ六カ月、気候風土にもなれない時に二本を、増水・激流から保護するために、毎日家からアンヂラ河を渡って、監督することは大問題であった。
厳重に囲いはしてあったが、一本は流れに押し流され、他の一本も水に倒れたが、アマゾン河の水の中で茎が根を出し、六月ころ茎が倒れながらも三メートルくらいに伸び、十個ばかりの実ができて、かろうじて少しばかりの種手をとることができた。
8、その種子を、直ちに、高台地に蒔いたところ、過去数年早生となり、二カ月で分枝結実するに反し、四カ月で花が咲く改良品種であることを、同年(一九三四年)十二月、初めて確認することができ、この旨を、日本在住の上塚司氏に報告する。
(後述略)
尾山良太が得たこのひとつまみの優良ジュト種子が、後年アマゾン河流域全域を風靡し、アマゾンジュトを生産するようになったジュト種子の元祖であった。
(中略)
悪因縁だったのか 不運の爆発
(省略)
新植民地の開拓
(省略)
合同結婚式 多勢の花嫁を迎え
(省略)
[以上<8> 第215号 昭和56年5月27日]
洋行帰りの男爵夫妻のこと
(中略)
私は四回生がサンタルジヤに到着してから、間もなく、アンヂラからサンタルジヤに引越した。荷物は荷物船でラーモス河を下り、河口からワイクラッパ河に入り、サンタルジヤに回航させた。私達は四キロメートルばかりの原生林の中の道を歩いて、サンタルジヤに着いた。
住いは、NJ男爵の小屋から少し離れた所に小屋ができていた。M君も新夫人を迎え、学生小屋の並びの河岸に小屋ができていた。Z君はでき上ったパーリヤ葺きの仮事務所の中の一室に寝起きしていた。越知支配人も新夫人を迎え、アンヂラで落ちついた生活を続け、土人達からはテンネンチ越知(越知小尉)の称号で呼ばれ尊敬の極にあった。(8) そこらの警察署長や部長などよりも偉い人だと思われていた。
学生が退去した後のアンヂラ植民地の既耕地牧場造成計画の下に、HK職員が懸命に植草木の根掘りに努力している。遠からず、食糧の少ない植民地に牛乳や牛肉の配給ができるようになるであろう。
四回生もロッサ(下払い)を終わり、M、Z両指導員からマッシャド(斧)の握り方、右使い、左使い、切り込みの角度等教えられ、まちまちながらデルバー(大木を倒すこと)を始めた。日本にいる時は父母の被護によって生活をし、なに一つ働いて生活したことのない二十才前後の青年達が、アマゾンの原生林の中に連れて行かれ、お前達はこれらの大木を切り倒して焼き払い、畑を造って農作物を植え、生活をしていくのだと、説明されれば、大概の者が逃げ出すのが当り前だ。それを逃げ出さず、一人当り三町歩から四町歩の山を伐り開こうと努力するのは、よほどの覚悟をしてきたものと言わねばならない。
とにかく、三、四人共同で(9)、あるいは、一人で手の平のマメを眺めながらデルバーを始めた。タワコエラ(10)方面の一、三回生は、デルバーはすでに経験ずみだ。労働者を入れて伐採している者もあれば、四、五人共同で伐採している者もある。馴れてくると木を一本一本倒して行くのは面倒だ。
原生林を眺め渡すと、一町歩の中には必ず直径一メートル半から二メートルの大木が、四、五本はある。この大木は枝ぶりを見て何の方向に倒れるかを見きわめる。そして、大木の倒れる方向にある直径四、五十センチメートルから、二、三十センチメートルくらいの小木に大木が倒れかかる裏側に半分づつくらい切り込みを入れていく。
一方、親元の大木には二人がかりで倒れる方向から切り込みをつけていく。直径二メートルからの大木になると、切り口の開きが一メートルくらいになる。下面は鋸で切ったように水平に切って行き、上部は上から打ち下ろして斜めに切り込んでいく。だから、下部には斧を水平に打ち込み、上部は斜めに切り下げてくる。
小さな木端(こっぱ)を一つづつ飛ばしながら大木の中心に向って一メートル切り込んでいくには二時間近くを要する。切り込みが、大木の中心を過ぎたと思うと、今度はその反対側から斧を入れ始める。四十センチも切り込んだかと思うと、大木は揺れ始めるこの時、二人大声を上げて皆に知らせる。
“いくぞ” “にげろ”
この声がかかると、下側で小木に切り込みを入れていた者達は、ばらばらっと遠くへ逃げてしまう。
それを見きわめて、親元を伐っていた二人は、大木に最後のひと打ちを入れると、天を摩すように枝を拡げていた大木は、ワリ、ワリ、ワリと大音響を立てて倒れて行き、下に切り口をつけてある小木を次から次に押し倒して行く。その百本近い大小木が一時に倒れて行く轟音の壮快さは、何物にもたとえようがない。木の葉を捲き上げ、つむじ風をまき起こし、木がはじけ散る轟音を聞いていると、胸がスーッとしてくる。
一度倒すと、一町歩近い空間が原生林の中に開けて見える。この方法でゆけば、一町歩伐採する人手間は、非常に少なくなってくる。普通一町歩を伐採するのに土人の馴れた者で、二十五人手間とされている。この方法でゆけば、三分の一の人手間がはぶける。しかし危険がともなうから非常な注意を要する。
伐採は非常な重労働であるけれども、働く原生林の中で太陽の当たらない涼しい所であるかぎり、それほどつらいとも思わないし、いやな仕事でもない。ことに若い青年にとっては、木を倒す壮快味は忘れられない楽しみの一つである。とにかくいかなる方法を用いてでもこの伐採は九月いっぱいには終らさなけれはならない。十月の乾燥期一ヵ月間乾燥して大事な山焼が控えている。
十月半ばの“山焼き”は大試練
一九三四年八月ころまでは、タワコエラからボアクオンチまでの十三キロメートル(11)(十三キロメートルといえば東京駅から世田谷あたりまでよりももっと長い距離)にわたって、一五〇人近い青年達が、毎日毎日斧の響きをひびかせて、伐採に励んでいた時である。
二ヵ月以上の伐木で肉刺(マメ)のあとも硬くかたまり、毎日の伐採の仕事も初めの時のように苦しくなくなってきた。八月から九月の初めになると、早い者は伐採もそろそろ終りに近づいてきた。四回生ほど日本から来た時は、丸々と肥っていたのが、伐採の烈しい労働で二ヵ月位の間に半分になるくらいにやせてきている。九月も半ばになると、おそい者でもあらかた伐採を終った。
しかし、伐採の続きの残り仕事として、枝下しがある。伐採だけでは地面に面して倒れた枝は、倒れた勢いによって地面にたたきつけられてしまうが、反対側の上になっている側は、天を向いて立っている。この枝を伐り落して地面にたたきつけ、離れて見ると、伐採面がローラーをかけたように、平らに見えるようにならなければ、山焼きの時に良く焼けない。山が良く焼けた、良く暁けなかったということは、その年一年の農作物の出来、不出来、すなわち、収入の如何を左右するので、山焼きはその人の一年の苦楽のキーポ[イ]ントにかかわるので、山焼きを良くするために、枝おろしをするのである。力仕事という点から見れば、枝下しは伐採の仕事の半分も力を要しないのであるが、伐採は原始林の中の木陰の涼しいところでする仕事である。
それに比して、枝下しは九月・十一月の乾燥期の直射日光の下、四〇度の日射を受けてする仕事である。四回生のような新着者は、また、一つ新らしい試練を受けねばならない。しかし、枝下しは十日か二十日の短期問で終ってしまう。
枝下しも終って、十月半ばごろの山焼きまでは、なにもする仕事はない。この農閑期を利用して、独身者は近くの土人の家を訪問して歩き、いろいろな習慣やしきたりを覚える。娘がいれば分らない言葉で親交を結び、ダンスなどへの案内を受けたり、また、案内したりもする。若い学生の唯一の楽しみなのである。
また、八月・九月といえは、アマゾン河の減水期の半ばに達しているころであり、投網さえあれば素人でも、幾らでも各種類の魚が取れる時期である。この時期になると、一、三回生または一部の四回生は、カノア(カヌー)も土人並に漕ぐことができるようになっている。そして、どこどこの水路には魚が多いそうだ、どこそこの湖が取れるそうだと、いうような情報を得ている。だから、多少遠いと思ってもその日のうちに帰ればよいと思い、遠くまで出かけて行くのである。そして、帰りはカノアの舟底いっぱいの魚を取り、同回生達を喜ばせる。
こういう行事が、アマゾンの農閑期におけるたのしみの一つでもあった。土人の家を訪問した帰りには、ついでに土人の家の周囲にある果物の苗木を集めたり、中には鶏や豚まで買って帰る者もある。
早く山焼きをして自分の家を建てたら、耕地にいろいろな果樹類を植えたり、鶏を飼い、豚を育てて生活を豊かにしたいという希望が拡がってくるのであろう。各家々から未明に鶏鳴を聞くのは、新興植民地の始りである。そのうちに赤ん坊の泣き声が聞えるようになる。
[以上<9> 第216号 昭和56年6月27日]
=山焼き= 灰が荒地を沃野に
アマゾン地帯の気候は、雨期と乾期の二期に分れていて、六月十五日からその年の十一月十五日までを乾期、十一月十五日から翌年の六月十五日までを雨期とされている。必ずしも定規をあてたようには行かないが、大体十日か二十日のずれはあっても、毎年この見当で気候が変っていく。何十年に一回くらい天候異変があって乾燥期に雨が降り続いて、百姓は山焼きができず、大事な食料品のマンヂョカが植えられず困ることがある。
山焼きというものは、百姓の一年間の生活を左右するものだから、山焼きの季節を選ぶことについては百姓は真剣になる。十三キロメートルの長さにわたるような大きな伐採の山焼きなど、この地方ではいまだかつてなかったことだから、越知、高村両支配人(12)及び各地区の代表者は数回にわたって熟談し、山焼きの日程を十月二十一日と定め、それまでに天候異状があった場合は、急使を走らせて中止または、延期することに決めておいた。
山焼きまでには、まだ準備作業がある。たいまつを造っておかねばならない。材料はイナジャーと呼ぶ椰子の葉柄を取ってきて一メートル半くらいに切り、その皮目だけを薄く、細かく剥ぎ、それを一日くらい太陽に乾してから、ひとにぎりの大きさに束ねる。山焼きの日は、それを一人がひとたばずつ持つ。なお、一、二、三回生はすでに山焼きの経験があるが、四回生には充分の注意を与えておかなければどんな事故を起こさないとも限らない。
まづ、責任者の命令を守ること。号砲の合図によって火をつけ始めること。火に驚いて決して先走りしないこと。もし、気の小さい者がいて、火を恐れ、一人だけ列を放れ、先き走りをする者があったら、後から来る者は火に取りまかれ焼死する危険があること。
以上のことを充分に注意し、横の列をみださず、お互いに“オーイ”、 “オーイ”と声をかけ合って進まなければならないことなどを、四回生全部を集め懇々と説明した。
十月二十一日、待ちに待った山焼きの日がきた。朝霧は、しっとり道ばたの草を濡らしている。空は青天だ。上々の山焼き日和りである。満月の前後は雨が多い。朝霧のない日は雨が降る、と言う古諺を尊重し選んだ日だ。時間は午後の一時から二時の間、一番陽光の強い時間、伐採地は地面までカラカラに乾いている。
その日は、各自昼食を早目にすまし、腹ごしらえを充分にして、伐採地に出かけた。号砲係は、鉄砲をかついでいる。各区の責任者は、自転車で走り廻り、各責任者の時計の時間をピッタリ合わせる。午后一時が号砲発砲の時間だ。(13)
十二時半、四十分、五十分と秒よみに入る。五十五分、五十七分、五十八分、五十九分、一時だ、“打てッ”と責任者の号令で号砲は打たれた。
十三キロメートルにわたり排列された一五〇人のタイマツに、一時に火がともされ、伐採地の中に入り火をつけながら右に左に進んで行く。“オーイ”、“オーイ”と呼び交わす声が、次第に勢を増す猛火の中に包まれて行く。
二十分と経たない間に炎の高さは二十メートルにも及び、風上からつけた火が、風下にはなびかずに、風上に向って大きく火先きがなびいている。だから、火をつけて進んでいる者の頭の上を、火が覆うているのである。大概の者は、一直線に走り出して、逃げたくなる。
ゴウゴウと燃える火の音、バチバチと木のはじける音、熱風で背中は焼けるようだ。火の燃えさかる様を見ていると地獄絵のようだ。これが十三キロメートルの長さにわたって燃えさかっているのである。黒煙天を覆い渦まき、ワイクラッパ河面に反映している様は、河底にも火が燃えさかっているようだ。上下の火映で天地晦冥となり、地球の終りを思わせた。
この分なら山焼きは上々によろこんでいた。ところが、伐採地巾二百米の三分の二あたりまで火つけが進んだと思うころ、ワイクラッパ河の対岸の森の後ろから大きな黒雲がニョキニョキと盛り上ってきた。しまったと思ってじだんだを踏んだが、今更どうしようもない。雨を止める方法はない。火を消す方法もない。大火は雨を呼ぶといういが、そのとおりだ。
黒雲はまたたく間にワイクラッパ河上に拡がり、燃え盛っている大火の中に、豆粒大の雨脚を車輌のごとく降り込んできた。さしもの大火も焔が燃えてしまい、白煙が弱々しく低迷している。学生達はズブ濡れになり、消えたたいまつを片手に意気消沈して河岸に集って来た。(14)
雨が降っていた時間は一時間足らずであった。大火が消えると雨も遠ざかって行った。ばらつく雨の中から空を見上げると、千切れ雲が早足で流れている。皆、黙として声もない。しばらくしてから、越知支配人がニヤニヤ笑いながら下りて来る。
近くに来てから「やられたねー」といって笑っている。「噫やられた、ひどい目にあったぞ」というと「なーにタワコエラの連中はこれから腕でやるッといって頑張っている」というと、四回生の元気なものが「俺達も腕はあるぞー俺達も腕でやるぞッ」といって両腕を差し上げている。これで皆の気がまえはできた。普通なら山焼き祝をするところだが、今回は祝いどころではない。憂さ晴らしにピンガを呑んで、各自の家に引き上げた。
翌日からマッシャド(斧)を肩にテルサード(山刀)を片手にして各自の耕地に通うのが見える。火の通ったところは真っ黒くなっているが、火の通っていないところは白くなって残っている。これを一つ一つ枝を下ろし、小さく切って積み上げ火をつけて焼くのである。
これは大変な仕事で、農作物にはあまり効果はない。枝を積み上げて焼いたあとは、陸稲など倒れるようによくできるが、火の通っていないところは、陸稲なども三分の一も伸びず、小さな穂が出るのがやっと。
火が通って黒くなっているところでも、雨が来なければ二日も三日もジリジリくすぶりながら燃えて行き、大きな大木が焼け残るか、切り落された枝が小さく短かく残るだけで、寄せ焼きの手間が非常に省ける。そして、良く焼ければ焼けるほど耕地全面に灰の量が多くなり、作物のできばえが非常に違ってくる。
大体アマゾン河の河岸から奥地に向って二百キロメートルくらいは新生層であって酸度が強く、普通ペーハー五・五くらいある。これに山焼きの灰が沢山混じるとアルカリ性となり、作物に適した土地となる。だから山焼きの成否によりその年の幸、不幸が別れるといわれているのである。
寄せ焼き(クイバラメント)(15)
仕事の順序として、山焼きが終れば寄せ焼きをしなければならぬ。すなわち、焼け残りの木や枝を集め、横たわっている大木を、中にはさむようにして高く積み上げ、火をつけるのである。仕事の中でこの寄せ焼きほど苦しい、辛い仕事はない。
焼け残りといっても、内部が木質で表面は炭になっており、そんなのを肩にかついだり、胸に抱いたりして運ぶから、体は真っ黒になってしまう。もちろん、まっぱだかである。背中は四〇度の直射日光を受け、皮がピリピリする。前は、顔から腕から胸・腹・太ももまで、皆真っ黒で、黒人以上に黒い。
右や左に積み上げた木を焼いているから、その火気にあおられて体中の脂が、ジリジリにじみ出してくるような気がする。一度体にすり込んだ炭の黒さは脂汗と混り、皮膚にしみ込んで、水浴の時にいくら石鹸や水で洗っても落ちない。寄せ焼きの間中クロンボになっていなければならない。
だから、学生達は寄せ焼き期間中、月明の夜が続くと、昼寝て夜働くのである。夜は日射しもないし、風も涼しい。働くのは、男ばかりではない、女も耕地に出て手伝う。裸にこそならないが、着物を真っ黒にし、自分で抱えられる程度の木を集め、積み上げて焼く。
できることなら、横たわっている大木も焼きはらいたいのだが、そこまでは力が及ばない。しかしできるだけこまめに残木を集めて焼かないと、木の横たわっている所だけの作物の植付け面積がせまくなる。
今回の山焼きのように、不可抗力とはいえ失敗は失敗だ。こんな失敗した山焼きの後の寄せ焼きは、普通の寄せ焼きの幾倍も労力を要するか知れない。しかも、それだけの効果はないのだ。しかし、初めに「腕でやるぞッ」と叫んで始めた仕事だ。途中で脱落する者もなく、最後までやりおおせた。
蒔 付
十一月二日は、日本の八月のお盆である。皆墓参りをする。そして、その日は大概雨が降る。
九月、十月瓦屋根の上から、かげろうが立つように日が照っていたのだが、十一月に入ると曇り日が多く、そして、雨が降る。十一月から雨朝だ。四・五回大雨が降って、土地がジックリ湿めると、陸稲の蒔付け、その他野菜・果樹の植えつけを始めなければならない。
陸稲の蒔付けは、播種機を使って行う。播種機は、木片と鉄片で出来ており、木片の先端につけた金具に心棒一つと上部の木片の部に一つ心棒が通っていて、手元を開くと先例の金具が締り、その中に五・六粒の籾種が落ちる。
その最先端の鉄片を土の中に突き込み手元を閉じると、先端が開いて籾種は土の中に残るようになっている。これを手早く繰り返えしていくと、一人で一日一反歩くらい蒔き付けることができる。四、五人一緒に蒔き付けをすると、カチャカチャ、カチャカチャと、音が入り乱れて音楽のように聞える。
上塚さん作詞の、高拓の校歌の中にある
“テーラ・フィルメ(高台)の木の間よりプランタマキナ(播種機)の冴ゆる音は、天地万有創造の歓びに満つ楽の音か”
と歌ったように、天地静寂の原生林の中から響いてくるプランタマキナの音は音楽のようだ。
陸稲の植え付けも、播種と収穫の日程を見合わせて、蒔き付けなければならない。例えば、四町歩の耕地全部を一時に蒔きつけてしまったら、四か月後に稲は同時に熱してしまい、収穫が間に合わず、半分くらいは捨ててしまうようになる。
だから、十一月の半ばごろから計算して、初め一町歩だけを蒔きつける。それが翌年の三月半ばごろから成熟する十日くらいで一町歩の収穫を終えるとして、第二回目は、十日間の間をおいて十一月の末ごろ蒔き付けることにする。このようにして間隔をおいて、五月いっぱいくらいで収穫を終えるように蒔きつけておく。
蒔付け作業は、簡単な操作であるからだれでも直ぐ覚える。ただ注意しなければならないことは、蒔きつけの折、今日は、横たわっているあの木とあの木まで、蒔きつけたら終わりにしようと思い、そこが終ったら夕方家に帰る。翌朝、耕地に出てきて、さて昨日は何処まで蒔きつけたのかと思い、見廻すと同じような大木が幾らでも横たわっている。確かこのあたりからだと思い、蒔きつけると同じところに二度蒔きをしていて、一面に籾が発芽しているというようなことが起る。
移 転
蒔きつけをする前に、住居の移転をしなければならない。山焼きが終わると、寄せ焼きの合い間合い間に、自分の耕地の中の適当なところに住宅を建てる場所と定め、焼き木(ボク)を取り去り、地ならしをする。
材木は耕地の中に幾らでもある。釘がない時は山の中から蔓を取ってくればよい。板とパーリヤ(椰子葉)は、河岸の自分が住んでいたところのものを、はずして持ってくればよい。足らないのは、水だけだ。
植民地事務所の方では、学生が耕地に移転を始めると、適当な箇所に井戸掘りを始める。(16) 井戸も幾十と掘らなければならない。土地の低いところは、十メートル内外で水が出るが、波状形になっている土地の高いところでは、三十メートル掘っても水がでない。
サンタルジヤの中心部と定めた事務所のあるところでは、井戸が必要であるから掘り始めたが、三十メートル過ぎでも水がでない。長い日時を要して掘っているので、井戸底にガスがたまってきた。ある日、井戸掘りを続けるため人夫長を井戸の中に入れた。井戸底に着いたかと思うと、わめき始めた。「上げてくれ、上げてくれ」といっているようだ大急ぎで井戸車で引き揚げると、顔は真っ青で息づかいが荒い。井戸底へ行ったら息がつけないという。
試みにランプを細ひもで井戸底まで下ろして見ると、消えてしまう。ガスがたまって酸素がないのだ。塩水を入れるとガスが消えるというので、何杯かの塩水をばらまいて、ランプを下ろして見たが駄目である。とうとうこの井戸は廃坑にしてしまった。
井戸掘りも最低限度、生活に間に合うまでに掘ることできたので、学生達は引っ越しを始めた。今までは、河岸の砂原で、お互いに壁を接した仮小屋に住んでいたが、今度は皆各自の耕地の中にポツンポツンと建てた家に住むようになった。
[以上<10> 第217号 昭和56年7月27日]
生まれてはじめて稲を収穫
忍耐が、アマゾンを拓いた
夫婦者は個人個人で住んでいるが、独身者は四、五人での共同生活・共同作業をして住むようになった。今までは河岸から二キロメートル、三キロメートル歩いて耕地まで仕事に行っていたのが、家を一歩出れば耕地だから、時間的にも得をし、耕地や作物の管理にも便利だ。
城間医師はアマゾン到着以来ズット、ビラアマゾニヤに住んでいたが、自分の子供が四回生として渡航して来たので、城間医師もサンタルジヤの河岸にバラックを建てて住むようになった。学生が奥の耕地に引っ越しを始めると、城間医師も息子の耕地に半永久的な住居を建て、引っ越しの準備を始めた。
私の引っ越しは大分あとになってからであった。先ず、サンタルジヤ区の中心部に事務所と売店の建設を急がなければならない。それまでは、毎週一回運んでくる食料品の処理が、河岸の仮小屋でなければできないからである。
それから驢馬を一頭探して来て馬車を仕立て河岸から耕地内の中央道路まで、商品や建築材の運搬の用に当てた。建築の方はアンヂラにいた大工達をサンタルジヤに呼び、事務所や売店の建築に当たらせた。アンヂラその他との連絡は、自転車を四、五台おいて、私は毎日自転車で耕地の方へ通った。
学生達は第一回の蒔付けを終り、木の芽かきをしている。どんなに良く焼けたところでも、アマゾンの自然は植物を生かす力を持っている。良く焼けた後の切り株から、芽を吹いてくる。そのままにしておくと、また元の林になってしまうので、芽の出てくるのを探しては取り払わなければならない。
もし、これがアンヂラ河岸の耕地であったなら、大変な仕事である。アンヂラは、耕地が再生林後だから、木の芽は
サンタルジヤ中心部における事務所も売店も、ようやくでき上ったので、食料品なども河岸にモーター(17)が着いたら、そのまま馬車に積みかえ、耕地の売店に運ぶようになったので、私も耕地の方へ引っ越すことにした。幸い、四回生と同行して来た一回生のFJ君が退耕した後に空屋があったので、その家を利用して引っ越した。
城間医師は既に移転していた。このころになって今まで事務所で働いていたM君とZ君は、事務所の仕事を止めて、自分の仕事に専心することになった。後には二回生のMM君が事務所に入って来た。中心部の建築で事務所・売店が終ると、診療所の建築を始めた。
学生達は、陸稲の蒔付けを数回に分けて行い、二月ころまでには終った。後は、陸稲の熟すのを待って収穫に取りかかるばかりである。その間、家の周囲に果樹を植えたり、おぼつかない手で野菜を植えたりしている。ただ、どうにもならないことは、学生の無聊を慰める何物も原生林の中にはないことである。
気ばらしに散歩する夜の街もなければ、訪れたい娘の家も近くにはない。結果は、ピンガを呑んで手廻しの蓄音器で古いレコードでも聞いているか、または酔った勢いで私のところへ文句を並べにくるのが、唯一の憂さ晴らしである。日本の都会の生活を思い出し、今の生活との懸隔を思い―これが開拓というものだ、この忍耐の一句一句によってアマゾンは拓けて行くのだ、と腹のドン底でじっと我慢をする夜毎の試練である。
収 穫
三月に入ると、そろそろ収穫の用意をしなければならない。三回生、四回生などはほとんど収穫の方法を知らない。そして、収納器具というものは何に一つ持っていないし、何が必要かということも知らない。
日本の高拓の指導者達は余程農業に疎い人ばかりかと思われる。アマゾンに百姓をしに来るのに、農器具というものは何に一つ持たせていない。だから、陸稲の収穫が始まっても、原生林の中で、なにか間に合わせに作るより外に方法がない。(18)
陸稲刈取りの鎌は、ビラの研究所でなんとか都合がつくとして、刈り取った後、籾を叩き落す台から造らねばならない。原生林の中に入って行って、ひと握りくらいの丸棒を二十本ばかり取ってくる。大きな丸棒を四本選んで、一メートルくらいの高さで一メートル半四方くらいに組立て、釘付けにする。その四本の丸棒は、なお上の方に一メートル以上出しておく。一メートルの高さのところで釘付けにしてある丸棒には、五センチメートル間隔で横棒を打ちつける。なお、四本の柱になって丸棒の下方には、台を強固にするために、やはり丸棒を打ちつけておく。これで籾の叩き台ができあがったのである。
次は篩《ふるい》を作らなければならない。たまに町に行った時か、または、研究所の人に頼んで適当な金網が見つかったら、それを買って貰い、荷物用の空箱の板を適当な大きさに切って枠を造り、それに金網を打ちつけて造る。金網もみつからない者は、山に行って蔓を取って来て、木の枠に網を造って打ちつける。叩き台の囲い布や籾を乾す布は、布団カバーや敷布を利用する。
扇風機の代りには、石油の空缶があれば、これに籾を入れて高いところから少しずつ籾を落せば、自然の風が精選してくれる。これで、なんとか陸稲の収穫はできそうだが、刈取りに至るまでは時間といろいろな問題がある。
稲が熟し始めると、いろいろな野鳥が群をなして集って来る。一番たちが悪いのはイラウーナといって、日本の烏を半分くらいの大きさにした真っ黒い鳥である。この鳥は、稲穂が乳状態になったころから来て、籾をついばみ、乳液を吸い取るから、稲穂は粃(しいな)ばかりになってしまう。
なお、この外に小鳩が群れて来る。小鳩は日本の雀と同じである。その他ありとあらゆる小鳥が稲田に降りてきて、籾をついばむから、稲が熟し始めるころになると、だれか一人は畑についていて、鳥追いをしなければならない。空砲を放つ。花火を上げる。石油空缶を叩いて、追い散らす。しかし、小鳥は隣の畑に逃げて行くが、暫らくするとまた戻ってくる。だから、一日中ついていなければならない。
これを各耕地でやっているから、石油空缶の音がガンガンなるかと思えば、空砲の音がする、花火が爆発した音がする。 各区内ともこの鳥追いで、賑かなことである。 しかし、これをやらなければ籾は鳥に喰われてしまう。
今度は、刈り取りに入つてからがまた大変である。もし、刈り取った稲を二、三日でも地面に乾しておこうものなら、籾は皆鳥に喰われてしまって、後には空穂だけが残っている。だから、それを防ぐためには、刈り取り後半日くらい日に乾す。
一方、丸太を一メートルくらいに切ったものを四角に櫓のように五十センチメートルくらいの高さに組み立てる。それに向って稲穂を内側に櫓の上に乗るようにして積み上げて行く。稲穂は、外側には出ないから鳥に喰われる恐れはない。
リヤカーの援軍が、助けに
かくして、山形に二メートルも積み上げたその一番上に、既に籾を落してしまった藁の穂の方を結び積み上げた稲積の上に、パラッと根の方を拡げかぶせておけば、雨が降ろうと鳥がこようと、大丈夫である。以上のような作業を続けて、刈り取りが終ると脱穀を始める。
最初の稲の山積みのところへ、既に用意してある叩き台を据え、籾が遠くへ飛ばないように、ありとあらゆる布切れを持ち出して叩き台の四本柱に張り囲らし、下にも布または
落した籾は
以上のような作業順序を繰り返えし、繰り返えし、五月ころまで続けて一年間の収穫を終るのである。まだ、この時期は雨期であるから、雨の降ることもあって、話のように容易にはできない。それは、大変な苦労である。
一年間の労苦に対する報酬として、今年の収穫はまことに微々たるものであった。初めに述べたように、山が焼けなかったから、その年の収入は少いのである。(19)
四回生は生れて初めて自分の働きによって収入を得たのであるが、大体において多い者で四十俵くらい、少いものは三十俵くらいであったろう。タワコエラ区方面で、仕事に馴れているものでも、四十俵から五十俵くらいのものであった。籾一俵の値段は幾らしたかというと、六十キログラム入り籾一俵が二十ミルレースであつた。だから、三十俵収穫したものは六百ミル、五十俵収穫したものは一千ミルの収入があったことになる。当時の日当労働者の賃金は男で二ミル五百レース、女で一ミル五百レースくらいのものであった。
本年度植民地生産の籾は全部ビラアマゾニヤの精米所に送った。陸稲の収穫後の耕地にはゴム・グァラナーの植付け、その間作としてマンヂョカの植付けを奨励した。
六月半ば過ぎから七月始めになると、今年度、すなわち一九三五年度の伐採を始める用意をしなければならない。二、三の脱耕者もあって、耕地は連続的につながっていないから、伐採も山焼きも個々にやることになるだろう。すでに一年間の経験があるから、ついていて面倒を見なくてもよい。
一方、植民地事務所では四月十六日に日本を出発してくる第五回生と、家族移民七十八名の入植準備をしなければならない。(20) 五回生の入植地としては、サンタルジヤ区道路からドウツセ河(21)に向って道路を開いてあるので、この道路を中心に両側に耕地を取ることにした。HK職員に専門にこの仕事に取り組ませた。大体予定どおりに終った。
家族移住者の入植地は、タワコエラ区の空耕地の一部と、アンヂラ、タワコエラ区間の道路に沿って入植させることにした。タワコエラ区もサンタルジヤ区も、ボアフォンチ区も仕事は順調に進めているようだ。植民地の仕事も軌道に乗ってくると面白いように進んで行く。
五回生は、六月末(22)にビラアマゾニヤに着いた。内六名の呼び寄せ花嫁は、各々出迎えの夫達に連れられて植民地の自宅に向った。すなわち、一回生H君、三回生SK君、IG君、IH兄弟各々皆タワコエラ区である。二回生TB君は研究所の職員であるから、ビラアマゾニヤに居残った。外五回生と家族移民は一か月余りビラアマゾニヤに滞在し、八月初めに植民地に向った。
五回生はサンタルジヤから上陸、家族移民はアンヂラから上陸した。四回生の時は、サンタルジヤの河岸に住宅が建ててあったので、荷物の積み下ろしや運搬にも非常に楽であったが、五回生の住宅は、河岸から三キロメートル以上の奥地にある。
荷物の運搬機関が何もない。馬車一台くらいでは、大きな荷船に山と積んできている荷物の運搬には間に合わない。小物は一人一人で肩に担ぐより方法がない。幸いリヤカーを持って来ているものが四・五人いて、非常な助けになった。蟻の荷物運びのように、三キロメートルの間を行ったり来たりして、翌日一日を要して運び終った。
しかし、五回生の独身者達は植民地の現場を見て、予期に反したのか入植後間もなく五人くらい退耕して、ビラアマゾニヤに行ってしまった。いずれ、南伯に向うつもりだろう。引率者のAG氏がビラアマゾニヤに留って、入植地に来ないのが皆の意気を沮喪させた原因になったのだろう。
五回生は、山焼きまでにはまだ日数がある。その間、先輩高拓生から生活上の心得を伝授して貰ったり、仕事の指導を受けたりして過した。彼等は、先輩を見習って行けば良いのである。仕事の方では枝下ろしの不充分なところを補ったり、住宅の周囲をできるだけ家から遠くまでキレイに取りかたづけ、山焼きの折、火災の心配のないようにするため働いたりして過している。
五回生の山焼きは、寄せ焼き期間に余裕があるように十月初めとした。山は早くから伐採してあるので、乾燥は充分だ。
山焼きで、住宅延焼の危険
この時になって一つの危惧の念が起きてきた。今までの山焼きは住宅がすべて耕地の外にあったから、山焼きの折、住宅が焼ける心配はなかったが、五回生の住宅も道路も耕地の真只中にあって、耕地に火をつければ、当然家は火の海に取りまかれてしまう。(23) 果して家に延焼しないだろうか?しかし、今更現状をどうすることもできない。
山焼きの当日は、婦女子は全部耕地外に退避させた。或る者は、荷物を家の中においておけば、家が焼ける時は荷物も一緒に焼けてしまう。荷物を家の外に出しておけば、家は焼けても荷物は助かるという考えから、荷物を皆家の外に出した者もいた。山焼きに対する注意は充分にあたえてある。たいまつも用意してある。後はどんな結果が出るか待つより外にない。
一方、家族移民の方はアンヂラで上陸したが、荷物の運搬条件などはすべて五回生と同じである。ただ家族移民は家族が多いから、その力で割合に早く済んだ。耕地の方も隣同志の耕地が、くっついているわけではないから、各自が適当な日を選んで山焼きをすればよろしい。なんといっても、日本で百姓の経験のあるものもあれば、いろいろな労働もしてきている者ばかりだから、学生のように手がかかることはない。
四回生までの高拓生は、一年間の経験によって何町歩伐採すれば、幾十俵の籾が取れて幾らになると、胸算用をして、七、八町歩も伐採するものもいた。もちろん、大面積を伐採する時は、労働者を使うのであるが、その方法は、日当で雇い自分と一緒に働かせるものもあれば、一町歩幾らと請負で伐採させる者もいる。
一町歩に要する伐採人夫は普通二十五人とされていた。この人数を日当で割り出せば、一町歩伐採賃銀は五十ミル以上になるが、大概五十ミルが一町歩伐採の相場となってくる。これだけ支払っても、来年一町歩から[籾]が三十俵から四十俵穫れると、大きな利益が残ることになる。
以上のような状態で、四回生までの今年度の仕事も心配はないだろう。後は全植民地山焼きを待つばかりである。
[以上<11> 第220号 昭和56年11月27日]
山焼きの猛火、原生林に入らず
十月に入り、山焼きの日がきた。注意は十分にあたえてあり、方法も教えてある。用意も出来ている。伐採地の長さも二キロメートルたらずだから慌てることもない。時間前に配置につかせ、号砲の用意もしてある。天候も好天気に恵まれ、申し分はない。
午後一時となった。号砲一発火はつけ始められた。火は次第に大きくなっていく。皆が中央道路を渡るころは猛然たる火煙の勢となってきた。この猛火の真中にある家や家財道具がはたして無事であろうか。心配だけしていても仕方がない。火をつけ終って見なければ判らない。火をつけ終ったら、向う側の原生林の中に逃げこんで、山の中を抜け、サンタルジヤの道路に出て帰ってこいと、説明してある。
猛火は中央道路を渡って、向う側の原生林に近づいている。山焼きの時これほどの猛火が原生林の中には絶対に入らないのも、アマゾン不思議の一つだ。アマゾンには山火事はない。中央道路を猛火は通ったけれども、まだくすぶりがひどく、奥は見えない。入口の耕地は煙も薄い。行ってみると、入口の耕地の所有者はOHという熊本県出身の学生で、剣道も二段である。
木の根に腰かけてブスッとしている。妻君はかたわらでワンワン泣いている。行くとOHが“全部焼けてしまいましたよ”という。見ると、倒木に寄せかけてあった家財道具が皆焼けている。私は近くにいた古い学生にいいつけて、事務所にある大八車で、私の家から寝具や、炊事道具など最低限度間に合う物を運ばせた。
さすがの猛火も向う側の原生林のところで鎮火しかけているので、火つけの学生も集って来なければならないと思っているが、皆集ってこない。八人まで集ってきたが、まだ四人たりない。何をしたのかな?山の中で迷っているのだろうか。もう暫らく待とう、待とうと、思いながら鎮火するまで待ったが、帰ってこない。
これは悪くすると、火にまかれて焼け死んだのでは?と思うと気が気ではない。しかし、この火の中では探しようもない。もう暫らく、もう暫らく、と思いながら待っていると夕方になった。中央道路の煙も大分うすくなってきた。その時、道路の奥の煙の中に人影が現われた。こちらへ走って来る。四名だ。助かっていた。と思ったとたんに、ドッと涙が出た。
走り着いた四名に“いったいどうしたのだ”と尋ねると、火が先に回っていて出口がないから家の中に逃げ込んだ。暫らくすると、家の周囲はゴウゴウたる猛火の音、煙は家のすき間からはいってきて眼にしみる。家の中の温度はグングン上ってきてどうにも我慢ができない。といって外へ出ることもできない。一時は焼け死ぬかと思った。体の水分が出てしまったかと思うほど汗を出して辛抱しているうちに次第に火の音も遠ざかって行った。しかし外はまだモウモウたる煙で出られないから今まで煙が薄くなるのを待っていたのだ、ということだ。
ともあれ、事故はOHの家財道具を焼いてしまったにとどまったが、一時は待っている皆の心配は、非常なものであった。とにかく五回生の山焼きは、小事故はあったが、山は良く焼けた。後は寄せ焼き、蒔付けと先輩高拓生を見習って仕事をしていけばよろしい。OHのところには皆が持ち寄りで助けてくれたから生活はできるようになった。
四回までの高拓生も初年度のような大規模な山焼きはなく、各自個々に焼いて上できであった。各人が陸稲蒔付けの手配をしている。
ところが三回生のHUの妻君が病気で重体となった。HU兄弟とも三回生で来たのだが、妻君は同じ三回生のHDの妹である。そのまた妹が五回生のHZ(DHの従弟)の妻君として兄妹三人で渡航してきているのである。そのHUの妻君が病気になって、これは駄目かも知れぬと思われたが、サンタルジヤの城間医師に診て貰うことにした。(24)
真夜中にタワコエラから三回生が四人で私のところに知らせてきたので、城間医師宅に行き、酔いつぶれて寝ているのを叩き起して事情を話し、高拓生と一緒にタワコエラまで行って貰った。城間医師は、すでに酒毒に犯されており、そのうえ老人だ。何ら交通機関のない山道を夜中に四・五キロメートル歩いてくれというのは無理かも知れないが、役目上やむを得ない。しかしHU君の家に着いた時はヘトヘトになっていて、病人を診るどころではない。
吊ってあったハンモックに、そのまま倒れこんで眠ってしまった。HU兄弟はクリスチャンであったから、聖書を開いて人間が死に至るところの章を静かに読み上げていた。妻君はその夜遂に死亡した。城間医師は翌朝眼をさまして、これから病人を診る
医療関係ではビラの研究所にTYと言う陸軍関係の医師が一人いるが、これもあまり頼みになる医師ではない(25)。一週間に一回ビラからモーターが食料を積んで来る時、廻って来るだけである。開拓当初の医療施設としても不充分なものであった。
ST事件
侠客風のが仁義切り…
本年は天候も上上、全植民地の仕事も順調に進んでいる。毎年の入植記念日も近づいてきた。昨年は植民地から出かけて行って、ビラアマゾニヤで運動会を催したが、今年、すなわち一九三五年(26)は国士舘高等拓
円形のグランドをつくり、運動の種目は数十種類、丁度日本の小学校などの運動会と同じようなものである。午前、午後を通じて行われた。日本人も全植民地から家族を連れ、弁当持ちで子供などは大喜びである。ブラジル人は、何が始まるのか、と思い好奇の目をもって見ている。彼らはボール蹴りやダンスなどの単純な運動の外には知らない。日本人が各種目ごとに異なる運動を整然と進行させて行くのに驚異の眼を見張っていた。
夕刻までギッシリ詰った運動競技も無事に終り、全植民地から集った高拓生も各植民地に引き上げた。後かたづけも終り、十人ばかりの高拓生が越知支配人の家の前で
運動会も無事に終り、心からくつろいで、今からデカンショでも出そろうかな、という気分の夕暮れ時、一人の闖入者が現れた。第五回生と同行してきた家族移住者の中の一人、STといって日本にいる時から侠客をもって任ずる遊び人の類(たぐい)の人間である。
「あっしゃSTテンという者でごわしてー」と中腰になりながら右手のひらを上に向けてやり出したものだから、高拓生がむくれてしまった。三回生のOSという豪傑が立ち上って「我々は、今アマゾンで新しい社会を造ろうとしているのに、日本の古い社会の仁義などきるナ!!」といい、
[以上<12> 第221号 昭和56年12月27日]
記事になったマナオスでの米売り
ところが、そこに居合せた高拓生が皆立ち上り、手当り次第得物を取って、STをなぐり倒し、ところきらわず打つ蹴る、なぐるで、動けないまでにして、手足を縛り上げ、建築材料の入れてある小屋の中に放り込んで、鍵をかけてしまった。ところが丁度放り込まれたところが石灰の袋がやぶけて粉がいっぱい散らかっている上だからたまらない。呼吸ができないのである。息をすれば石灰を咽喉に吸い込んで、やけるようになる。
STも最初の間は酔った勢で「椰子の葉の間からでも鉄砲は打てるからなあア」と強がりをいっていたが、そのうちに、次第にたまらなくなってきて、泣き声を上げ始めた。「越知先生ッ出して下さいッ」「越知先生ッ」とヒーヒー声を出している。それでも翌朝パリンチンスから警官がくるまでは出さなかった。
一方、OSの方は出血がひどい。高拓生が指で血管を押えて出血を止めていたが、そのうちに指がしびれてきて感じなくなる。次の高拓生が代って押える。早く医者を呼んできて止血をせねば出血多量で死んでしまう。
一人の高拓生が自転車でサンタルジヤまで駆けつけることにした。城間医師を、また山道を五、六キロメートル歩かせたのでは翌朝になってしまう。OSの命は、このままでは明朝までもたない。自転車で行って、自転車の後に城間医師を乗せて連れて来た。早速止血の手当てだけをして、明朝サンタルジヤに連れて行き、縫合手術をするという。
翌朝は、パリンチンスの巡査とビラの戸田医師が来た。巡査のいうままにSTを物置小屋から引き出して見ると、体中殴られて黒く腫れあがっている。咽喉はお多福風邪を引いた時のように首と胴との見さかいができぬまでにふくれている。巡査はこの有様を見て「この位なぐったのだからモウいいだろう。許してやれ」という。警察の方でどうもしないのならば高拓生も仕様がない。そのまま放してやった。後の話だが、それから数カ月後STは、植民地からいなくなっていた。
OSの方は、翌朝サンタルジヤに運び、四回生のYNの妻君が看護婦の経験があるのを使って吸入麻酔を吸わせ、手術をした。OSは、ウンウンうなりながら苦しがっていた。手術の痛さよりも麻酔を吸入することが苦しいらしかった。とに角手術も無事に終ったので、私の家に運び、一か月余の傷養生をした後に、健康体になり、独身仲間の彼のグループのところに帰って行った。
マナオス向け籾の輸出を始める
一九三五年度の籾の収穫は、三千俵くらいであったが、今年三六年度の籾の収穫の見積りは、五千俵ないし六千俵と見なければならない。ビラアマゾニヤの小さな精米機だけでは間に合わないから、マナオス向けに輸出することにした。このころになると、アマゾニヤ産業研究所もマナオス市に事務所を開き、神戸高商出の村井氏が所長として在任していたので、商談は滞りなくできていた。マナオスの商工会議所が大きな精米所を所有しており、そこにペルー下りの日本人が働いていた。そこで精米してマナオスの町に白米を売り出したのである。
マナオス市民はびっくりした。白米などは皆他州南伯から輸入されるものと思っていたのに、地元で生産されているというので、どこで生産されるか話を聞きつけて、マナオスの新聞記者、写真班がわざわざアンヂラまで記事や写真を撮りにきた。
そして、上航の汽船がアンヂラに寄港して、籾を積み込む風景や長い桟橋の上を労働者が列をなして籾の袋を担いで行く写真や記事がマナオスの新聞に大々的に発表され、市民間ではアマゾナスにも米ができるという話で持ち切っていた。「その生産者は日本人である」とて日本人が高く評価されるようになった。
一方、植民地では籾の品質を統一するために籾の格付けを始めた。始め植民者大会を各区で開き、将来文句がでないように、マナオスの白米の値段から説明し、白米値が幾らだから精米賃、運賃その他の費用がこれだけである。
だから、現地における籾の値段はこれだけである。と納得の行くように説明し、また格付法においてもこんな方法を取る。すなわち精選した籾で石油空缶一缶の重量はこれだけだ。二十キログラム以上は一級品、十八キログラム以上は二級品、それ以下は三級品、なおパラー州トメアスーより取り寄せた籾の検査器、掌に乗るような真鍮の皿の中にセメントを詰め、それにすり臼の歯形に筋を入れ、上下合して、二、三回廻すと籾はむけるのである。よく乾いていればきれいにむけるし、半乾きだと米が砕ける。なお赤米が幾粒あるかも分かる。
これらの検査によって一級品から三級品まで等級をつけ、それに各等級わずかの値段の差をつけて検査することを説明した。検査員は私(高村)である。誰も不服をいう者はいない。私は、籾の生産時期になると、一週間に一回、馬か自転車で助手を一人連れ、各高拓生のところを廻り、籾の検査をして歩いた。(28)
籾の生産も初年度は四十俵か五十俵であったが、次第に生産量を増して、一人で百俵から二百俵生産する者が出てきた。私が検査を済ました籾の俵は各区の倉庫に運ばれ、そこからHK職員が仕立てた二頭立ての牛車でアンヂラの倉庫に運び、汽船に積んで、マナオスに送られるのである。
高拓四回生の到着の年から始まった大道路中心主義の植民地も、米作から始まり順調に進みつつある。米作の中に植え付けたゴム樹も一年以上を経った今、五、六メートルの高さまで伸び、遠くから見てもその列条がみえるようになっている。
その跡に植えたいのはマウエスのガラナーである。ガラナーはマウエス以外に生殖しない、と一般に言触らされている。しかし、私はマウエス以外の土地で、一、二本のガラナーが育っているのを見たことがある。だから、マウエス以外の土地でガラナーが育たないというのは、種子に秘密があるのではないか、だから苗で持って来れば大丈夫だ、と考えた。
アンヂラとマウエスは近いから、研究所のモーターでマウエスに出かけて行き、ユダヤ人の田舎店の人の集っている所で“ガラナーの苗一本幾らで買うから集めてこい”と宣伝した。そうして、五千本くらい集め、夜行でアンヂラに帰り、翌日、直ちに高拓生に配布して植えつけさせた。しかしこの結果は未だ三、四年先のことだ。(29)
高拓生はマンヂョカ芋の粉のファリンニャの価値を知らない。ファリンニャは日本における米と同じでブラジル住民が常食にしているものである。マンヂョカを植えるように勧めて、数人の者が第一回陸稲収穫の後に植えたものがすでに収穫期に入っている。ファリンニャ製造の設備をしなければならない。第一に、ファリンニャを煎り上げる窯が必要だ。私は、アンヂラとマウエスの中程にあるバレーラというところで、ファリンニャ煎の鍋を製造していることを知り出かけて行き、六個買って来た。
そして、希望者に元値で分け与え、据え付けは付近の土着民の労働者にやらせた。後は、芋の皮むき用の包丁、芋摺り用に石油缶の一片を取り、それに釘で細かく穴を穿がった物、鍋の中でファリンニャを掻き廻す物等があればよい。製造は、労働者を家族単位で契約し、一家族か二家族を就労させ、造った物をパトロンと労働者と半分けという条件にすると、土人は喜んで働きにくる。土人の家族は子供まで来て働けるし、喰うものは造っている。喰えるし、造ったものを半分貰えるからこんな好い条件はない。
また、パトロンの方でも、労働者の家族の者を必要に応じて他の仕事に転用できるから、農場の管理上にもはなはだ都合がよろしい。こういう状態で土法でファリンニャを造らせ始めたが、ファリンニャも製造して見ると、良い金になる。(30) 一篭三十キロ入りで八ミルから十ミルしている。土人一家族の製造能力は一日一篭くらいだが、毎日のことだから一か月では相当のものになり、良い常収入だ。そのマンヂョカは陸稲のように害虫や害鳥がいない。二年近く土の中に置くことができる。なかなか調法なものだ。
私は、このファリンニャ造りを研究するために、パラー州のブラガンサ鉄道沿線を視察した。そして、馬力を利用した芋摺機や、井桁式櫓の中で摺った芋を絞り上げる方法等を導入して、土法で製造するファリンニャの十倍以上の能力を上げることができるようにした。
マンヂョカには二種類あって、一つはマンヂョカマカセーラと称し、畑から堀り上げたら洗って皮をむき、そのまま煮て喰えるが、もう一種類のマンヂョカプラボと称するのは、芋の中に強烈な青酸加里の猛毒を含んでいるので加工しなければ食用に供されない。芋摺で摺り下したものを絞り機にかけて絞ると沢山の汁が出る。この汁を豚や牛が呑むと立ちどころに死んでしまう。人間でも同じことだ。ところがこの猛毒を含む汁を火にかけて加熱し、ふっとうさせると、実にうまいツクピーと称する調味料になる。アマゾンでは魚を喰う時はこのツクピーなしには喰べないほどである。粉の方も同じことで、フォルノ(鍋)の中で煎り上げると常食になるのである。土人は好んでマンヂョカプラボーを植える。各区とも家族労働者を入れてファリンニャを製造することが盛んになってきた。
植民地の生産は日に日に増産されて行きつつあったが、独身者の中にこの原生林の中の無聊にあき足らず、南伯を志して退耕する者もいる。殊に、乾燥期に森羅万象が乾いて耕地の中に枯葉がチリチリ舞うようになると、独身者の精神もひからびてきて、今年取った米の代金でサンパウロにでも行こうか、という気になる。そして、或る者は行く。しかし、雨期に入って森羅万象が潤ってくると独身高拓生の精神も落ち着いてきて、自分の耕地で働き出すのである。この当時、アメリカ人なり、ヨーロッパ人なり或はブラジル人にしても、ワイクニッパやアンヂラ河の河岸沿線を航行する人があっても、この原生林の真中で、東洋文明を開きつつあるということに気付いた者は一人もいなかったであろう。
高拓六回生の到着
六回生は十一人(31)皆夫婦者である。呼び寄せ花嫁がTU夫人、MM夫人、ON夫人、KJ夫人、外はマウエス植民地行きKZ家族数十人であった。引率者はNZ、これに上塚さんが同行していたが、百万町歩コンセッション問題でリオで下船した。
六回生は四月日本を出発し、アマゾン着は六月末(32)であった。ビラアマゾニヤに一カ月近く滞在し、七月末に入植した。入植地はドーッセ区で五回生の耕地に続いた奥である。総ての準備は、できていたので、サンタルジアから上陸し、旧先輩の皆に迎えられ、援助されて荷物の運搬も終り各自の耕地に落ちつくことができた。後の仕事は植えつけから収穫まで全部先輩高拓生を見習って行けばよい。後になる高拓生ほど仕事が楽になってきた。
神戸商大田崎学長来訪
第六回高拓生が植民地到着後間もなく、神戸商大の田崎学長が植民地を訪問してきた。当日は、植民地を一巡する時間はないので、高村宅に一泊された。翌日は早朝から植民地を巡回するといっても、乗り物はなにもない。田崎学長はすでに老年であり、全植民地を歩かせるわけには行かない。当植民地で現在唯一の乗り物といった[ら]自転車だけである。しかし田崎学長に自転車に乗れといっても不可能である。やむなく自転車の後ろにリヤカーを結びつけて空箱を一つ入れ、それに腰かけた田崎学長を四回生のCB君が自転車を踏んでひっぱって行くのである。
平地はよいが、坂にかかると自転車を踏み切れないので、皆で後押しをする。こんな具合で数時間を要し、植民地を一巡してワイクラッパ河の河岸に出て、その広大にして清澄な景色に見とれている。やがて、空箱に腰かけ河岸の白砂をいじりながら「綺麗な白砂だな、これだと硝子の原料になると思う。一つ硝子工場に交渉して見よう」などと話しているところに、第五回生と同行して来た家族移民のOQが一回生のATを連れて現れたそして、いきなり田崎学長の前に跪づき、
「昔でいえば殿様の行列の駕籠側に土下座して挟文(ハサミブミ)で陳情する筈ずのところですが、今日は略して直直にお聞き取りを願います」といい出して来た。田崎学長は何をいい出すのやら、と思いポカンとして聞いていると、このアマゾンなどは人間の住むところではない。それに私どもは、騙されて連れてこられたのである。こんなところには住んでいられないから帰して貰いたい。というのである。
田崎学長は、「私にはそんな事は分らぬ。もう暫らくしたらリオから上塚さんがくるから上塚さんに話したら好いだろう」、といって取り合はぬので、OQ達もやむなく帰って行った。
OQというのは千葉県出身で男の子ばかり六人もいる大家族であるが、家長が働く気がなく、渡航前からの政治家くづれで、ある代議士と結託して、いろいろな策謀ばかりめぐらしていた結果、故郷にいられなくなって、今度のアマゾン渡航となったのである。植民地到着後も、以前の悪癖が出て、ATと二人で高拓生や家族移民の家を一軒一軒廻って歩き、アマゾンや上塚さんの悪口を吹聴し、植民地内で騒動を起こそうと計画していたのである。植民地内の陸稲が人の腰くらいまで伸びいる道路を、毎日二人で歩いているのを植民地内の人は見ている。
[以上<13> 第226号 昭和57年5月27日]
百万町歩コンセッションの喪失
一九三六年第六回高拓生と同行して来た上塚さんは、近年日本軍閥の支那、満州への進出を注目され、伯国においても日本の権益等について論議されるようになり、上院議院でもアマゾナス選出の上院議員クーニヤ・メロが主となって、アマゾンの百万町歩コンセッションを問題として、これが取り消しを画策していることを知っていた。
上塚さんはどこからともなく入って来るそんなニュースにより伯国の空気を察し、第六回高拓生と同航してきてリオで降りた。それは、百万町歩コンセッション確保のためであった。リオでは「アマゾン百万町歩コンセッション」無効案が上院で論議されていた折である。上塚さんは、大使館の野田一等書記官と、民間人の椎野豊氏及びリオまで夫人を迎えに行ったTU氏をリオに留めておき、親日の互知日議員を個別訪問して法案の非現実性を訴えて、反対投票を依頼した。上塚さんは、椎野氏等の通訳により毎日毎日三か月近く伯国の議会相手に奮闘し、金も大分費消したらしい。
高拓生は遥かにそんな話しを聞き、「伯国の代議士にばらまくような金があったら、現地にきて土地を買った方が得だ。百万町歩のコンセッションを取ったところで、どうせ山奥だ。河岸の土地は皆持ち主があるから買わねばならぬ」。と高拓生同志話し合い、百万町歩には全然関心を持っていなかった。
しかし、上塚さんとしては百万町歩コンセッションということは、日本政府に対しても、政治家や実業家に対しても一枚看板であった。この一枚看板がなくなるということは今後の事業推進上非常に不利となる。上塚さんは、政治家として選挙や投票等の運動には馴れている。しかし、ここは外国である。外国の政治家、外国の議会を相手取り運動することは、如何に苦心し、惨憺たる思いをされたかが分かる。しかし、結果は一票の差で上塚さんの敗訴となった。そして遂にアマゾン百万町歩コンセッションは消えてしまったのである。(33)
OQ事件
OQがATを連れて植民地を巡って歩くことはすでに前述したが、彼等はその後も相変わらず同じ行動をとっていた。何をいっても政治家くづれで弁舌には長じていて、普通相対で話していては、高拓生や一般移住者は彼等の言葉に巻かれてしまう。それをOQらは自分達の意見に賛成したものと見て、今度上塚が来たら、ひと騒動起こして南伯の方への引越し費用を取ってやろうという考えで、張り切っていたところへ上塚さんはTU氏を従えてビラアマゾニヤに着いた。
上塚さんは、ビラアマゾニヤの研究所において職員及び高拓生を集めて、今日までの経過、今後の事業の前途及び国際情勢などを詳細に説明し、決して心配することはないから、従来どおり安心して業務に邁進するように話をした。
翌日は辻支配人同道で植民地に向い、アンヂラの桟橋にモーターを着けた。植民地職員はじめ、高拓生、一般移住者等多数の出迎えを受けて、橋に上って来た上塚さんの顔を見るなり、OQは唐突に、
「ヤア上塚さん、赤道直下炎天の四十度は暑いですナー」
「ブラジルの国会ではどうだったです、日本の国会のようにいかなかった?」挨拶も抜きにして話しかけてくるのを上塚さんは相手にせず、事務所に直行して室内に入った。OQも事務所に入って上塚さんの机の前に腰かけている。職員、高拓生の一部の者も室内に入って座り込み様子を見ている。
事務室の外の廊下をOQの四~五人の子供が、棒を引きずって行ったりきたりして歩いている。上塚さんはそれを見て怒り出してしまい、
「貴様らなんだッ!俺に向って棒ぎれを持ってきて、不都合千万な。その棒ぎれこっちにもってこいッ」と怒鳴りつけた。
OQは待っていましたとばかり立ち上り、
「貴様らとはなんだ、あれは俺の子供だッ俺について来ているのだッ、君がそういう態度を取っているから、君の弟子の越知なんかでも同じ態度を取って、昨日俺に居丈高な態度で接してきた」
上塚さんもOQも立ち上って、こんな口論が続いている時、辻氏はスッカリ慌ててしまい、桟橋の方にいた伯人にまで「ベンカ、ベンカ、ベンカ!(こい)」と叫けんだものだから、何にも知らぬブラジル人まで走って来て事務所を取りまき大騒ぎになってしまった。
室内の中ではOQをなだめようとした尾山良太の首筋をOQが絞め上げて、
「この二股大根野郎が、血は見せないといったではないかッ」と怒鳴れば、尾山は
「どこに血が流れた、血は流れていないではないかー」と怒鳴り合っている。
三回生と同航の二回生HTが、さっきからムズムズしていたが、いきなり立ち上って行ってOQの肩をつかまえ、事務所の外へ引きずり出してしまった。他の高拓生も後について行って、OQを袋叩きにしかねない有様であったのを他の人々が止めた。OQの長男は「HTが俺の親父の体に手をつけたッ」と棒で地面を叩きながら泣き叫んでいたが、だれも取り合うものがいなかった。
上塚さんは、すでに平生の冷静な態度にかえっていた。これから植民地を一巡りして、各区でビラアマゾニヤで話したと同様、高拓生及び一般移住者に話して歩く心算で出発の用意をしている。[以下 誤まって次回の原稿が混入している部分、割愛]
先ず最初に、タワコエラ区の倉庫に向かって徒歩で出かけた。アンヂラに集って居た高拓生も皆従った。勿論OQ・ATもついてきた。倉庫にはタワコエラ区の高拓生が全部集っていた。OQもその中に混じって腰かけていたが、意中は大勢の前で上塚さんをいい負かしてやろうという腹のように思えた。ATは二人の口論を筆記する心積りで、懐から帳面やペンを出して頁をめくっている。上塚さんは一同に挨拶をして、いよいよ本題に入ろうとして二言、三言いったのに対して、OQが反対議論をふきかけ始めた。
一回生のM君が、スックと立ち上がって大喝一声「何をいうカッ」と怒鳴りつけた。OQはその一言でだまりこんでしまい、ATも出していた帳面を懐中にしまい込んでしまった。上塚さんの話は三十分くらいで滞りなく済み、タワコエラの高拓生に別れをして、サンタルジヤに向かって徒歩で出発した。OQ達はまだついてくる。
サンタルジヤでは皆事務所に集まっていた。ここは高拓生ばかりでなく、家族移民も集まっていた。OQは、家族移民が集まっているということに眼をつけサンタルジヤまでついてきたのである。家族移民は高拓生と違って、自分の意見に賛成してくれるだろうというのがOQの考えであったのだ。しかし、上塚さんが話を始めたが、OQは、家族移民のだれも自分の意見に同調してくれる人が出てこないので、ここでもだまり込んでしまった。上塚さんはサンタルジヤでも無事に話を終わり、また徒歩でドーツセ区に至り、同じような話をして一同に別れを告げ、アンヂラへ帰られた。しかし、高拓生のうち四十名くらいは、アンヂラまで上塚さんを送ってきた。(34)
[以上<14> 第230号 昭和57年10月27日]
上塚さん一同が、ビラアマゾニヤに帰って行くのを送り出した後で、高拓生一同はワイワイ議論を高潮させ、“OQのような奴を植民地においては植民地の平和と発展を乱してしまう。あんな奴は、早く植民地から叩き出さねばならぬ。もし、出なかったならば、縛ってかつぎ出してしまえ。”ということに意見が一致して、今から直ちに実行しようという事になった。越智支配人は「俺は、そんな集団暴力には賛成できない」といっていたが、後ではやむなく皆の後についてきた。
高拓生は、縄を持つ者、棒切れを持つ者等非常な勢いでOQの家に押しかけて行った。アンヂラ事務所からOQの家までは余り遠くない。歩いて二十分くらいだ。高拓生一同はOQの家に着くと、そのまま家の中になだれ込み、「貴様のような奴の家族は、この植民地にはおくことはできないから今直ぐ出て行けッ」
「出なければ叩きのめすぞッ」
「縛ってでも担ぎ出すぞッ」
「高拓生は真剣だぞッ」「家も何もかも焼き払ってしまうぞッ」各自声高に怒鳴りながら、今にも家を叩き壊しそうな気配に、家族の者はウロウロしているだけで、身の処しようがない。OQは最初抵抗しそうな気配を見せ、一度奥に入って出て来た時、何か手にしているようであった。一回生のZ君が「君は今何を持ってきた」とOQを腰かけている椅子から押しのけて見ると、金槌を尻の下に敷いていたので、それを取り上げた。細君は高拓生の前で腰を低くして歩き、「金がなければ働きながらでも出て行きますから乱暴はしないで下さい」と頭を下げている。OQもすっかり抵抗力を失い、首をうなだれている。ATなどはどこにいるかも分からない。
OQが出て行く決心をしたのは精神的にまいってしまったからである。自分が一年近く植民地を巡って歩き、上塚を攻撃し、アマゾンを誹謗して歩いた時、だれ一人自分の説に反対する人はいなかった。だから、今度上塚がきたので、俺が攻撃の火の手を上げれば皆双手を挙げて立ち上がるものと思っていたのが、だれ一人OQの味方をする人はなく、あげくの果てには、植民地全体で俺を追い出そうとしている。OQは、こう考えてきた時、反抗する気力も失い、高拓生の要求に従ってこの植民地を出て行く決心をしたのである。出て行くということになれば高拓生は文句はない。家族の者が慌てて荷造りを始めたのを手伝って、縄をかけたり担いだりしている。
一時間足らずで荷造りは終わった。高拓生も手伝って皆で荷物をアンヂラの港まで担ぎ、そこに繋いであったバテロン(荷積船)の中に積み込んでしまった。これから夜行でビラアマゾニヤまで下航するのである。高拓生の大半は監視のために船に乗り込んできた。
ATなどは、OQの横に小さくなって腰掛けている。同じ高拓生でありながら話しかける人は一人もいない。ATは、高拓一回生が揃って、希望ヶ岬植民地に入植したり、アンヂラ植民地に入植したりした時は、共同作業だから一緒に喰付いていれば、なんとか名目も立ち、飯も喰うことができたが、タワコエラ区入植のように独立生活で、全部を自分がしなければならぬことになると、一人では何もできない男であった。自分の住宅さえも建てられないで、豚小屋のような屋根と囲いのあるバラックを造り、中の地面に板が二、三枚並べてあるだけである。なるほど、この板の上に寝て夜を過していたら、上塚さんを恨むようになり、OQなどに引きずられたのも無理はないと思われる。
ほとんどOQの家に寄食していたようだ。船の中でも、南伯に行くならば靴がない、などいって、OQの子供の古靴をこれは合うとか、合わぬとかいって、自分の足に合わせていた。船足はおそく、ビラアマゾニヤに着いたのは、夜明け前であった。早速上塚さんと辻支配人に一部始終を話し、船便があるまで、ビラアマゾニヤにおき監視してもらうように頼んだ。
OQ達は、旅費を作るために持ち物を売るといって、広間に縄を張り渡し、女の着物やら洋服やらいろいろな物を吊してならべていたが、余り売れていないようだった。OQの家族だけでも九人、それにATを加えると十人になるから船賃も少しくらいでは足りないはずだ。
植民地から来た高拓生はOQ達をビラアマゾニヤに引渡し、モーターボートで植民地に送り返してもらった。
一時不愉快な気分が漲っていた植民地も、朗らかな平和な植民地となった。後に残っている家族移住者は皆、真面目に働く家族ばかりであるから問題は起きない。その後OQ達は船便を得ていつのまにか南伯に去っていた。あるいは、上塚さんが旅費の少しくらい出したのかもしれない。
[以上<15> 第235号 昭和58年3月27日]
サンタルジヤ区の施設完備
サンタルジヤ区施設物としては、今まで事務所・売店・診療所だけであったが、その後公会堂が増設された。なお、植民地内の産物が増産されるに従って、籾などもマナオスに輸出するよりも、現地で白米にして白米を売り出した方が運賃の面でも得である。また、植民地内の食用米を一度外へ出して、白米になったものをまた、植民地内に受け入れるのも二重の手間で損をするということから、サンタルジア区に精米所及び大きな籾倉庫をも増設した。
精米所係としては、ビラアマゾニアから第二回生のAZ君が来て据えつけから精米までするようになった。(35) 植民地で精米をすると、副産物として米ぬかや、くだけ米、籾殻等が出てきて、今までできなかったこと、例えば、米ぬかは、豚の飼料になるから養豚が始まり、小米は鶏の飼料になるので養鶏を始め、籾殻は肥料等に転用できて野菜栽培も盛んになってきた。
そこで、植民地内の不充分な食料が補ぎなわれるようになってきた。なお、米の増産に従って附属物の藁が沢山出るようになり、百俵以上収穫する人の耕地には、小山のように藁が堆積される。
雨期に入ると、雨で毎日ぬれている藁は次第に上から腐っていく。内部から醗酵してくる熱で菌(きのこ)がぞっくりはえてくる。初めは毒茸ではないかと思い、だれも取る人はなかったが、本で良く調べて見ると原茸という食用茸であることが分り、皆大喜びで食べるようになった。この茸を塩水に漬けておき、後で焼いて食べると、ピンガのさかなにはもってこいの好物である。しかし、この茸は少なくとも百俵以上取る人の藁積みでなければ生えない。五・六十俵の人の藁積みには出てこない。
アンヂラ牧場でも牛が二百頭以上に増えてきて、毎週一頭を屠殺するので、その肉を牛車でサンタルジヤやタワコエラに運び高拓生達に配給するようになったから、食料不足で道路わきのシビルビーなどの道草を野菜がわりにしていたのが、大分緩和されてきた。
……省略(城間医師の死亡)……
高拓第七回生到着
第七回生は、一九三七年五月三十日日本を出発した。アマゾンに着いたのは、七月末である。引率者はなく、学生中の年長者SHが中心になって渡航してきた。七回生は四名に過ぎなかった。第五回高拓生以降、人数がしだいに少なくなってきているが、その原因はどこにあるか、高拓生がアマゾン開拓に適しないとはいい得ない。すでに今日まで一九三一年から一九三六年までの六年間、高拓生は高台農業において開拓の成績を上げてきている。
渡航高拓生の減数の原因は、日本内地にあったのだ。当時、一九三七年ころは、日本軍部・政府・国民の考えは、満州進出一本に絞られ、支那全土に戦線を展開し、太平洋戦争にも踏み切ろうとしている時であり、ブラジルやアマゾンなどに日本青年を送出そうとする考えなどは全然ない時であった。アマゾン渡航の高拓生の数が減少してきたのもやむを得ないことであった。
現に、上塚さんは、当時の陸軍大臣小磯国昭に呼びつけられ、「本気でアマゾン開拓などを考えているのか」と叱られているくらいである。(36) アマゾンなど日本では殆んど問題にされていなかった時代であったから、高拓校に入学する者もなくなり渡航学生の数も減少してきて、遂には高等拓
第七回生は四名であったが(37)、内、MA一名は第三回生MTのボアフォンチ区の耕地に行くことになったので、七回生として独立して入植するのは、三名のみとなった。すでに用意してあったサンタルジヤ道路の延長線で、アンジラ道路と連結するところに入植した。
三家族くらいの少数では、世話する方でも張合い抜けした感じだが、周囲に先輩高拓生のベテランが沢山いるので、話を聞いたり、仕事を教えて貰らったりする便宜は幾らでもある。
[以上<16> 第236号 昭和58年4月27日]
楽しいはずのピクニックが……
今年も乾燥期に入った。毎日室内で三十五、六度、家屋外四十度前後の暑さでは、人間も植物もあえぎながら生きている状態である。椰子や竹・密柑の葉までチリチリにひからびてくる時である。この時期は心の浮きたった学生がサンパウロにでも行こうか、というような考えを起こす時期である。
また、一般的に、割合に暇な時であるから、毎日の生活をもてあましているのである。したがって、ピンガでもという気になる。
毎日の生活が、することも楽しみもなく、毎日眺めるのも原生林のたたずまいばかりである。高拓生も肉体的な苦悩には今まで耐えてきているけれども、精神的苦悩に打ち克つには、まだ修練を多く経ていない。淋しくなればピンガを呑む。精神的煩悶が起これば、ピンガを呑む。そして、そのしわ寄せは皆私のところに持ってくる。毎晩のように酔払った高拓生がきて騒いでいる。
中には愚痴を並べる者もある。その都度、困るのは私の家内である。こんな原生林の真中に住んでいては、時々の来訪者があっても、ちょっと店に行って何か買って来るということもできない。電力のないところでは冷蔵庫もない。家に貯蔵物など何にもない。結局、道ばたの野草をつんできたり、四、五羽いる鶏をつぶすということになる。高拓生の集まりの時など何んにもない。
家の後ろには、空瓶が富士山形に積み上げられている。こんな生活に耐えている家内を慰める心算で、タワコエラの河岸にピクニックに行くことを考えた。毎日、毎日原生林の中に閉じ込められて、夜は酔払い相手やお客さんの接待に苦労するよりも、時たまワイクラッパ河岸のような
出かけるといっても乗り物はないし、歩いて行けば一里半くらいの道のり。ゆっくり歩けば二時間は要する。十時ころ河岸に着いて、なにはおいても先づひと風呂浴びてと、上塚さんが「世界一の大風呂だネ」といったワイクラッパの河に飛び込み汗を流した。それから付近にある枯木を集めて火を起こし、昼食をした。
午睡するために、白砂青松の青松に当たる水中林が、河の減水で水から揚がって砂原にある樹の枝から枝にハンモックを吊って、ひと寝入りした。午後は、近くに住んでいる一回生のM君やZ君宅に顔を出して遊びにきていることを告げておいた。
私宅にきて下さいといわれるけれども、人に迷惑をかけるのは嫌いだからやめて河岸に帰った。そして、夜のために太い丸太の枯木をできるだけ沢山あつめて火を大きくした。後はピンガを呑んでは水につかり、ピンガを呑んでは水につかりしている間に、一本のピンガは終ってしまった。
これでは夜が越せないから、小僧をアンヂラの越知支配人のところに使いに出し、二本のピンガを持ってこさせたが、一本は途中でなくしてしまい、一本しか持ってこなかった。 多分、途中で土人にでも呑まれたのだろう。その間中、家内は人に煩わされることもなく、呆然とし周囲の景色を眺めて過ごしている。
夕暮れが近づき、次第に暗くなってくる。明るいうちに夕食にしようといっても、握り飯に漬け物くらいだ。漬け物をさかなにピンガを呑むより外に方法はない。アンヂラより持ってきたピンガも残り少ない。
夕刻から天気が悪くなってきた。風が出てきた。また、昼間と同じようにピンガを呑んだり、河水に泳いだりしているうちに日は暮れた。風はますます強くなり、波はザッザーッと砂原に五、六メートルも打ち上げてきて、たき火の近くまでくる。雨もボツボツ落ちてきた。
私は、雨にたき火を消されないように火の上に大きな丸太を沢山積み上げた。この丸太が燃えるほどの火の勢いだったら、雨にも消えることはないだろう。雨が本降りになってきた。小僧は近くのファリンニャ小屋に逃げ込んだ。家内はカサを広げて火のそばに座っている。
私は、樹の枝に吊り渡してあるハンモックが、分厚い布地だから、まさか雨は浸透すまいと思い、ハンモックにくるまって寝たところが、雨はまたたく間に私の体に浸み込んできた。何時まで雨が続くか分からないが、これでは寝られないので、ハンモックを下りて、たき火の傍らに人一人寝られるくらいの穴を掘った。
砂だから手で掻き分ければ余り苦労はいらない。その穴の中に横に寝て両方から砂を体中に厚くかけ、首から上だけを外に出して寝た。傍らのたき火の地熱が伝わって来て暖かくて気持が良い。それにピンガの酔いも手伝って、雨に顔を打たれながらグッスリ寝込んだ。
ところが、家内の方は一晩中、生きるか死ぬかの思いをして過ごした。最初雨が来たから傘を広げて火の近くに座っていたが、雨は次第に烈しくなる、傘だけでは覆いきれないから、ズブ濡れになって座っている。そのうちに、雷鳴が轟き出した。
ワイクラッパ河の水面を渡って来る大波は膝元まで来る。地を裂くような稲妻の光で何か恐ろしい獣類でも山から出て来ているのではないかと、瞬間に周囲を見廻し、助けを求める術もなく、一晩中泣き明かしていた。
翌朝は好天気、明るくなったようだから眼を開けて見ると太陽の光が差している。家内がゴソゴソ物をまとめているから、どうするのか、と言えば「こんなみじめなピクニックなんてありはしない、私は帰る」と言うから私は砂の中から這い出して来て、何はともあれ体中の砂を落すべく河に飛び込んで水浴し、河から上がって家内をなだめ引き留めて置き、ハンモックその他濡れたものをひとまとめにして、小僧に持たして家に帰した。
私達はアンヂラの越知支配人の宅に伺い、本流対岸の湖(38)に行って投網などをして一日を過ごし、翌月曜日魚をさげてサンタルジヤに帰った。
楽しいはずのピクニックがみじめなピクニックに終り、明日からまた原生林の中の生活が続くだろう。
三回生MKの死
パラー州マラジョ島のブレーベスでジュトの試験栽培をすることになったため、越知支配人が責任者として赴任することになり、タワコエラ入植者三回生IG・IU・IJの三家族とともに転任していった。アンヂラに責任者がいなくなるので、私がまたアンヂラに逆戻りした。植民地も米の収穫期になり、米の検査も始まり、毎週一回以上検査道具を携えて植民地を廻った。
アンヂラ事務所員に三回生でMKがいた。彼は伊勢神宮の宮司の息子である。マナオス事務所から人手不足で困っているからだれか一人送ってくれと、いってきたからMKを仮に一時マナオスに送って、四、五日の働きを見た上で、これでよろしいということになれば、正式にマナオス事務所駐在員にするということになった。
マナオス事務所長村井氏からはこれでよろしいということになったが、今は植民地の米の収穫が忙しいから、米の収穫が終ってから、ということにして、米の収穫期中は私の後に従って米の検査をして歩いた。MKはマナオスに転勤できるということで嬉しくてたまらず、夢中で馴れない馬を馳けさせて、私の後からついて歩いた。ある日、米の検査にMKは私と一緒に馬で出かけ、ドッセ区・サンタルジヤ区・タワコエラ区と廻り夕刻遅くなってから帰途に着いた。
私はおそくなったから全速力で馬を馳けさせた。MKは馬に馴れていないからどうせおくれるだろうと思ったが、もう仕事は終ったし、家に帰りつくだけだからと思い、一人で先に帰って来た。しばらくしてからMKがフラフラになって私の家に来たから、一日の騎上疾駆で労れたのだと思ったら、MK曰く、家に帰って熱があるようだから計って見たら、三十九度あるという。
余り熱が高いので計り方が間違っているのではないかと思い、脇下、口中等なん回も計って見たが間違いない。MKはきっと米の検査の途中から熱が出ていたのだと思う。しかし、MKはマナオス転任を思い、無理をして私に付いて来たものと思われる。
もう夜になっていたが、使っている小僧を連れてカノアでビラアマゾニヤの病院に下る、という。外に方法はないので、ビラアマゾニヤに下らした。MKが病院に下ってから一か月位経った。ビラアマゾニヤからの知らせによると、どうもMKの経過は良くないということであった。
ビラの病院に医者の助手として、MKの同僚三回生のKR君が働いている。MKはそのKR君に呼びかけて「オイ六さん、俺を死なしてくれるなよ」といったという。彼MKの希望はマナオス事務所勤務であり、これにすべての希望をかけていたのであろう。私は馬を馳けさせて連れて歩いたのが悪かったのだ、と思い知るようになった。
MKはきっと前から体の不調を感じていたのであろう。しかし、今忙しい時にそれをいい出して、仕事の予定に差支えを起すようでは、自分のマナオス勤務も失格になるおそれがある、と思い無理をして私の後に付いて歩いていたのだろう。きっとマラリヤ熱かなにかで、キニーネでも呑み過ぎて肝臓を悪くしていたのだろう。それを無理して馬で馳け肝臓に刺激を与え過ぎ、今回の発熱の原因になったのではないだろうか。
肝臓の病気は治療が難しく、長びく。MKの病気も重くなる一方であった。同僚のKR君はMKの様態を見ていて、今日はどうも危ない、と思っている日に、戸田医師はパリンチンスに出張だといって出かけ始める。
戸田医師は入院患者のだれかが死にそうになると、出張だといって出かけてしまう、との風評が前からあった。それでKR君は出かける戸田医師の袖にすがって、泣きながら、今日はMK君がどうも危ぶない、どうか病院にいてくれと泣きすがって引き留めたが、戸田医師はそれを振り切って出かけてしまった。MKは、その留守中にマナオス勤務の希望もむなしく同僚のKR君に手を取られて死んでしまった。
MKの墓はビラアマゾニヤの墓地にある。立派な石碑を立ててあったが、日本人の手を放れたビラアマゾニヤは放棄されたままになっており、MKの墓なども数基の外の墓碑とともに再生林が原生林のごとく大きくなっている山の中に放置されたまま、今は訪れる人もない。
ジュト栽培 種の起源
高拓二回生OB君の実父良太氏が、アンヂラ模範植民地のジュト試験栽培耕地の中から、二本の特別ジュトを発見し、多大の苦労の末ひとつまみの特別ジュトの種子を得たことはすでにアンヂラ模範植民地の項で述べたとおりである。その後尾山良太氏は、アンヂラ高台の自宅の前に小面積の畑を作り、僅かの種子を播き、繰り返し繰り返し栽培して、次第に種子を増やしてきた。
その種子増殖の仕事といったら、苦心惨憺たるものであった。数粒のひとつまみの種子から芽ばえてきたジュトを一本でも枯らさないように注意に注意をして育てていくうちに、今まで栽培試験されていたジュトが二か月余りで花を開き、結実し、草丈も二メートルくらいで伸びが止まってしまうのだ。
ところが、尾山氏が今育てている新品種は、三か月経っても開花結実せず四か月目に開花し、草丈も四メートル近くまで伸びてきた。そうして、開花したものが結実するまでにはなお一か月を要する。乾燥期に灌水して栽培するとしても、一年に二回しか採種はできない。だから下種してから種子が取れるまでには五か月を要する。乾燥期に灌水して栽培するとしても、一年に二回しか採種はできない。
ゆえにひとつまみの種子(ジュトの種子はゴマの種子と同じくらいの大きさ)をひとにぎりの種子に増やし、ひとにぎりの種子をひとすくいの種子に増やしていくには、長日月の苦心と注意力の惨憺たる犠牲の下に行われたのである。
種子量が増えるにつれ、アンヂラ高台の自宅の前のせまい畑では増殖することができないから、アンヂラ中心部の売店下のバルゼア(湿地帯)やボアフォンチ区の自分の耕地等に採種畑を拡げていった。ボアフォンチ区の尾山耕地に植えてあるジュトを見たが、あれは播種したのではなく、苗植えをしたのである。とすると、苗をアンヂラで仕立てたものの一部を、ボアフォンチまで担いで持って行ったのだろう。アンヂラからボアフォンチまで十数キロの距離がある。それを、ときどきにせよ行ったり来たりするのは大変な労働である。何れにせよかくのごとき犠牲が払われて、次第にジュトの種子が増殖されて行ったのである。
このようにして増殖したジュトの種子が、一キログラムくらいになった時、尾山良太は本格的にジュト栽培を始めるよう、アマゾニヤ産業会社と契約をし、イリヤフォルモーザ(台湾島)(39)を借地し、フォルモーザに家族を連れて移転して行ったのである。
……省略(NYのジュト種子の出所の問題)……
尾山がフォルモーザ島に移転して、ジュト栽培に手を拡げ始めたころ、NYも会社の所在地ビラアマゾニヤの周辺のバルゼア(浸水地)を会社から借地して、ジュト栽培を始めた。かくしてフォルモーザ島の尾山、ビラアマゾニヤ(バルゼヤ)のNY及びビラアマゾニヤ研究所の農事試験場(高台)の三ヵ所で、ジュト種子の増殖が始められ、ジュト種子量は加速的に増え始めた。(40)
ジュトの繊維を取るには
この時期に刈取って
以上のような条件があるが、採種後のジュトの繊維も取って貯えていたものと思われる。かくのごとくして尾山・NYの二人は次第にジュト栽培面積を拡げていき、一九三七年には尾山はフォルモーザ島において五町歩のジュト植付面積を持つようになった。(41) 一町歩に要するジュトの種子は約三キログラムである。NYもほぼそれに近い面積のジュト畑を持っていたのだと思う。(42)
かくして、NYのジュト種子の出所は明確にならないままに、ジュト栽培は進んでいく。
[以上<17> 第241号 昭和58年10月27日]
ジュト栽培に凱歌揚がる
従来人智をもってしては、近代農業の開発・経営は到底不可能と世人に思い込まれていた大アマゾンの原始境に、一九三〇年から入植して開発に努力したアマゾニヤ産業株式会社は、一九三四年アンヂラ模範植民地のジュト試験栽培耕地より尾山良太氏がひとつまみの特種ジュト種子を得た事に始まり、これを次第に増して尾山・NYの二人が一九三七年には八、四九一キログラムのジュト繊維を産出することが出来た。
そして、これによって、アマゾンもまた近代農業の可能な天地であることを立証し、併せてこの地域における新産業として、莫大な国富の増進を期待し得ることを、ブラジル国民の前に明らかにしたことであった。
当時ジュトは、インドのガンジス河流域の特産物とされ、それ以外の所では絶対に生産不可能と世界一般からも思いこまれ、その生産額百余万トンは英国の独占品として世界に輸出されたのであった。ブラジルもまた、コーヒー、その他の農産物の代りとして年額二千余万英ポンドの外貨をもって輸入していたのを、国産に替え得る見通しが確認されたこととて、上下をあげて日本人開拓者の努力は「緑の地獄」を黄金に化せしめたとの表現をもって感激の意を表したのは当然である。
すなわち、アマゾニヤ産業株式会社は、現地開発を始めるに当たり、その社長上塚司氏は、まずその地域の状況を詳しく調査、視察して、主作物をジュトと決定し、関係者の協力を得てジュトの種子を日本(上塚氏の郷里熊本ではジュトの事をイチビと称して古くから栽培されていた。草丈はインド産より短くもっぱら畳表の縫い糸に用いられていた)、インド、サンパウロからもあつめ、それを事業中心地ビラアマゾニヤにおいて試作させ、毎年の失敗にも屈せず、試作を推進した。
最後には、アンヂラ模範植民地において大規模なジュト試作をした結果、幸運にも、高拓二回生の父親尾山良太が特異な生長を続けつつあった一本から前述のごとくひとつまみの種子を採種し得たのである。
これがいろいろの経緯を経て一九三七年には、八、九四一キログラムのジュト繊維を生産したのであるが、この生産物の市場化については次のような経路がある。
すなわち、一九三七年三月(43)、初めて九トン弱のジュト繊維を産出したので、時の現地支配人辻小太郎は、リオ、サンパウロ方面の製麻会社と取引き交渉を始めたのであったが、これら会社側は、当時ジュトはインドのみの特産品と信じていたので、アマゾニヤ産業会社の申し出では、従来のアマゾン自生の野生草の繊維を取ってジュトと称しての取引きと見なして、工場渡しキロ当たり一ミル五〇〇レース(当時の一ミルは邦貨の二十五銭)以下の回答であった。これでは運賃にもならず、折角開発したジュトも経済価値はゼロという結果になるので、辻支配人はじめ現地では弱っていた。
この時、ベレン拓務省駐在員長尾武雄氏は、この報告を受け、既に入手していた見本を持って、所員のSKを伴ってベレン市のマルチン・ジョルヂ製麻会社にマルチン社長を訪ね、見本を示し、ジュト生産の経過を説明して取引を要請した。
繊維の長さ四メートルに余り、光沢・強度についても申し分のないジュトに、マルチン氏も驚き、かつ、九トン全部もこの見本と同様かとくどくど念を押したほどである。そこで、長尾氏は“品質は私が保障する。万一見本と違っていた場合、私が責任を取る。なお、ビラアマゾニヤから買うことは、距離的にもインド輸入品をリオやサントスから買入れるよりは経済的にも利益があるだろう”という説得が利いたのか、それではベレン渡し一ミル七〇〇レースで買入れると言う。
これなら売る方でも、リオ、サンパウロ方面までの運賃の四分の一も要しない。長尾氏は早速ビラアマゾニヤに打電したら直ちに納入された。マルチン氏はこのジュトを見て、見本と違わぬことに感歎し、自発的に二ミルまでに値上げしてくれ、以来取り引きは順調となり、一方アマゾン・ジュトの名声は急激な勢いでブラジル国内に宣伝された。そのため、リオ及びサンパウロ方面からの取引きも急上昇した。併せて値段も上がり生産者側は笑いが止らず、他方、需要者側も外国からの輸入手続きの面倒からも開放された。このようにして、国内産業の改善に日本人開拓者が偉大な貢献をしたのであった。
高拓生高台農業を放棄し、ジュト栽培に移る高拓第七回生が入植した一九三七年に、会社はジュト販売値の見当もつき、将来数万トンを生産するようになった場合、会社がジュト取り扱いを一手に握っていたならば、すばらしい利益を得ることが出来ると計算し、これが基礎を造るには、現在高台農業に取り組んでいる高拓生を全部ジュト栽培に移動させねばならない、と考えた。そこで、その高拓生のジュト栽培地となるべきバルゼア(湿地帯)地帯を購入せねばならないとし、ビラアマゾニヤ及びパリンチンス町を中心に、アマゾン河本流及びパラナー・デ・ラモス河に沿って数十か所のバルゼア地帯を購入した。
バルゼア地帯は高台の土地と違って、一か所に広い面積を取り、植民地施設をなすような土地はないアマゾン河の流れによって出来た沖積層が、数キロメートルまたは数十キロメートル離れて点在しているのだから、高拓生全部のジュト栽培地帯と言えば数百キロメートルにわたる広大な地域の中に、放ればなれに入植することになる。
会社は、土地の用意は出来た。種子の用意も出来た。しかし、一番難しいのは、高拓生をジュト栽培に移るように説得することである。中でもタワコエラ区に入植している一、三回生の硬骨漢連中を説き伏せるには、なかなか簡単には行かない難事である。この連中さえ承知して、ジュト栽培に移れば、他の高拓生はついて来ると見ていた。
それで、会社はわざわざモーターを出して、タワコエラ区まで迎えに来た。当時は上塚さんもアマゾンに来て、ビラアマゾニヤに滞在していた。タワコエラの連中は、折角モーターで迎えに来たので、行かないわけには行かず、一回生からはM・Z・S及び三回生の一部が行くことになり、それに高村が同行した。
ビラアマゾニヤに着いたのは夕刻であった。夕食後、上塚さん、辻支配人と高拓生は会談をしたが、ただ、上塚さん及び辻支配人達が一方的に話した。
ジュト栽培の有利なこと、将来ジュト産業はブラジル国の大産業となり、アマゾンの富を左右するようになるであろう。会社は既に高拓生全部がジュト栽培に移り得るだけの土地も種子も用意してある。なお、高拓生が必要なだけの融資もすることができる。会社と一緒にジュト産業一本筋で進もう。という説明であった。高拓生連中は無言のまま聞いていて、なにも返事はせず、翌日タワコエラに帰植した。
高拓生は彼等同志相談しなければならないこともあり、家族との相談もあり、五年間開拓して来た耕地・植付作物がある。いかに利をもってさそわれたからと言って、直ぐそれに乗りかえる気にはなれない。熟慮することが必要だった。
会社から二回目のモーターの使いが迎えに来た。タワコエラの高拓生は、前回と同じメンバーが二回目の会談にも出席した。そして、ジュト栽培に移動することに承知の返答をした。この会談には、上塚さんの存在は非常に重大な役割をなした。(44)
高台農業を捨てて、ジュト栽培に移動すると決心した高拓生は、愚痴を言ったり未練な言葉は一切はかなかった。高台農業の今日までの開拓がアマゾン開拓のひとこまであって、アマゾン開拓の完成ではない。ジュト栽培もアマゾン開拓への突破口になるのである。われわれ高拓生はアマゾン開拓に来たのであって、金儲けに来たのではない。よしんば、ジュト栽培で失敗しても、また、外の開拓口を開けばよろしい。と言うような考えがジュト栽培に移動する時の考えではなかったろうか。
一回生のM君はじめZ・S及び三回生には既に十町歩以上の開拓耕地があり、千数百本のゴム・数千株のガラナー・その外住宅の周囲には無数の果樹類・飼育中の豚・鶏や庭先を飾っている草花等今まで住んだ原生林の中に捨てていくのだ。
しかし、高拓生の心は既に決っている。今後の事業に万遺漏なき計画を立て、お互いに助け合って新しい門出に打って出ようと言うのである。会社が勧誘するようにジュト栽培が金が儲かるからではない。ジュト栽培によってアマゾン開発の大産業を打ち立てようとの高拓生精神からである。
浸水地帯生活とジュト栽培
五年間酷暑の中に刻苦精励して礎き上げた高台の財産を惜げもなく捨て去ってバルゼア(浸水地帯)に移動し、ジュト栽培によってアマゾン開拓の道を拓かんと決心した高拓生は、高台農業や生活には充分の経験を積み、自信を持っていたが、バルゼアの生活については未経験であった。だから最初の間は自ら親しき家族同志四~五家族合同してバルゼアに移動することにした。(45)
最初高拓生が移動した範囲は、会社が予め買って置いたバルゼアの土地で、ビラアマゾニヤとパリンチンスを中心にして円を描いた範囲で、大概一日くらいでビラアマゾニヤに到着出来る距離であった。そして、会社からは一か月に一~二回モーターを出して周航した。そのモーターには食料品を積み、医者と私が便乗していた。
しかし、バルゼアの生活は高台の生活に比して、実に不快窮まるものである。第一に、蚊が多い。パリヤ葺きの掘立小屋では蚊の進入の防ぎようがない。第二は、土地が何時もジメジメしている。高台のようにカラッとした土地ではない。
雨が降る日などは沼の中を歩くようだ。アマゾン地帯の季節は十一月十五日から翌年の六月十五日までは雨期であり、アマゾン大江の増水期であり、毎日十センチメートルか二十センチメートルずつ増水して行き、六月十五、六日ころ河口から一、五〇〇キロ上流のマナオスの港で最絶頂は海抜三十メートルを越すことがある。
そんな年はバルゼアの低い土地に住んでいる土人などは屋根裏に板を並べて寝て、屋根に穴をあけて出入口にするようになる。だからバルゼア地帯は一寸の土地もないようになる。こんな時期になると便所の中の水も炊事場の水も一緒になってしまい、薪水の水はカノアで河の中程まで汲みに行かねばならないし、薪は半年分を貯えて置かねばならぬ。バルゼア全体が水浸しになるから犬、猫、鶏もいるところがなく、人間と同居するようになる。時たま夜中に鶏がキャッと鳴くから起きて見るとスクルジュ(水蛇)が鶏の首を咥えてグルグル巻きにしている。初め馴れない間は、テルサード(山刀)でスクルジュを目茶苦茶に叩ききるが、そうすると鶏もコマ切れ見たいになってしまって喰い物にもならぬ。捨てねばならぬ。
しかし、そんなことにも馴れて来ると、スクルジュが鶏を巻いて丸くなっているのをそうッと抱え下して来て(スクルジュは一度咥えた所を決して放さない)スクルジュの首を摑みテルサドで切り落してしまう。そしてグルグル巻きになっているのをほぐすと、鶏の肉だけは無事で食用になる。
その年の六月十五日ころから十一月十五日ころまでは乾燥期であり、増水期に十センチメートル、二十センチメートルと増えた水が反対に毎日十センチメートルか二十センチメートルずつ減水して行き、十一月の半ばころには、マナオス港の水位は海抜十五~六メートルになる。
一九五八年にはマナオス港の水位十三メートルまでに減水したことがある。その時は、アマゾン河の流れが止まってしまいはせぬかと思われた。大江の真中に大きな湖が出来て、河水の流れは水脈だけとなる。それでも海洋船が水脈を伝わってマナオスまで上って来る。
こういう時期にバルゼア地帯に住んでいる人は雨期の増水期とは反対に十五~六メートルの高台に住むようになる。だから、薪水の水を担ぐにも、洗濯をするにも、水浴をなすにも、毎日幾回となく、十五~六メートルの急坂を上り降りして河岸まで行かねばならぬ。
河岸の河底から出たばかりの土は沼と同じで、足踏みは出来ないから、河中にまた杭を立てて板を渡してある。また、ある河岸は野生の稗が根を下ろしていて河中に向かって長く伸びているから、これを切り払って船着場を造って置かねばならぬ。
[以上<18> 第243号 昭和58年12月27日]
ジュト栽培、増水の危機も
ジュト栽培の耕地を作るにはやはり原生林を伐採せねばならぬ。このころになると原生林の伐採を自分でやる人は少ない。付近の土人に請負で一町歩幾らで伐らせる。バルゼアの仕事は河水の増減が微妙に影響して来る。河水が何月にはどこまで増えて、何月にはどこまで減るということはだれにも絶対に分らない。ただ、言明し得ることは大減水の年は大増水である。これだけしか分らないと、土人の古老は言う。
だからジュトの植付時期など見極めるのは、なかなか難しい。早く植えつけて、いつまでも河水が来なかったら収穫が出来ないし、遅く蒔き付けて早く河水が来たら、若いジュトは駄目になってしまう。
大体ジュトの栽培は十一月から十二月ころまでに耕地の用意をして置いて十二月から一月、二月ころから土地の低い所から植え始めて三月初めころまでに土地の高い所を植え終るようにする。そうすると植えつけてから四か月すると開花期になって収穫適期である。このころジュト耕地内に河水が足首くらいまでに入って来ると収穫に一番便利である。水の中でジュトを刈り倒して、両手でひとにぎりくらいの束に結わいて、水の中を引っぱって行き胸くらいの深さの所で積み上げ、上から焼け残りの丸太を幾つも乗せて重しにして約二週間くらい浸漬をして置く。
二週間くらいするとジュトの皮を構成している
だから、男も女も一日中水浸しの仕事である。男は河水が増水して二メートルくらいの深さの下に沈んでいるジュトの束を、潜っては一束一束引き上げては、女達が待っているカノアか岸辺まで引っぱって持って行く。女も男も一日中泥水の中につかって、四十度からある太陽の熱に膚は黒褐色に焼け、ひとかわもふたかわも禿た後である。
また、アマゾンは暑いばかりでなく、短時日ではあるが、非常に寒いことがある。蒔き付け時期の二月三月ころ山焼した後の蒔付けがおくれると、ジュト耕地は一面の雑草に覆われてしまう。また、エンシャダ(鍬)やテルサード(山刀)で除草せねばならぬ。アマゾン河の泥水が沖積してバルゼア地帯を構成したのであるから、地質は非常な沃土である。表土だけでも五メートルの深さのところもある。だから、バルゼアの土地は暫らく放っておくと雑草の畑となり、ジュト植付け前にもう一回除草をせねばならぬ。
一月、二月ころの植付けになると、雨期の最中で殆ど毎日雨が降って、鍬で除草していても土地は壁土を捏ねたようになり、鍬も自由に動かせない。こんな時期の変り目にフリアゼン(46)といって、アンデス下ろしの冷たい南風が吹いて来る。日本では北風が冷たいが、アマゾンでは南風のフリアゼン(寒波)が来ると、今まで四十度近くあった温度が急に下がって、ひどい時は十五度くらいになる。
こんな時はよく雨が伴う。横しぶきの大粒の雨が吹きつけて来ると、氷が背中にささるように痛い。始めはピンガ(火酒)を呑んで我慢しているが、直ぐ寒くなる。また、呑む、また寒くなるので幾回も繰り返していると、後ではいくらピンガを呑んでも効かない、ガタガタふるえて歯の根も合わなくなって来る。土人達は雨に背を向けて、臍の下で手を組み合わせふるえている。こうなって来ると河の中に飛び込んで、つかっている。河の水がお湯みたいな感じがする。それ程、普通の水と寒波が吹きつけて来る雨水の温度が違っているのである。河の中にいつまでもつかっていることも出来ず、仕事も出来ないから、家に帰ってしまい、改めてピンガを呑み温まるのである。アンデス降ろしの寒波が来るのも、大体一週間か十日で終わる。こんな寒波が来るのも一年に三回か四回である。
伐採、山焼が済み、除草が終わったら、ジュトの蒔きつけを始める。始めは種子をばら蒔きにして、その上を塵かきで、かき廻して置いたが、それでは発芽後の間引きや除草の管理が、うまく行かないので、稲の播種器を改造してジュトを蒔くようにし、除草や間引きを便ならしめた。
蒔きつけてから発芽後十センチメートル位に伸びたころから間引きの第一回をなし、膝の高さくらいに伸びるまでに間引きや除草を三回くらい行い、ジュトの幹がよくふとるようにする。蒔付けてから四か月くらいすると、開花期になり刈り取り時期であるが、この時予想外に早く河水が増水して来て、耕地の低い所などには、人たけくらい浸水して来ることがある。こうなると刈り取りが大変な仕事になって来る。刈り取る人はジュト畑の中で鼻だけを水面から出して、柄を長くした鎌で、ジュトの根を足さぐり手さぐりで根元から刈り取るのである。
根元を切られたジュトは、水面にポカリと浮いて来る。これを寄せ集めて一把の束となし、水の浅い所へ引きづって行き、
刈り取りがおくれると増水に追いつかず、ジュトの頭が水中に埋没してしまうと、そのジュト耕地は全部駄目になってしまい、その年の大きな損失となる。今度は反対に河の増水がおくれて、ジュトの刈り取り時期になっても、ジュト耕地の近くまで浸水して来ない時は、ジュトを刈り取っても浸漬するところがないから、バルゼアと高台が接触するところに減水期でも水の引かない湖のような水たまりがあって、水中林をなしている。
だから、その水溜りの水中林の中に道をつけ、下木を切り払い、浸漬する場所を作り、四メートル以上もあるジュトの束を一把一把担いで二百メートルもある水中林の中に、
水中林の中は電気鰻や水蛇や蛭などが棲息している所である。それらの犠牲になった高拓生はまだいないけれども、蛭は水の中に入っていると、何時の間にか体に吸いついている。大きなのは二十センチメートルくらいの長さがある。うっかりしていると、この大きな蛭が腹から胸に橋渡しに吸いついていることがある。こんな時に慌てて蛭を掻き落とすと体内に四センチメートルくらいの針が残っているから、そこが腫物になることがある。だから、蛭が吸いついているのを見つけたら、吸い口にレモンの汁を絞りかけるか、煙草の灰を振りかけると、蛭は静かに針を抜いてからころりと落ちる。蛭の巣の中に足を踏み込むようなこともある。そうすると二センチメートルくらいの蛭の子供が足に、びっしりはりついて来る。こんな場合はテルサド(山刀)で、そぎ落としてしまう。
ジュト栽培を毎年続けていると、経験によって今年は何月ごろどのあたりまで水が増えて来るだろうということが分って来る。だから、首まで浸ってジュトの刈り取りをするようなことは少ないが、年によって思いがけなく早く大増水が来たりして、大きな損失を被ることがある。五年に一回はそんな年があると思わねばならぬ。
バルゼアにおける食糧獲得
高拓生も始め数年の間は、ジュト栽培面積を毎年広めていった。五町歩から十町歩までも栽培面積を広めていくと、土人労働者を三十人から五十人も使用せねばならぬ。そうすると、これらの労働者に食わせる食料品を貯蔵しておいて、労賃の支払いは金よりも食糧品又は日用品によって支払いをするようになるから、結局売店を経営していかねばならぬ。それら高拓生の売店に商品を供給するのは、ビラアマゾニヤの会社が月に二回か三回回航する時に持って来るのである。
バルゼア地帯では、生肉は付近の牧場で牛を殺した時ででもなければ手に入らないが、生魚はいろいろな方法で、増水期、減水期の別なく漁獲することが出来るが、労働者は毎日働かねばならないので、狩猟や
然しパトロンである高拓生は漁撈をしている土人をてなづけておき、ピンガを呑ませては取れた生魚を自分のところに届けさせるようにしている。バルゼアの土地は高台の土地よりも肥沃で肥料を施さなくても野菜はよく出来る。だから高台で生活していた時よりも食糧は豊富に手に入れることが出来た。
ラーモス河ガマデラ河々口から分流して(47)来てパリンチンス町下方のビラアマゾニヤのところで大江と合流するまでの間ラーモス分流と大江で抱いている土地は、日本の四国と同じ面積を有する島であり、大江河口より一千二百キロメートルのところに所在している。この島の中にパリンチンス郡があり、ウルクリツーバ郡、バレイリンニヤ郡もあり、島内には無数の大きな湖があり、野鳥や魚類の棲息地帯である。
また、これ等の湖は野生稲の繁殖地帯でもある。減水期になると、平皿のようなゆっくりした傾斜の湖の岸辺の地面が出て来ると、昨年水中に落ちた稲の実が芽ばえて来る。だから広い所は十数町歩に及ぶ草原となり、付近の牧場主が牛を放し乾燥期の間、そこで肥らせる。幾人もの牧場主が自分の牛を放すので、間違いが起こらぬよう牧場主は自分の牛にそれぞれ焼判を押している。
増水期になると、牛の喰い残しの稲や喰い切った後から芽が出たのが、河水の増水するにしたがって、少しずつ伸びて来る。そして、この野生稲は決して水にもぐらない。河水が緩やかに増水すれば緩やかに伸び、河水が急激に増水すれば、これに連れて伸びていく。だから河水の絶頂に近いころになると、野生稲の茎は七~八メートルの長さになる。
アマゾンの野生稲については、日本からも、私の知っている限りでは、四人の学者が調査に来て、私はその人達を案内した。この野生稲が増水期絶頂近くになると、野生稲は長く稲穂を水面上に出して垂れている。この時期になると鴨が、稲穂を
ジュト畑の五町歩も十町歩も持っている高拓生は、各仕事について、監督をおいている。ジュト畑の除草期、間引きなどにそれぞれ監督をおき、労働者を監督させている。また、収穫期になると、刈り取りの監督、水洗いの監督をおいてそれぞれ仕事を監督させておく。
だから、パトロンである高拓生は、ひとしきり仕事の見極めがついたならば、鉄砲を持って鴨打ちに出かける、一人の労働者にカヌーを漕がせて、自分は船首に鉄砲を持って構えている。数キロ先きに拡がっている、数町歩に及ぶ野生稲の穂が水面スレスレに垂れている。
その稲穂の中を、右に左に筋を引いてうごめいているのは、鴨のひと群れが稲穂を啄んでいるのだ。櫂の音を立てぬように静かに漕がせ、上体を伏せさせる。静かに稲穂をかき分け、射程距離に入ったと思った時、突然体を起し、鴨の群れのリーダーである雄鴨に照準をつけて一発ぶっぱなすと、七~八羽の雌鴨は逃げてしまうが、三羽位は水面でバタバタしている。雄鴨など、片手でやっと抱えるくらいの重さである。
飛び立った鴨も自分達の連れが来ないから空中に円を描いて、今飛び立ったところにまいもどって来る。そこでまた一発、低く飛んで来たのに照準を当てて、はなすと、大概間違いなく落ちて来る。一度に沢山取っても冷蔵庫のない田舎の生活では肉の保存が出来ないから、この位の鴨猟で止めておき、また二、三日してから出かけて来る。
また、小島やバルゼア地帯の周辺河岸には野生の稗がはびこっていて、河中に向って五メートルくらい伸びている。そんなところにも、はなれ鴨と言うか一羽だけ来て、稗の実を啄んでいる。島の上から草を押し分けて行き、狙撃ちにすれば間違いなくしとめることが出来る。
ある日、夕暮れまでに二羽をしとめて、持って帰ったところが、家内からひどく叱かられた。「こんな時間に、蚊がワンワンしている時、二羽も料理は出来ない」と言うのである。田舎では食料があり余っても保存の方法がない。
湖の中の野生稲の実が水中に落ちてしまって、乾燥期に入り湖水が減水を始めると、早く土地の現れたところから野生稲が芽ばえて来る。湖水が浅くなったころに水辺は、沼の藻でユラユラしている。その藻を喰うために数千のマレッカ(日本の雁の種類)(48)が湖に降りて来る。
そのころになると湖辺に早く芽ばえた野生稲は人間の膝上くらいまで伸びている。マレッカは鴨よりも少し細いが、綺麗な羽毛をしていて、とても敏感で、人間の影でも認めたら一時に飛び立ってしまい、外の湖に移動して行く。
だからマレッカを打つ時は、マレッカに自分の姿を見せては駄目である。マレッカの目の届かない遠いところから鉄砲を胸に抱いて膝上くらいまで伸びた野生稲の中に長くなって横たわる。そして湖辺に向かって、ゴロゴロ転がって行き、射程距離に入ったと思うところでサッと立ち上り群の中に一発放すと、五~六羽は水の上でバタバタしている。これを獲まえるために湖の中に入って行くと沼に腰くらいまで入ってしまう。
アマゾンには大きな鷺がいる。鷺と言うけれども大きさは日本の鶴と同じくらいの大きさである。鷺は単独で行動している。高い樹の上に止っていて長い首を伸ばして四方に注意を配っているから、なかなか近づけない。時たま、三メートルくらい伸びたジュト畑の中に降りている事がある。餌を漁っているのである。好機逃がすべからず、とジュトを静かに押し分け近づく。
しかし、相手の鳥は体が大きいから相当の遠い距離からでも打てる。この距離で大丈夫だと思うところから、一発放すと、鳥はガクッと脚を折って地上にうずくまる。この鷺の脚をふまえていて、嘴を上に引っぱると、人間の頭の上まである。この鳥の肉はあっさりしていて、日本人にはよく賞味される。
この外に、アリンコルンと称する大きな鳥がいる。この種の鳥は日本にいないから日本名は付けようがない。この鳥も樹の頂点に止っていて、四方に目を配っているからなかなか近づくのに困難である。大きな声を出して、ゴーン、ゴーンと鳴いているから、一名ゴンゴンとも呼ばれている。苦心して近づき打ち落とすと地上に落ちた時の音がドタンとひびく。片手で小脇に抱えこもうとしても、抱えこめないほどの大きさである。
羽の角には牙のような角をもっている。しかし、この鳥の肉は臭みがあるから、人は余り好まない。胸部に女の乳房の様に大きな肉を持っている。この胸部の肉を取っただけで、食料には充分であるから残骸は河に捨ててしまう。ピラニヤの好い餌になるだろう。この外九官鳥、オーム・ピリケット(49)などの人語を真似する愛頑用の鳥から、綺麗な小鳥が無数にいる。
高拓生も高台農業に比べて、ジュト栽培の仕事は実に嫌な仕事であり、湿気の多いバルゼアの生活は不愉快きわまるものであるが、食料の補給という点では、高台の生活よりも遥かに得るところが多い。
高台で出来なかった、もう一つの愉しみは漁撈のことである。バルゼア地帯には専門の漁師がおって、自分が行かなくても漁師が魚を持って売りに来る。多くの漁師は酒呑みだから、ピンガを三~四杯呑ませてやると、魚は只でおいて行く。だから、魚は不自由なく喰うことが出来るが、それだけでは、自分が魚を釣る面白味がないから、仕事は監督に委せておいては、時期、時期による魚獲法で魚を獲りに行く。
一番簡単なのは、減水期に水の浅くなっている湖に投網による魚獲法である。今までは無限に拡がっている水中に自由に遊泳していた魚が、アマゾン河の減水によって何時の間にか魚の行動区域を狭ばめられ、最後には湖の浅い水域から出ることが出来なくなり、広いところにいた魚が狭い湖水の中に群集しているから、どんなに下手な網の投げ方をしても四~五匹は入って来る。
あらゆる種類の魚が網に入って来る。その中で変ったのは、「ボドウ」(50)というのがある。この魚は鰐を最小限小さくしたような魚で、体全体鎧を着たように固い甲羅で覆っており、その甲羅の表面はヤスリのようになっている。ところが、この「ボドウ」の刺身はあか肉でまことに美味いこのうまい、肉を取り出すためには、手は傷だらけになってしまう。しかし、この魚の死んだものは喰べない。土人の習慣である。
鰐も死んだものの肉は喰わない。アマゾンでは、鰐は喰わないが、パラー州では、市場で肉の切り売りをしているそうだ。湖の減水期で、子供でも網を持てば魚が取って来られるような時は、あらゆる種類の水禽が集まっていて、魚類をついばんでいる。
[以上<19> 第244号 昭和59年1月27日]
際限なく獲れる鯉
増水期になって河水が漸次増水して来て、今まで干あがっていた湖と河との間の水路に水が乗って来て、五十センチメートルくらいの深さになると、待ちかまえていた湖水の中の産卵期に達している魚が湖から水路を伝って大江に出て来る。下流に下って産卵するためである。その時水路の出口で、カノアを浮べて待っていると、クリマタ(鯉)(51)が、ボカッボカッとあぶくを立てて出て来る。それに網を投げると、際限もなく取れるが、余り沢山取っても仕方がないから、十四~五匹も取ったら止める。クリマタの刺身は鯉の刺身よりも少し脂こいが、なかなかの美味である。その腹いっぱい詰まっている卵を皆取り出して“塩から”を造る。なれてくると日本の塩からよりも美味い。十四~五匹の卵を取ると一年分の塩からが出来る。
もう少し増水して来て、水中林の中に河水が入って来るようになって、ツクマンという椰子の実、ゴムの実、カジュラーナという木の実などが落ちるようになると、それ等の木の実を喰うためにタンパキー(黒鯛)(52)が集まって来る。で、そんな木の下にハエナワを張っておく。一本のハエナワに十個くらいの鉤がつけてある。餌は主にゴムの種を使う。ハエナワの一方は強い木に結びつけ、一方は弾力のある揺れる木に結び付けておく。この場合、タンパキーが餌に喰いついている時は、細い木の方はユラユラゆれているので、獲れた事が分るのである。
しかしハエナワを張ったからといっても、タンパキーが直ぐ喰いついて来る訳ではない。数時間は待たねばならぬ。その間小魚を取りに行く。水中林の中には、ところどころに、ポカッと穴があいたように池のような空間が出来ている。その人間社会から隔離されたような池の中に乗り入れて釣糸を垂れていると、周囲の木々からいろいろな花が水面に落ちて、なんとも言えぬ芳香を放っている。社会の雑音は何にも入らず、停止している水は、人の世の外を思わせるような雰囲気である。
小魚は直ぐ集まって来て、鉤に喰い付く。引き上げる時に、鉤にかかった小魚がキュッ、キュッ、キュッと鳴声を出して、外の仲間に危急を知らせる。それで、外の小魚は逃げてしまい、当分の間は集まって来ない。
それで元へ戻って、ハエナワの方を見廻りに行く。小さい方の木がユラユラ揺れている。二匹か三匹は鉤に喰いついて逃げようと、あばれている。一匹で大きなのは二十キロ以上もある。このタンパキーの刺身が、またなんとも言えぬ美味である。鮪の刺身よりも、よほどうまい。新鮮なせいもある。
タンパキーの丸焼きもうまい。湖のほとりの木陰で、枯木を沢山焚いて炭火を作り、その上に生木で棚を作り、両手で抱えるような大きなのを鱗のまま丸焼きにしたのを、手つかみにして、レモンと塩とで出来た汁につけ、ピンガーを呑みながら喰べるのは、何んとも言えない味わいである。
またジャラキイと言う魚がいる。形が日本の鮒の肉を脂こくしたような肉で、大きさも鮒より少し大きい。ブラジル人間では、このジャラキイは庶民の魚と言われている魚で、マナオスの市場などには毎日数トンのジャラキイが入荷して来る。
下流に下って産卵したジャラキイの子が増水頂上に近いころになると、河下から大群をなして上って来る。この魚の上って来るのは道筋があって何処の河筋でも通るというわけではない。ちゃんと道筋を知っている。河筋の曲り角など急流になっている所では、背鰭、尾鰭を懸命に震わせると見えて、その音が空中に反響して、通過している飛行機の爆音と間違えられることがある。そういう場合、そのジャラキイの群の中に網を投げると、丁度日本の稲田から雀が飛び立つように河面にジャラキイが飛び立つ。四~五回も網を投げると、カノア一杯になり、取っても始末に困るが、面白いから取っている。田舎では町の市場まで運んで行けないので、炭火を沢山作り、広い棚をその上に作ってジャラキイを丸焼きにし、焼けたものから、肉だけを取り、ピラクイ(そぼろ)を作り、残物は豚や、鶏の餌にしてしまう。ピラクイにして置けば幾年でも貯蔵が出来る。食料の入手出来ないような時期には、非常に重宝な食料になるのである。
ペスカーザ(53)と言う魚がいる。これは海の魚で日本の北海道方面の海や河川に棲息しているスズキと同じ魚で、銀鱗に覆われた体長はクリマタ(鯉)などよりも大きい。肉は白身で脂気がなく、ブラジル人間でも一番上品な、上等な魚とされていて、値段も高い。刺身などつくるには絶好の魚である。
一回生や二回生がジュト畑を持っていた。パラナーデコンプリードの水流が大江と会する所に、湖の水が減水し始めると、奥の湖にいたペスカーザ(スズキ)が下流に下るために湖から出て来る。パラナー(分流)が大江と会する所に来ると、湖の水温と大江の水温が違っているので、ペスカーザは大江に出きらずに出口の所で渦を巻いている。この時カヌーで出かけて、浮草の下から小蝦(サエビ)を取って、餌にして、カヌーの上から手釣りで釣ると面白いように銀鱗をひらめかしてかかってくる。だがどこにもいる訳ではない。
まだ、トコナレー、マトリンション、ピラリチンガ(54)など、日常食卓に上る魚がいる。トコナレーなどは胸の両側に紅を塗ったような斑点があり、薄い灰色と黄色が尾の方に流れていて絵に書いたようなきれいな魚であり、ペイシャダ(日本の水たきと同じもの)の魚専門の料理屋ではこのトコナレーを使う。
マトリンションと言うのは体形はクリマタ(鯉)によく似ているが、口形が違っている。クリマタは日本の鯉と同じく巾着口になっているが、マトリンションは口が尖っている。その上、この魚は、岸辺で死んでいる蛇や、増水期に便所の中に河水が入って来ると、この魚も入ってきて人糞を喰う。高拓生の一人が投網を投げた所が、このマトリンションが入っていて、人糞をまだ口に喰えていたとのことで、この魚は絶対に喰わぬことにしたという。ピラクチンガなどは体形から色から、タンパキーと殆ど同じだが、肉味が非常に脂こいので、あまり喜ばれない。
以上述べた魚類は素人でも取れる範囲のものであり、この外にも無数の小魚、奇魚がいる。また専門の漁師でなければ、取れないような大物の魚類が数多くアマゾン河に棲息している。その第一はピラルクーである。
直営農場を経営
ピラルクーの漁場というものはない。アマゾン河の至るところで取れる。時期も年中取れるが、一番取れるのはやはり乾燥期である。マナオスから漁船が、一トン~二トンの氷を積んで、一週間か、十日間の航行をして、アマゾン河の上流や下流の湖で、その付近の漁師が取ったピラルクーを買い集める。田舎の漁師は取ったピラルクーを直ぐに開いて、塩にしてしまう。だからマナオスなどでは、生のピラルクーを見ることは出来ない。田舎の漁師はピラルクーを取ったら塩にして干し、町からの漁船を待つか、近くの商店に持って行って食料品と取り替えて来る。
ピラルクーの漁獲法は主に銛を使う。大きなピラルクーになると一本の銛(投槍)では駄目で二本目を打ち込むのである。ピラルクーの大きさは、日本の五月の鯉の吹き流し程には大きくないが、大きなものになると、四~五十キロのがいる。ピラルクーの鱗は赤[ん]坊のてのひらくらいの大きさがあり、一部分が紙やすりのようになっているので、若い娘達が爪みがきに使う。日本のカトリックの教会から注文があったから、麻袋に詰めたものを一袋送ったことがある。教会ではこの鱗の裏に神様の有難い言葉を書いて信者に配ったそうだ。田舎にいてピラルクーの生の腹わたが手に入り、ゆでて酢で喰べると、日本の
アマゾン河には、海に棲息するイルカが沢山いる。しかしこの魚は食用にはならないから、漁師も取らない。ただ、ジャラキーなどの群を追いかけて食うので漁師がきらっている。
このイルカは人魚のように人の心を察するのではないかと思うことがある。湖に鳥打ちに行って、夕方、小さなカヌーを漕いで、一人で帰って来るとカヌーのわきに、ボカッと浮き上がってフーッと水を吹いて逃げる。その波でカヌーはひっくりかえりそうになる。腹が立つから、今度近くに来たら鉄砲で打ってやろうと、待ち構えていると、絶対に近くに寄って来ず、遠くで、水を吹いている。
アマゾン大江中にはペシボイ(魚牛)(55)がいる。水中に棲息しているから魚の名がついているが、ほんとうは魚類ではない。獣類で、顔が牛に似ているから魚牛と言う。子供も卵生ではなく胎生である。哺乳をして育てる。日本の鯨の肉を食べると魚肉の味がするが、ぺシボイの肉は完全に獣肉の味である。体重からいっても百キログラム近いものがいるし、肉を取った後の、肋骨などは牛のそのものと少しも変わらぬ。市場で売られている。
だが、この大物を獲るのは普通の人では駄目だし、漁師でも生半可な漁師では駄目である。アマゾン河中に棲息しているとはいっても数は少ない。このベシボイは肉食はしない。草食である。河岸に伸びている牧草や野生の稗を食べるために、岸辺に近づいて来る。
その習生を知っている漁師は、ペシボイの出るようなところに棚を作る。岸辺から五~六メートル離れたところに長い棒を立て、それから岸辺に向かって二段の横棒を渡し、それに薄い竹ヘゴガ、椰子の葉柄を薄くはいだものを、ゆわえておくと、ぺシボイが河岸の浮草を食うために通過するとき、水上に出ている竹や椰子の薄べらがユラユラと揺れる。漁師はそれを見て、今ペシボイが通った事を知り、十メートルくらい離れている次のタナに行って待っている。それでも取り逃した時は、二日でも、三日でも投槍を担いで待っている。
彼ら漁師の信念では、一度現れたところにはぺシボイはまた戻って来る、と思い込んでいる。彼ら漁師が待ち構えているところに現れたペシボイは、間違いなく、投槍を打ち込まれる。この投げ槍は尖端に二段鉤の銛がついていて、肉に喰い込むと、丁度大きな鉤にかかったようで抜けないのである。しかし、ぺシボイのような大物になると、一人の漁師の銛では引き寄せられない。二人~三人の仲間が三~四本の銛を打ち込んで、漸やく引き寄せることが出来る。
土人の漁師が使っている投槍の構造は、頑丈な丸棒の先きに二段鉤の銛がつけてあり、この銛から小指大の十メートル位の紐が槍の柄に巻きつけてあり、銛がぺシボイの肉に喰い込むと、棒は銛から離れ、棒に巻きつけてあった紐はクルクルと、とけて棒だけ水上に浮くようになっている。漁師達は浮いている槍の柄を取り紐をたぐり寄せて、獲物を陸に引き上げる。町の市場に売りに行くのであるが、略々牛一頭の値段と大差がない。
高拓生もバルゼアの生活に、二年~三年と経つ内にこの地帯の生活にも馴れ、魚鳥の狩漁法も覚えて、食生活にも不自由しなくなるころは、ジュト栽培からも脱皮して、始めは自分自身でジュト栽培の仕事をしていたが、次には労働者を使役し直営農場を経営し、毎年ジュト畑と労働者の数を増加していったが、今は、ジュト栽培者から資本家に転向し、ユダヤ人やトルコ人がやっている方式すなわち商品を貸しつけて、生産物を全部納めさせる方式を取るようになった。
ジュト畑の耕地には収穫した後に牧草を植えて牧場となし牧牛を飼育する計画を立て、世界で一番下人のなすジュト栽培の仕事から足を洗い始めた。
植民地の主作物、ジュト
高拓生が、ガンジス河畔に住み、ジュトを作らねば他に生活のしようのない幾千万の印度人と同じような仕事をして、アマゾン河流域にジュトを植え拡め、ブラジル国の一大産業となした功績は偉大なものであるが、一方、ひるがえって、ジュトなる作物を日本人植民地構成上の主作物として見た場合は、完全に間違った植民地主作物を選んだといわねばならぬ。
第一は、ジュト栽培地の地形である。ジュトは湿地帯でなければ栽培不可能である。アマゾン河流域の湿地帯は切れぎれになっていて、一か所に十家族と纏まって入植出来るような土地はない。したがって入植者に対して、教育・衛生・交通の施設などは出来ない。
なお、ジュト栽培上の作業である。
一日中炎熱に照らされ泥水の中に潜り、雨の日は一日中雨に濡れて仕事をするような仕事は、印度人の最下級の人間だったならばするかも知れないが、今日の日本人はそんな仕事はしない。
その最もよい例は、戦後第一回のアマゾンジュト移民十八家族に見ることが出来る。
彼らジュト移民は、アマゾンにおけるジュト栽培による金儲けを日本で宣伝され、それを丸のみにしてブラジルに渡ったが、毎日水浸しの生活に半年と耐え得ず、わずかに一家族が残っただけで、後は皆逃げ出してしまったのを見てもわかる。(残った一家族もジュト作りは直ぐ止めてしまった)
高拓生なればこそ、ジュト栽培による、アマゾン開拓という精神力があったために、最下級の印度人と同じような仕事に耐えて、アマゾン流域にジュト栽培をひろめ、ブラジル国で、一九六五年には六万トン以上の生産をなし、一部外国に輸出せねばならぬというような状態にまでなったことはひとえに高拓生のアマゾン開拓の精神力による結果であった。(56)
しかし、高拓生は、印度ガンジス河流域の印度人のように無智蒙昧の人間ではない。ジュト栽培を利用して、経済的にグングン伸びて来た。
その第一は収穫後のジュト耕地に牧草を植え牧畜を始めたことである。地の利を得た所に牧場を始めた高拓生は毎年面白いように子牛が生まれ、数年を出でずして百頭二百頭の牛の所有者になって来た。
一方ジュト栽培に対する土民への商品貸付によって、商売はますます繁盛し、完全な商人になってしまった。かつては、ユダヤ人やトルコ人が一般土民相手に商品の貸付け商売をしていたが、土民達も日本人と取り引きをして見ると、日本人の方が正しい取り引きをすることが分り、皆日本人のところに集まって来るようになった。
高拓生のある者は、店を開いて顧客が来るのを待っているだけでは満足が出来ず、十トン積み、二十トン積みのモーター船を買い込み商品を積んで、アマゾン河本流支流を上下して商売をするようになり、商人としての格は一段と上がって来た。
そして、ユダヤ人やトルコ人がやっていたように田舎に牧場や商店を持ち、都会に住居を持ち、家族を住わせ、子供の教育を便ならしめるようになった。
直接のジュト栽培は土民に委せてしまっている。アマゾン流域の土民は、ジュトが出て来るまでは、河岸に近い高台で僅かのマンヂョカを植え、後は魚釣りくらいして喰うや喰わずの生活をしていた。
しかし、彼等はジュトの出初めには、日本人の所に働きに行けば、日当はキチンと払ってもらえるし、自分達がジュト栽培の作業を覚え、ジュト栽培をするからと言えば、パトロンである日本人から、商品は自由に貸してもらえるから生活の心配はなくなり、毎年毎年ジュト栽培者の数は増えて、栽培面積は拡がり、一九六五年ころには六万トンを超すようになった。
ブラジルの国際経済とアマゾン流域の土民に偉大なる福音をもたらしたのは、優良ジュトの種子の発見と、高拓生が身を捨ててジュト栽培に邁進した結果であることは言うまでもない。
十年祭と戦中の会社・高拓生
アマゾンにジュト栽培の可能性が証明されると、日本内地の各財閥の協力によって一九三五年にはやすやすとアマゾニヤ産業株式会社が組織され、翌一九三六には現地パリンチンスにおいてコンパニヤ、インズスツリアル、アマゾネンセが資本金四千コントスで創立された。
アマゾニヤ産業株式会社はジュト栽培の成功により、ジュトを一手に取り扱うことで莫大な会社利益を計画し、アマゾナス州内生産のジュトが全部ビラアマゾニヤに集まらねばならぬ組織を考慮し、連邦政府にジュト格付人任命を請願したところ、連邦政府は快く承諾し、アマゾナス州ジュト格付人に高村正寿を任命した。だからアマゾナス州からジュトを輸出するには、格付証明書に高村正寿の署名がなければ、一キロのジュトも輸出することは出来なくなった。
アマゾニヤ産業株式会社のこの組織計画に対しては、パリンチンス町民は大反対であった。(57) 会社のこの組織の下では、パリンチンス町は何等の発展も余慶も受けることが出来ず、利益は皆ビラアマゾニヤに取られてしまい、悪くすると、パリンチンス町はビラアマゾニヤに移転せねばならぬかも知れないと言う恐れを抱くようになった。
ジュト船積みの度毎にパリンチンス町の税関吏がビラアマゾニヤに出張して来ていたが、それらの税関吏の中にも、パリンチンス町の有力者の縁類者がいて、アマゾニヤ産業会社の組織に対し、反対の意を示し、パリンチンス町有力者のだれだれも、この会社の組織について反対しているというようなことをもらしていた。
会社の方ではそんなことは問題にしない。高拓生の努力によって、ジュト栽培者は年毎に増加し、ジュトの生産量も毎年倍、倍と増えて行き、そのジュトが全部会社に集まって来るのである。会社は鼓腹撃壌の頂上にあったのである。(58)
一九三〇年上塚社長がビラアマゾニヤに上陸し、いろいろな施設を完成し、入植祭を行ってから(59)、一九四〇年は十年目に当たるので、十年祭を挙行することになった。
この時は上塚社長も一年近くアマゾンに滞在していて、各高拓生のジュト耕地を廻ったり、ビラアマゾニヤの施設の充実、特に八紘館の建設は日伯人をおどろかした。建築法は完全な日本の寺院・宮殿の建築法で、普通の大工では出来ない仕事である。上塚社長が眼をつけていたのは、増永栄次郎と言う宮大工がベレンにいる(60)。この増永大工は上塚社長がサンパウロからアマゾン調査団を率いてアマゾン調査に向かった時の一員で、ビラアマゾニヤ上陸当時の施設は、この増永大工が皆施工したのである。
ところが増永大工は、非凡な技術は持ってはいるが、よく酒を呑む。そして酒の上がよくない。高拓二回生時代には、よく学生を集め酒を呑ましては煽動するような言葉をはき、会社幹部に対しても反抗的で、ある時会社幹部の一人に暴力を振るったかどで、ビラアマゾニヤ在住日本人および植民地にまでも呼びかけて、当時の会社支配人辻小太郎氏が増永大工を追放に処した。
しかし、上塚社長は十年祭を挙行するに当たり、一大記念事業である日本の神社仏閣と同様の建築すなわち、かつて国士舘設立同志者が建築した国士舘大講堂と同様の八紘館建設を決意し、この大建築を完成するには、特殊技術を有する増永大工より他にはいないと思い、一九三九年にベレン在住の増永大工を呼び返えして、八紘館建築棟梁に任命した。(61)
増永大工はこの八紘館建築に当たっては、精魂を尽してこの仕事に当たった。先ず第一は建築材料を選ぶことである。幸い会社に蛭田勝雄というアマ県から移転して来た腕達者がいたのを専門的に八紘館建築の材料取りとして仕事を始めた。
ところが増永棟梁の材料選びの厳格なことといったら非常なもので、材種はイタウバかマサラヅーバとし、蛭田が土民を使役して集めてきた材質を見て、これでは駄目だと言ってはねてしまう。蛭田はまた立木を選んで材料を取って来ると、これも駄目だと言ってはねてしまう。蛭田は更に三度目、材料を取りに行き、念を入れて、土民にここを取れと指示し、原生林の中から運び出し、ビラアマゾニアまで運搬して増永棟梁に見せると、これでも駄目だと言ってはねてしまう。流石の蛭田も泣き出してしまうというようなことになった。
このような厳重な材質の選択によって八紘館は建築されたが、格天井(ごうてんじょう)張りの仕事を残して増永棟梁は死んでしまった。
増永大工は七十歳過ぎても(62)酒を止められず、夜でもベットの下にピンガ瓶を入れて置き、夜中でも呑んでいた。結局咽喉癌で生命(いのち)を取られたのである。
[以上<21> 第246号 昭和59年3月27日]
本物の花火に大喜び
上塚社長は一旦帰国した後一九四〇年再度来伯し、完成した八紘館を見て、玄関が、見すぼらしい大木に蝉がはりついているようだ。どうしてあんな玄関を造ったかと辻支配人を責めたところ、金が足らなかったからだと言う。そのくらいの金ならば、東京にいって来れば何んでもないことだと、社長と辻支配人とのやりとりを私に漏らしたことがある(63)。上塚社長としては、自分達がかつて建築した、国士舘講堂の玄関の様な、ひろびろとしたものを造りたかったに違いない。
八紘館は、格天井が終らず未完成ながら、一九四〇年十月、十年祭を挙行することになった。上塚社長は十年祭として何を催したら宜しいか、いろいろ考えた末、十年祭を催すにしては、どうしてもブラジル人を主とした催し物をしなければならぬ。ブラジル人はダンスと音楽が好きだから、ダンス会を催し、良い音楽を聞かせるようにしよう。日本人には演芸会、花火大会を催すことにしたいがどうだろうと相談があったから、結構でしょうと言うことになりその準備に取りかかった。
花火の方は増永大工の夫人が、日本にいた時からその専門家であったことは、非常に好都合であった。(64) 従来ブラジルの花火は空中に打ち上げて、バーンと爆発する音を聞くだけのものであったが、増永夫人の花火は木筒を造り、その中に花火を入れ火をつけると、ボーンと言う爆音と共に空中に丸いものが打ち上げられ、それが空中でバーンと爆音がすると、空中で丸い傘が開いて、それにいろいろなものが吊り下がってユラユラと下りて来る。ブラジル人は大人も小供もそれを拾いに馳け廻る有様で、始めて見る打ち上げ花火に狂奔した。
増永夫人はなお仕掛花火を据えつけた。通りの両側に板を張って文字を書き、文字通りに花火を仕かけ置き火をつけると、花火は文字通りに火花を散らして行くのである。ブラジル人は始めて見る花火の美しさに、我を忘れて見とれているのである。
夜はダンス会である。上塚社長の選りによった音楽家達の音楽に連れて、パリンチンス町から集まって来た幾百の官民と日本人が三十メートル四方もある八紘館の大広間で夜の更けるのも忘れて踊り狂った。
十年祭の第一日は厳かな式典や夜の演芸会等で過ごし、第二日、第三日はダンス、音楽、花火等ではなばなしく過ごし、日伯幾百の官民は、世界の最高峰を行くかの如くに見えるアマゾニヤ産業株式会社の将来を祝い上げた。
しかし後日考えて見ると、この華麗に見えたアマゾニヤ産業株式会社の十年祭は、同会社の葬送の祭典であったとも言える。なぜならば、翌年の一九四一年には、日米太平洋戦争が始まり、伯国も参戦して、アマゾニヤ産業株式会社の一切の財産は、伯国政府に没収され、社員の一部(高拓生を含む)八家族二十八人はパラー州トメアスーに軟禁されてしまった。
上塚社長は十年祭終了後早々に、日本へ帰ってしまった。帰る時に私に漏らした言葉では、「俺には日本の政治的密事を知らして来る人が居る。その人の知らせでは、至急に帰って来い、と言って来ている」と言うことであった。
太平洋戦争が始まり、世界大戦中に放棄された高拓生は、物心共に拠り所としていたアマゾニヤ産業株式会社も壊滅し、一時は茫然となっていたが、家族の生活や日本人の将来を思い、奮い立たざるを得なくなった。会社はなくなったが、高拓生は生きている。闘志は盛り上がって来た。なお、時期を同じくして、アマゾンにおけるジュトの生産は年を追って増産して来ている。
ブラジル国もアマゾナス州もジュトの増産による国富の確保には、非常な関心を持っている
一番早道はジュト栽培跡地に牧草を植え、牧牛を飼う事である。今高拓生で給料生活をしている人は別問題として、地方に拡がっている高拓生の九〇%は牧牛を有している。現在(一九八一年)のアマゾン地帯における高拓生の所有の牧牛頭数は、一万頭に近い。現在の牛一頭の値段は大型のもので二万クルゼイロス、だから平均して一万クルゼイロスとして、一万頭の牧牛の値段は、十億万クルゼイロスとなる。これが高拓生の財産の一部である。
しかし、アマゾンで牧場を経営するには地の利を得なければならない。アマゾン地帯では、最も肥沃なバルゼアは、増水期になると浸水して来て牧牛を置けないから、高台の牧場に移動させねばならぬ。ところがアマゾン地帯の高台の地層は新世紀層で、酸度が強く農作物の生長は非常に悪い。したがって、牧草も良い種類のものは育たない。マットグロッソという牧草がある。しかし、この草は牛の食草としての養分は非常に少ない。以上の様な地形によってアマゾン地帯牧畜業者は、年に二回の牧牛の移動をしなければならぬ。
開拓の歴史を道標に
高拓生の中で一番地の利を得た牧場を経営しているのは、パラー州アレンケールの六回生佐脇忠君と三回生の池上欣次君である。佐脇君は一千頭以上の牧牛を有し、池上君も五百頭位の牧牛を有している。
今アマゾンでは、三Gと言う呼び声が高い。その意味はGASOLINA、GADO(牛)およびGUARANA、この三つのGの付くものが、一番金が儲かると言うのである。牛の値段を概算して一頭一万クルゼイロスとすると、一千頭を有していれば一千万クルゼイロスになる。牛は最高一年間六〇%くらい子牛を生む。そうすると一年間六百頭増える事になる。増えた頭数のうち四~五百頭は、毎年売り払って行かねばならぬ。だから五百頭売るとして、一頭一万クルゼイロスとすると五百頭で五百万クルゼイロスの収入がある事になり、月平均四十万クルゼイロスの収入となり費用を差し引いても三十万クルゼイロスは残る事になる。
ガラナーの値段は、昨年急騰して最初の呼値が五百クルゼイロスであったが、最後には千五百クルゼイロスまでの値段が出た。今高拓生の中で、ガラナー栽培者は、ワイクラッパ河の旧サンタルジヤ植民地に残っている、三回生の古賀邦次と森進一郎だけである。この二人は、全高拓生がジュト栽培に移動した時も、高台に居残って高台農業に専心していた。その当時ガラナーの値段は非常に安くて貧乏生活を続けていたが、十年くらい前からブラジル政府が法律を以って、全部の飲料水に、ガラナーを幾%かを含めなければならぬと言う事になり、ガラナーの値段が上昇し始め七~八十クルゼイロスから百クルゼイロスの値段が続いていた。
しかし、ガラナーの生産地マウエス部のガラナーが昨年は病気に罹り生産量が非常に減少して来た事もあって、最後は一キロの値が千五百クルゼイロスもする様になり、ガラナー生産者は非常な金儲けをした。その生産者の一人である高拓生の古賀は七トン生産し、一キロ八百五十クルゼイロスで売り捌いた。一年のガラナーの売り上げ高が約六百万クルゼイロスとなる。
今年は既に一キロ千二百クルゼイロスの呼び値が出ている。昨年は最初の呼び値は五百クルゼイロスであって、千五百クルゼイロスまで上昇したから、今年は最高値一キロ当たり二千クルゼイロスを昇りはせぬかと思われる。マウエス郡で盛んにガラナーの新植を奨励しているが、ガラナーは植えたら、翌年実がなるものではない。少なくとも、三~四年経たなければ収穫はないのであるから、現在のマウエス郡以外で病害のない所でガラナー栽培をなしている人はガラナーで儲かる一方である。
現在高拓生は下流はベレン市から、上流はマナオス市の上流ソリモンエス河に至るまでの都市および本・支流に散在している。その多くの高拓生は、割合裕福な生活をしている。
ただその中で気の毒と思われる高拓生が二~三人いる。あるいは、本人は結構満足した生活をしていられるかも知れないが、第三者の目から見ると、他と比較して生活が如何にも気の毒に思われるだけである。それらの高拓生は、学校生活中模範学生として優秀な成績を納め、品行方正、酒も呑まず、女も知らず、汚れのない純真な青年学生としてアマゾンに渡航して来た者が、現地に着いて見ると近くに幾らでも土人の娘がいる。そんな娘とひとたび情を通ずれば、忘れ得ず家族を営み、子供のみ多く作りて教育は出来ず、附近の土着民と同じ生活に陥ってしまうのである。妻君は日本婦人の様な経済観念がないから、経済的には生活が伸びて行かない。
高拓生は子供の教育には非常に熱心である。だから高拓生の二世が殆どが大学を出ている。
だが二世は田舎に留まって百姓するものはいない。その殆ど都会に居住しサラリーマン生活をする様になるであろう。地方で仕事をしている高拓生も年老いれば、都会の子供の所に引き取られてしまうだろう。
高拓生がアマゾン到着当時、田舎や奥地の土地の調査をして歩いた時、ここには元トルコ人が住んでいた。ここはユダヤ人がいた所だ。ここにポルトガル人がいた所だ。というような古い、崩れかけた家や、再生林になった土地が至る所にあったが、高拓生が年老いて仕事が出来なくなり、都会の子供の生活に吸収されてしまったような場合、高拓生の仕事地であった所は、附近の土着民がここはかつて日本人が住んでいた所だというようになり、地方には一人の高拓生もいない様になってしまう時期が来ると思わねばならぬ。
高拓生の二世は、自分の年齢と同じ年ごろの父親が高拓生としてアマゾン開拓に、どんな考えを持って渡航して来たかなど、考えてみる者はいない。結婚期になれば二世の大半が伯人と結婚し、日本人の血は薄れゆく。
高拓生もすでに七十歳前後である。今後十数年すれば、アマゾンの地上から高拓生は消えてしまい、三~四十年もすれば高拓生と言う名詞すら消えてしまう。私達は高拓生の歴史を残したい。五十年前二十歳前後の青年学徒がアマゾン開拓に熱情を燃し、アマゾンに渡航して来て、困苦欠乏に耐え、現代の文明社会から隔絶したアマゾンの原始林で、アマゾン河の泥水の中で努力して来た血の滲むようなその歴史を永久に残したいのである。
そのために今年(一九八一年)高拓第一回生がアマゾン・パリンチンス・ビラアマゾニヤに到着し、開拓の斧を振い始めてから五十年になるので、その基地であるパリンチンス郡に、高拓生の首脳者であった上塚司先生の胸像ならびに高拓碑を建てて置き、後年五十年、百年の後、アマゾンに枝を引く人々に昔高拓生と称する学徒青年がアマゾン開拓に努力した歴史があるという道しるべにしたいのである。
[以上<22> 第248号 昭和59年5月27日]
中野順夫氏による補注
(1) 高拓の学科は通常の学校教育とはちがい、ブラジルの地理、歴史をはじめ、ポルトガル語、熱帯農業、植民論、協同組合論など。午後は決まって畑仕事をする。体育でいえば、柔道、剣道、相撲だけであった。世間の学校とはまったく異質な教育に嫌気がさし、学生は色々な理由をつけて退学届けを提出したもの。また、人数についても、入学当時の百余名中、卒業したのは82名(内、アマゾンへ渡ったのは72名)、それぞれの都合により、遅れて渡航した者がいるので、高村が引率した第3回生は64名であった。
(2) アマゾニア産業研究所では、ヴィラ・アマゾニアにおける第2回生の乱行を知り(現地に到着して間もなく反抗的態度をとりはじめた)、未開地での生活には良き伴侶が必要なことを痛感していた。そこで上塚校長は、前から考えていたとおり、第3回生にはできるだけ妻帯させるよう指導した。高拓に夏期休暇はなかったが、八月に2週間の休暇をあたえ、それぞれ帰郷のうえ「嫁探し」をするよう勧めた。実際に縁談がまとまったのは、十数組(花嫁のうち数名は日本に残りあとからアマゾンへ渡航)にすぎなかった。
(3) 人名をアルファベットのイニシアルにしたのは、プライバシーの問題のほかに、氏名の読み方を忘れたため、正確に記述できないという問題があったと推察される。そのため、イニシャル表記は正確でない。
(4) このほかに加わったのは、O学監の妻とその娘。「学生NUの母親と兄妹」は該当者なし。第5回生のISのケースと混同したと思われる。
(5) 注釈者の確認したところでは、「舎監がアマゾンへ渡ってしまうと、後続の学生を指導する者がいなくなる。それを心配した上塚校長が、舎監の後任人事について高村に相談をもちかけた。たしかに、不完全な教育による柔弱な若者をアマゾンへ送っても意味がない。誰か骨のある人物を舎監に委嘱しなければならない。種々考えた末、中村誠太郎氏が最適任だとの結論に達した。中村氏は国士舘時代の先輩であり、支那大陸の生活も経験している。当時は国士舘の舎監だが、この人をおいて他に適任者はいないと思った。上塚校長に話すと、それではすぐに本人と話してほしいとのことだったので、高村が中村氏にこの件を伝えることにした。本人と会って事情を話し、強く勧めたところ、快く引き受けてくれたので、舎監の問題は解消した。」
(6) 正確には「鹿野勇(東京農大出身、第一回実業練習生としてヴィラ・アマゾニアで一年間の訓練を受けたあと、ベレンへ転出しそこからレシフェへ移転)が船までたずねてきて、空腹をかかえた女性一同を、市内に住む日本人の家へ案内し、日本食をふるまった。そのうえ、おみやげに握り飯まで持たせてくれた。」というもの。
(7) 尾山良太は実質的な家長であるが、アマゾンにおける開拓事業の主役は、高拓卒業の長男、尾山萬馬(おやま・かずま)であることから、息子を家長にし、自分は扶養家族の一員となって渡航した。同じことは、同航者金野治三郎の家でも起こり、長男金 野至(きんの・いたる、高拓第3回生)を家長とした。
(8) 正しくは、「テネンテ越知」。「越知は兵役経験者で、陸軍中尉だった」という説もあるが、陸軍幼年学校や士官学校へいかずに20数歳で中尉になれるはずがない。1930年代におけるブラジルの田舎では、大農園主を「コロネル」(大佐)と呼び、息子を「マジョール」(少佐)、支配人を「テネンテ」(中尉)と呼ぶ習慣があった。アマゾニア産業研究所の場合、辻小太郎(支配人)が「コロネル」で、村井道夫(営業部長)が「マジョール」、越知栄(殖民部主任)が「テネンテ」ということになる。したがって、アンディラー模範植民地では、周辺の住民が越知のことを「テネンテ」と呼んでもおかしくない。
(9) 正しくは、「三人一組になって」。アンディラー模範植民地開設にあたり、上塚司は「三人一組」の組織を作った。これは、江戸時代の「五人組」組織にならったもの。
(10) アマゾニア産業研究所関係者はほぼ全員が「タワケーラ」と言い、記述もするが、地元民のあやしげな発音を聞き違えたもの。正しくは、イタラコエラ(Itaracoera)。
(11) 正しくは、ボア・フォンテ。13キロメートルは道路沿いの距離で、直線距離は10キロメートル。
(12) 高村は副支配人
(13) 注釈者が確認した事実では、午前11時が号砲時間で、最後の5分は1分刻みに時計係が時刻を伝えた。
(14) 高村は「山焼きに失敗した」というニュアンスで書いているが、驟雨のため失敗したのは一部である。この日(1934年11月11日)の山焼きは、地区別にいうと、アンディラーA区、同B区、イタラコエラ区、サンタ・ルジア区、ボア・フォンテ区でおこなわれた。午前11時、一斉に放火したが、30分ほどたったころ、イタラコエラ区(同区の約8割)と、サンタ・ルジア区西北部(同区の約1割)だった。残りの部分は「きれいに焼けた」とされる(『アマゾン産業研究所月報』第44号、第46号)。この日、高村副支配人はサンタ・ルジア区にいて指揮をとったので、同区における失敗は一部にすぎなかったことを知っているはずである。 一方、越知支配人はイタラコエラ区(第1回生と第3回生の混合地区で戸数は最大)にいて指揮。雨が襲来したとき、すぐにイタラコエラ区の状況を把握したあと、隣接するアンディラーB区(第1回家族移住者が入植した地区)へいった。そこでも状況を視察。ついで、サンタ・ルジア線の道路を歩き、サンタ・ルジア区の西北端を驟雨がかすめたことを確認。これらの視察と確認をおこなったうえで、サンタ・ルジアの植民地事務所に寄り、高村の報告を受けた。その報告は、越知支配人が確認したのと同じものであったはずである。
(15) 正しくは「コイヴァラメント」(Coivaramento)。一般的な用語は「コイヴァラ」(Coivara)。
(16) 正確には「植民地事務所では、第4回実業練習生が到着する前に、数か所、共同利用の井戸を掘っていた。練習生は最初その井戸を利用したが、やがてそれぞれが家の近くに専用の井戸を掘った。」
(17) 正しくは、ランチ(貨物搬送用の大型モータボート)
(18) コメの収穫用具がなかったことを批判しているが、これは高村が「ブラジルにおけるコメの収穫」を知らなかったため。稲刈りには、鎌に代わるテルサード(山刀)があった。籾を分離するのは、後述の「叩き台」を使う。これらは、過去3年間の経験ですでにわかっており、用意されていた。高村の発案によって用意したものではない。こういう作業上のことは、越知支配人と、助手の国宗惇(第1回生)、指導員4人(御園福衛、泉桂治、佐藤行夫、大平茂登吉)が、亀井満前農事部長と田端長之助農場係から指導を受け、じゅうぶんに承知していた。したがって、準備に遺漏はない。また、脱穀(籾すり作業)についても、1936年の収穫期には唐箕が用意された。
(19) 収益が少なかったのは、サンタ・ルジア地区における第4回生の一部(山が中途半端に焼けた区画)で、人数は少ない。「きれいに焼けた区画」では、かなりの収入があった。また、同じ「不完全燃焼区」でも、イタラコエラ地区では、その後の寄焼(燃え残りの倒木を小さく切って積みあげ、あらためて焼く作業)に努力しコメの単収を高めた。彼らは、「努力が報われた」といえるだけの収益をあげている。
(20) 正しくは、第5回実習練習生一行は総勢70名、高拓生16家族(25人)と家族移民7家族(32人)、合わせて23家族(57人)
(21) 正しくは、ドーセ湖(アンディラー川の増水で内陸部に入りこみ形成される滞水湖)
(22) 正しくは、7月3日
(23) 住居を耕地の中(道路沿い)に建てるよう決定したのは高村自身であり、建築作業の監督もしている。とうぜん、延焼の可能性も考えていたはずである。ただし、当時のアンディラー模範植民地幹部は「火入れ」の経験が少なく、越知栄支配人や御園福衛指導員ですらも4回しかない。経験豊かな者はヴィラ・アマゾニアの直営農場にいて、植民地の仕事とはほとんど無関係な立場にあった。彼らの意見を聞かず、現地幹部だけの判断で決定したのであろう。
(24) 高村は、HUの妻君(HN)が重態に陥ったとき、「城間医師に診て貰うことにした」としているが、注釈者の確認したところでは下記の通り。4月29日は天長節で、アマゾニア産業株式会社ブラジル支社は、アンディラー模範植民地サンタ・ルジア地区で、天長節を祝う農産品評会を開催した。そのため、ヴィラ・アマゾニアから辻小太郎主事はじめ幹部職員がサンタ・ルジア地区へ出かけた。そのなかに、中央病院の戸田善雄医師(総務部医務主任)がいた。HNが重態との知らせを受けたとき、辻支配人はヴィラ・アマゾンへもどるランチを、イタラコエラ桟橋に接岸することにした。戸田医師とともにサンタ・ルジア桟橋から出発し、イタラコエラ桟橋にて上陸。H家にて病人を診察したが手遅れで、午後7時ころに死去した。
(25) 医療関係ではヴィラ・アマゾニアの研究所付属病院に田中秀穂という、陸軍衛生隊出身の看護軍曹がいた(1934年にアンディラー本部診療所勤務、1935年に退職)。正規の医師ではないため、病気の治療はさほど頼りにならなかったが、外科(怪我)の手当はうまかった。
(26) 1936年の誤り
(27) この事件について、アマゾニア産業研究所関係者の間ではいくつかの異説が伝わっている。どれが本当かはわからない。しかし、STが仁義を切ったとき、「仁義など切るな!」といって立ち上がったのは、HT(高拓2回生)という点でほぼ一致している。また、高村は、「越知支配人の家の前で筵を敷き祝い酒をやっていた」とするが、ほかは皆「家のなかで車座になって飲んでいた」とする。
(28) モミの検査法は、1934年の収穫時に、木野逸作技師が考案し教えたもの。木野は1936年2月に帰国したため、同年4月からの収穫には、高村が検査員となった。検査方法については、木野技師が指導したところにしたがった。
(29) グアラナーはヴィラ・アマゾニアで1931年から試験栽培をしていた。アンディラー模範植民地では1935年から植えはじめている。高村はアンディラー模範植民地周辺でグアラナーの苗を集めていたが、マウエスまでいった記録はない(マウエスからグアラナーの苗を取り寄せた記録もない)。アマゾニア産業研究所は1931年および1932年に、マナウスにあるアマゾナス州農務局農事試験場から、グアラナーの苗を取り寄せ、それを増殖することにした。しかし、種子採取には6年から8年かかる。植民地で定植するための苗は、近在から大量に買い集めた。最初はヴィラ・アマゾニアの直営農場で栽培したが、1935年からアンディラー模範植民地にも配給した。
(30) マンジオカについて、高村は自分が機械装置を導入したように記述している。しかし、マンジオカ製粉装置と技術については、ヴィラ・アマゾニアの直営農場で、田中三作係長が研究し、その要請におうじて辻小太郎支配人が器材を調達していた。また、辻支配人自身も「マンジオカ芋摺りおろし器」を発明している。高村は辻支配人の指示を受け、あるいは植民地幹部会議の決定にしたがい行動しただけのことでであったといえる。
(31) 正しくは、13人皆夫婦者。
(32) 正しくは、7月15日
(33) 高村は「百万町歩コンセッション失効問題」の原因と経過について、理解できなかった模様(あるいは高齢になって忘却したのかもしれない)。ブラジル上院で「契約無効」が決議されたことを知り、その不当性を訴えるため上塚司社長は訪伯した。「無効案が上院で議論されていた折」ではなく、最終議決であるとの知らせを受け、あわてて日本を出立。リオへ到着すると、コンセッション契約についての再審議を、アマゾナス州政府の名で上院に要請した。上院では国防委員会、憲法委員会、国権調整委員会で審議されたが、上塚社長はそれぞれの委員を個別訪問し、土地コンセッション契約にかかわる経緯を説明。このときの通訳として、最初はリオ在住の椎野豊(同盟通信リオ通信員)に依頼。しかし、上院議員や外務大臣など議会や政府要人との折衝は、サン・パウロからきた粟津金六(ブラジル拓植組合サンパウロ事務所、元アマゾニア産業研究所副所長)が担当した。当時、野田良治一等書記官はリオにいない(1935年初めに帰朝)。リオの日本帝国大使館では、澤田節蔵大使みずからこの件で奔走。上院各委員会の審議は長引き、3か月近くの日時を要した。8月24日の上院本会議で最終審議を行ったが、最後は傍聴人を退席させた密室会議で票決。18対11で否決された。
(34) 1936年9月15日、上塚司社長と辻小太郎主事(10月より支配人)は、午前7時にヴィラ・アマゾニアを出発し、ランチにてアンディラー模範植民地アンディラー本部へ向った。午前10時ころに現地到着。高村手記にあるとおり、アンディラー地区在住者と懇談し、同地に一泊。翌16日はイタラコエラ地区へいき、懇談会を開催したあと、同地に宿泊。17日はサンタ・ルジア地区へいき、同じく懇談会を開催。午後4時ころ、ヴィラ・アマゾニアから迎えにきたランチにて、サンタ・ルジア桟橋を出発。午後6時ころ、ヴィラ・アマゾニアに帰着。ドーセ地区には行かなかった。
(35) 高村は、「公会堂ができたあとで精米所と倉庫を建てた」とするが順序は逆。事務所・売店・診療所を用意したあと、1935年4月から7月にかけて収穫予定の籾を処理するため、精米所を建設することになった(高村のいう「サンタ・ルジア地区の籾倉庫」は1934年8月に完成していた)。1934年のコメ収穫が終わったあと、11月30日に、ヴィラ・アマゾニアの精米所から、東(ひがし)久一係員(高拓2回生)がアンディラー模範植民地アンディラー本部へ出張。植民地幹部と話し合い、アンディラー地区とサンタ・ルジア地区に、それぞれ精米所を建設するため、細目について打ち合わせた。担当大工を決め、12月半ばに着工。工事は少し遅れて、1935年5月半ばに完工し、ただちに精米作業を開始した。公会堂は同年10月21日の入植祭当日、落成式を挙行。なお、1936年12月、アンディラー本部よりサンタ・ルジア精米所の設備拡張にかかわる、動力エンジン交換の要請があり、直営農場製糖所の中古エンジンを植民地へ搬送。東久一がサンタ・ルジア地区へ出張し据え付けた。
(36) 小磯国昭陸軍大臣ではなく、杉山元陸軍次官の誤まり。1931年12月のことであり、高村のいう1937年当時のことではない。
(37) 正しくは、3名
(38) 正しくは、ラーモス水道左岸の湖
(39) 正しくは、イーリャ・フォルモーザ(美麗島)。台湾のことをポルトガル語でフォルモーザというので、高村は誤解したらしい。この島には名がなかったので、アマゾニア産業研究所がアマゾナス州政府から取得したとき、粟津金六副所長(当時)は、「美しい島」という意味で、フォルモーザ島と名づけた。後年、粟津自身が「台湾に因み名づけた」と記述したところから、混乱を生じている。「アマゾニア産業研究所月報」の記述にしたがうなら、「美麗島」と命名しアマゾニア産業研究所東京本部へ報告したと推察される。「形が台湾島に似ているから」と説明する者もあるが、まったく似ていない。
(40) この記述は、時期を混同している。正しくは「尾山がジュート種子を増殖していた1935年、NYも会社からの委託を受け、ジュート種子生産のため圃場を造成した。ラーモス水道河口付近(左岸の低地)の会社所有地を借り、同年11月から翌年2月にかけて播種。かくして1936年前半、アンディラー模範植民地アンディラー本部の尾山、ラーモス水道河口のNY、ヴィラ・アマゾニアの農事部試験場(高台)と、3か所でジュート種子の増殖がはじまった。」
(41) 正確には「1937年8月、尾山はフォルモーザ島を会社から借り受け、10ヘクタールの圃場を造成。12月から翌年2月にかけてジュートを播種した。」
(42) 1ヘクタールに要するジュトの種子は約2キログラムである(1937年当時)。NYは、ラーモス水道河口の対岸(左岸)に、会社が借地したヴァルゼア(川岸の低地)でジュートを栽培していた。土地が広いので、尾山と同じ面積の栽培は可能だった。
(43) 正しくは、1937年4月。
(44) 高村は、「イタラコエラ地区の連中がウンと言わないので、高拓生の大部分がジュート栽培に転向しなかった」というニュアンスで書いている。しかし、1940年1月には高拓生の大部分がジュート栽培をはじめており、イタラコエラ地区とドーセ地区に残った一部の高拓生および家族入植者(合わせて十数名)が、ジュートへの転向に反対していた。この連中を説得するのは高村の任務だったが、説得できなかった(高村植民部主任の手に負えない別の重大問題が発生したため、上塚司社長の到着を待っていた)。それで、上塚司社長に問題解決を委ねたわけである。上塚社長は1939年12月31日にヴィラ・アマゾニアに到着、1940年の正月休みが明けるとすぐに、重大案件(ジュート利益を生産者へ還元する問題)を解決するため会社幹部と協議し、ついで入植者と話し合った。1月末になってようやく解決したあと、アンディラー模範植民地をはじめ、ジュート栽培で分散した生産者(高拓生およびマウエスからの転住者)を戸別訪問し懇談。それが終わって、4月10日、あらためてイタコエラ地区を訪れ、同地の残留組にジュート栽培への転向を勧めた。この日の話合いで、代表者がジュート栽培地を視察することになり、夕刻、数名が上塚社長とともにヴィラ・アマゾニアへいき一泊。このとき、高村も植民部主任として同行した。高村は「会社はわざわざモーターを出して、タワコエラ区まで迎えに来た」と書いているが、上塚社長が訪問し話し合った結果、このように決まったということ。このとき代表者一行は、ヴィラ・アマゾニア付近におけるジュート栽培を視察して、いったんイタラコエラ地区へもどった。同月17日、定期便ランチ(食料品その他を供給するため定期的に派遣する大型モーターボート)をアンディラー本部へ派遣したとき、イタラコエラ地区とドーセ地区の入植者十数名(高村のいう「前回と同じメンバー」をふくむ残留組の大部分)が便乗してヴィラ・アマゾニアを訪問。翌18日から29日まで、アマゾン川本流の沿岸および川中島に散在するジュート栽培者を訪問し、つぶさに視察した(会社が迎えを出したのではなく、イタラコエラ地区の反対組が各地のジュート栽培を視察しようと、自発的に決めたもの)。視察を終えた入植者一行は、同月30日、上塚社長はじめ会社幹部と話し合い、ジュート栽培へ転向するむね回答した。
(45) 正確には「アンディラー模範植民地の高台時代と同じく、親しき者3家族がひと組になって、バルゼア(増水期に冠水する川岸の低地)で共同経営することにした。」 上塚司が組織した「三人一組」の隣組制度をジュート栽培にも適用した。ただし、独身者の場合は4人組というのもあった。この組織は江戸時代の「五人組」組織にならったもの。
(46) 正しくは、フリアージェン(Friagem)
(47) 正しくは、「ラーモス水道が、「パヌマン島」 (Panumã)のあたりでアマゾン川本流からわかれ、右岸の内陸部を貫流し」
(48) 正しくは、マレッコ(野鴨の一種)
(49) 正しくは、オーム・ペリキット(小型のインコ)
(50) 正しくは、ボト(淡水魚の一種で、学名はInia geoffroyensis)
(51) クリマター。この名で呼ばれる魚は20種類以上もあり、どれを指すのか特定できない。味が鯉に似ているので、高村は「鯉」としたが、コイ科の魚ではない。
(52) アマゾン水系固有の淡水魚で、鯛とはまったく違う。学名はColossoma bidens
(53) 正しくは、ペスカーダ(別名 ペスカーダ・アマゾニカ、ペスカーダ・ブランカ、学名 Nebris micropus) ニベ科の海水魚
(54) 正しくは、トゥクナレー、マトリシャン、ピラカチンガ
(55) 正しくは、ペイシェ・ボイ(牛魚)
(56) たしかに、「労働者としての高拓生」は高村のいうとおりだが、アマゾンにおけるジュートの導入、栽培普及、産業化を考えるとき、高拓生は戦力の一部にすぎないことを忘れてはならない。辻小太郎(ジュートに着目)、上塚司(ジュートの調査研究、アマゾンへの導入決定)、尾山良太(ジュート新品種の発見)、アマゾニア産業研究所(ジュート生産のイニシアチブをとった事業所)、高拓生およびマウエス産業組合組合員(初期のジュート栽培者)、サン・パウロ州の製麻業者(アマゾンジュートの産業化)、というように、ジュート産業の発祥と発展における各段階で、それぞれが役割をになったということである。
(57) 注釈者が確認した事実では「連邦政府は快く快諾し、アマゾナス州ジュート格付人として農務省技官を任命(マナウス事務所に駐在)するとともに、各産地に代理人を置くことにした。アマゾナス州におけるジュート格付については、アマゾナス産業株式会社に委託したため、会社では格付人として高村を推薦。農務省の認可を得て、パリンチンス地方における格付代理人となった。」
(58) アマゾニア産業株式会社はアマゾナス州におけるジュート産業を独占したわけではない。たまたま、この会社だけがジュートの栽培と等級別梱包を行っていたので、農務省は格付代理人の資格をあたえた。いちおう、州法により州政府と特別契約を締結したが、州政府はいつでも契約を破棄できるようになっていた。別の地方に別の会社が現れるなら、そこへも別の立法措置により代理人資格を与えたはずである。パリンチンスの行政当局は、アマゾニア産業株式会社が格付代理人資格を得たことを歓迎した。一方、マナウスの事業家と政治家は、ジュート産業の主導権をパリンチンスに奪われたため、アマゾニア産業株式会社に対する態度を変え、敵対視するようになってきた。
(59) 正確には「上塚司がヴィラ・アマゾニアに事業本拠を定め、まず入植際を挙行。その後、いろいろな施設を構築しながら農業開発を進めてきたが、」
(60) 上塚は日本を出発するときから、「この仕事を託すのは増永栄次郎をおいてほかにない」と決めていたようである。1939年12月24日、ベレンに到着するとすぐ、空港へ出迎えた増永に伝えた。そして、30日までのベレン滞在中、細目について話し合い、増永も建築を承諾した。
(61) 正確には「上塚社長は1939年暮にベレン在住の増永を訪ね、会館建築を要請した。増永は翌1940年4月14日にヴィラ・アマゾニアに到着。翌日から建築の準備をはじめた。」 増永栄次郎は宮大工ではないが、それに近い技術を持っていた。ブラジルへ渡航する前の増永は建設会社(増永工務店)の社長である。したがって、後年、「大工」または「宮大工」と伝えられたのは妥当ではない。一般の大工や棟梁と違う。建築技師としての知識と技術を習得していた。建設会社を設立する前は、熊本市立工業徒弟学校教諭(建築設計担当)だった。当時の建築士と土木技師を合わせた技術者だったからこそ、上塚司はヴィラ・アマゾニアの建設を要請したわけである。なお、「八紘会館」という名は、1940年4月11日に上塚司が考案したもの。
(62) 増永栄次郎は1882年生まれで、八紘会館建築当時は満57歳。
(63) この部分は高村の記憶違い。上塚司は1939年12月31日にヴィラ・アマゾニアに到着。八紘会館の建築作業がだいぶ進んだ1940年10月24日に帰国の途についた。その後高村が会ったのは戦後(1958年または1961年)のこと。上塚司が帰国する時点で、八紘会館はまだ屋根と正面玄関ができていなかった(もちろん内装もされていない)。1941年に完成し、写真を東京本館へ送った。それを見た上塚社長は、「どうしてこんなみすぼらしい玄関にしたのか」と不満をもらし、作り直すよう現地へ指示したと伝えられる(この件に関する記録は見あたらない)。
(64) 増永栄次郎は熊本市駐屯工兵第六大隊に入営。工兵軍曹のとき、火薬火具研究に精励し、その成功により第六工兵大隊長および熊本第六師団長より賞詞賦典を受けている。火薬については専門家なみの知識と技術を習得していた。ここは、「花火については、増永栄次郎が専門だった。しかし、増永は八紘会館建築で忙しく、花火をつくる余裕がない。そこでヤエ夫人が花火をつくることにした。熊本にいたころ、夫といっしょに花火をつくった経験があり、かなりの技術者であった。」とするのが正確