上塚司のアマゾン開拓構想

O plano de Tsukasa Uetsuka para o desbravamento da Amazônia

Tsukasa Uetsuka's Amazon development project plan

多数の部数を誇った大衆雑誌『キング』誌上において上塚司がアマゾニア開拓の経緯と構想を示し、事業への参画を呼びかけた記事。記事の末尾には、著者の上塚司の連絡先が記されており、この記事の読者から問い合わせが数多くあった。アマゾニア産業研究所では、Q&Aを掲載したパンフレットを印刷してこれに回答した。

同胞よ! 行け南米の理想境

大アマゾンの日本新植民地

 台湾九州四国を併せた大面積の処女地が、
 新に日本の植民地として諸君の開発を待つ

アマゾン調査隊長 前代議士 上塚 司

目 次

  アマゾンを支配するものは世界を支配す

 昭和五年十一月廿二日、此日こそ我国殖民史上忘るべからざる記念日といつてよからう。

 何となれば、此日を以て、南米アマゾナス州――即ち世界の驚異として知られてゐるアマゾン河流域中、地味最も豊沃なアマゾナス州に於て、地域百万町歩といふ広大な新日本植民地が建設された有意義の日だからである。

 今日、我国は人口、食糧の問題で可なり悩まされてゐる。而も海外に送つた移住民の成績は、思つた程好成績でなく、我将来の経済国策をいかにすべきかといふことは、実に朝野を通じての大問題である。

 斯うした時、『アマゾンを支配するものは世界を支配する』と迄いはれてゐるあの大アマゾン流域中に、無限の富を蔵してゐる新天地が、我同胞のために新植民地として開かれたといふことは、実に天来の福音とも云ふべく、私は帝国政府の委嘱を受けて彼地に渡り、土地の調査は勿論、州政府との交渉から契約、或は将来の計画等迄、万般の問題について、親しく其衝に当つたものであるが、ここにキングの誌上をかりて此喜ぶべき事業の経過と現状を報告し、併せて我国民の海外雄飛の資に供するの機会を得たことは、私のまことに喜に堪へない所である。

 

  移民を要求するアマゾナス

 一体、我国とアマゾナス州との間に移民問題の交渉の起つたのは、大正十五年、我ブラジル公使、田付たつき氏が公使の資格を以てアマゾナスを訪問した時からであつて、当時、アマゾナス州政府の歓迎振りたるや、正に王侯に対するが如く頗る慇懃を極め、或は儀仗隊を附け、或は楽隊を奏して之を迎ふるといふ有様であつた。蓋し公使としてこのアマゾナスを公式に訪問したことは世界各国中、田付たつき氏が始めてであるといふことと、我国の移民に対して大に期待する所があつたからと思はれる。

 そこで田付たつき氏が州当局者に逢つて見ると、向ふから、

『日本は従来、サンパウロ州に向つて沢山の移民を送つてゐるが、アマゾナスは、その数十倍の必要さを以て、日本移民の来ることを要求してゐる。御覧の通り、西欧羅巴洲と殆ど同じだけの広さを持つこのアマゾナスが、人口といへば僅かに三十余万に過ぎぬ、何とか方法を講じてくれまいか、土地はいくらでも提供する』

 ときり出して来たのであつた。と、偶々此公使の一行中に、私の年来の友人、粟津金六君が通訳として加はつて居つたが、これが、不図はからずも今回の大事業となつたのであつた。

 

  比類なき有利の契約

 粟津君は神戸高商卒業後、直ちにブラジルに渡り、爾来、今日に至るまで十七年の永い間、彼方に生活し立派な成功者の一人であるが、田付たつき公使と行を共にした直後、彼は私の所へ彼の抱負を云つてよこした。其大要は、

『ブラジルに於て成功を期するには、どうしても土を土台としてやらなければウソだ。その土地はアマゾニヤに於て斯々の次第だ。土地を開く人間も相当自分の手で集めることも出来さうだ、唯、これを開発するには相当の資金を要するが、その辺準備を整へ、国家の為めに尽力してはどうか……』

 大体こんな意味の事であつた。元来、私も植民事業には非常の興味を持つて段々と研究中であつたから、之は是非国家の為めに実現したいものだと思つてゐると、幸に山西源三郎君と云ふ有力な共鳴者が出来、山西君は、厥然けつぜんつてブラジルに渡り、粟津君と手を携へて、其年(大正十五年)の秋、アマゾナスを訪問、州政府と植民地譲与の交渉を開始するに至つたのであつた。

 粟津君は、前申す通りの人物、州当局者は、大に歓迎して、快く折衝の結果遂に三ヶ所に亙り、千四百万町歩の土地をコンセツシヨン(譲与地)として提供し、次の契約を結んでくれた。

  ○昭和二年三月から二ヶ年間に、千四百万町歩の土地を踏査し、其結果、一事業区域の単位を百万町歩とし、千四百町歩に対して十四の会社を設立すること。

  ○地域がきまつたら、二年の間に移民を送る方法を講ずること。

これが其主な条項であるが、尚その外に、

  ○設立した会社は十年間無税。学校、病院に対しては極力政府が援助する等頗る有利な特権が多くつけられてゐたが、此契約が、アマゾニヤ州に於ける新日本植民地の基をなすものであることは今更云ふまでもない。

 

  第二次調査隊出発

 此契約を実行するための調査隊は、間もなく政府の手によつて組織された。当時、私は大蔵大臣秘書官として官途にあつたが、及ばず乍ら之には相当尽力したつもりである。

 第一次調査隊の出発したのは、昭和三年八月であつた。併しながら第一次調査隊は、日数と費用の関係上、残念ながら予定の踏査を行ふことが出来ず、わづかに、第一事業区域百万町歩の中、マウエス、ウラリオ、アバカシの三支流沿岸の地、三十万町歩だけの地域を確定して帰朝した。
 但し其時に、更らに追加契約として、

  ○残りの七十万町歩は、昭和六年三月までに確定し、且つその地域は、先に提供された千四百万町歩の地域のみに限らず、アマゾナス全体、どこから選定しもよろしい。

 といふ素晴らしいお土産を得て帰つて来た。

 この結果として更らに政府は、第二次調査団を組織し、どうしても昭和六年三月までには、残りの七十万町歩の地域確定の必要に迫られ、不肖私を団長とする一行十四名の第二次調査隊の編成を見るに至り、昭和五年六月、各般の準備を終り、燃ゆるが如き希望と決心を以て日本を出発するに至つたのである。

 

  植民事業の大局より見て

 私たち第二次調査隊の使命は、第一事業区域として残された七十万町歩の地域を確定することは勿論であるが、尚その外に、植民事業といふ大局から見て、私は渡航に当つて二ツの抱負を実現すべく努力した。

 その一は、吾々の調査は通り一遍の外面的な調査であつてはならない。あくまでも徹底的に産業方面は勿論、衛生保健、気象観測等其他百般の事を調査して、将来移住する人々の基礎的参考の材料を提供するやうにしたい。それがためには、植民地中、適当な土地を選んで産業研究所及実業練習所を設立したいといふこと。

 第二には、植民地に於ける指導的人材の養成である。由来植民地経営の成否は、調査の完全不完全は勿論だが、今一ツ忘れてならぬのは人の問題である。従来、北米方面で、邦人排斥の声をきく主なる原因は、移住民の素質が悪かつたり、教養が乏しかつたりしたことである。即ち植民地を永遠に栄えしむるためには、移住民の中堅となるべき指導階級を作ること。

 第一の目的のために私は同行する団員についても予め、之に適応する人々を選択した。即ち、農業の専門家、医師、測量家、或は建築家等を伴つて渡航した。さうして、アマゾン河口より七百五十マイルの上流、この新植民地の中心たるべきヴイラ・バチスタの地を卜し、未だ完全といふ事は出来ないが、兎に角組織立つた産業研究所を設立し十九名の所員―家族と合はせて三十有余名のものが早くも研究に着手して居る次第である。

 第二の人材養成の第一歩として、私は昨春渡航前に、東京市外に国士舘高等拓植学校(在学一ヶ年)を設立した。中学校卒業程度の思想堅固にして健康な青年を入学せしめ、将来、新植民地の中堅たるべき人物の養成に着手したが、既に読者諸君の中には御存じの方もあらう、第一回の卒業生、五十名の諸君が四月十九日打揃つて、サントス丸船上の客となりバレンケンス指して出発して行つたのである。私は衷心から我帝国の将来のためにも、若人の前途に幸多かれと望んで止まぬものである。

 

  調査隊の活動

 扨、吾々一行十九名の者は、九月一日ブラジルの首府リオデヂヤネイロを出帆、アマゾン河を溯つて十九日目に河口より千マイル上流アマゾナス州政府の所在地マナオスに到着した。実に日本出発後五十余日であつた。

 初め、吾々は、弥々いよいよ船がアマゾン河に入つたと云はれても、実際船が河の中にうかんでゐるやうにはどうしても感ぜられなかつた。申すまでもなく余りに河が広いのである。

 何にしても、西の方、はるかにアンデス山頂に、源を発して、東、大西洋に注ぐまで、延長実に四千マイル、河口の幅だけでも百〇六マイルといふ素晴らしい大河だ。河とはいひ条海も殆んど同じこと。只、コバルト色の水の色がやや濁つたナと思ふだけであつた。

 下流に於ける航行は勿論、河口より千マイル上流にある首府マナオス迄は、堂々一万トン級の汽船が平気で上下し、現に英国リバプールとの間には、月六回の定期航路が開けてゐる位である。三千五百トン級の汽船は、二千五百マイルの上流ユキトス迄、毎日往復してゐる。偉大そのものとは、アマゾン大河のことである。

 さて、我等は首府マナオスに上陸、州統領をひ、公式の打合せを了へたので、弥々いよいよ、植民地地域を踏査すべくそこから船を一艘借り入れて檣頭しやうとう高く日章旗をひるがへしつつ、一先づアマゾン大江を約二百五十マイル程下り、アマゾナス第二の都会パレンチンス迄戻つて来た。

 パレンチンス地方は一体に地味豊沃、加ふるに、この地方八百万町歩を潤ほすマムルー、ウアイクラツパ、アンヂラ、ラモスリオ、マウエス、ウラリヤ、カヌマといふアマゾン大江の七大支流が、恰もこのパレンチンスの下二マイルの地点に於てアマゾン大江に合して居る此の地方切つての交通便利の地、パレンチンスの町は、このために出来たやうなものといつてもよい所である。

 此地方を日本に譲つて貰へるならば此上ない仕合である。乃ち吾々一行は先づこのパレンチンスを中心として、この七大支流の流域を隈なく、数十日間に亙つて調べて見たのであつた。支流といつてもウアイクラツパ河の如きは、川幅二マイル乃至三マイル、アンヂラ河に至つては五マイル半位の所もある、而も何れも絶好の景色、両岸の砂は真白である。その向ふには千古の大森林がつづいてゐる。而して川の中には又到る処、緑の島が点在してゐる。白い水鳥も飛んでゐる。丁度、瀬戸内海に遊ぶやうな感がする。

 その中を我等の船は日章旗をひるがへしつつ悠々と上下し、或は船を留めて千古の原生林をきり拓いて土壌を検査し、或は土人の血液を取つてマラリヤの有無を調査する等、東奔西走、遂に此地方が植民地として理想的であることを確めて、此地域三箇所に亙つて七十万町歩を選定するに至つたのである。

 

  極楽もさう遠くない

 ここで私は暫くの間、私たち調査隊の眼に映じたアマゾンについて物語ることとしよう。

 由来、アマゾンといふと、赤道直下だ、悪疫の流行地だ。猛獣毒蛇は人の近づくことを許さない所だ……こんなやうに多くの人々は想像して来た。併し、これは決してアマゾンの真の姿ではない。よし又一歩をゆづつて、蜒々えんえん四千マイルのアマゾンの事だ、上流も上流、奥の奥へ行つたなら或はそんな所もあるかも知れぬとして見ても、少くも私たちの調査範囲に於ては、決してそんな恐ろしい所のやうには考へることが出来ない。

 否これは私たち調査隊が云ふ許りではない。有名な探険家、アメルゴ・ベスプシーが嘗て洋々として明るいアマゾン河を溯る時、岸に拡がる大原生林の連続を眺め、晴れたる空、やはらかい気候に接した時、彼は言つてゐる。

『世界に若し極楽といふ所がありとすればもう此所からは、さのみ遠い所ではあるまい』と。

 調査不行届のために、到底アマゾンは、人類の住むに堪へられぬ場所の如く想像してゐた事は、アマゾンにして若し霊あるならば、恐らく其人を恨んでゐることと思ふ。

 私たちの調査が、我植民政策の上に於て、貢献するに留らず、進んで謎のアマゾンの扉を開く鍵の一つとなつたなら、それこそ望外の幸といふべきである。

 

  静かに揺ぐアマゾン大江

 水が流れるのではなくて、海の如くに揺いでゐるアマゾン大江は、あくまで明るく平和である。

 両岸には亭々として天を覆ふ大原生林が、太古を夢みるが如く静かに広くつづいてゐる。

 船の上から之を眺めると、鏡の如くキラキラと光る水面に、せまい額縁がとつてあるかのやうに見えて、その美しさつたらない。

 斯うした情景に、一種の趣を添へるものは無尽蔵の魚類である。朝早く起きて船首に立てば、カノアにのつた土人が弓を束ねて何ものかを待つてゐるのが、朝霧の間に見ることが出来る。

 これはピラルクーといふ大魚の水面に現れるのを待つて之を射ようとしてゐるのだ。長さ一間半もあらう。丁度、それは五月の鯉の吹流しに似た形で、赤い腹を現はしてサツと飛び上つては、又水に沈む。其姿の壮大さ。まことにアマゾンの大王といはうか、代表者といはうか、而もその味は――刺身にしても、塩漬にしても極めて美味い。吾々日本人は一椀の米とこのピラルクーさへあれば、生活には何等の不安を感じない。況んや一尾漁すること得ば、優に二十日間の食糧とするに充分であるに於てをやだ。

 又、時々、洋々たる流れの中に、オツトセイのやうに、頭を突き出しては、又静かに沈んで行く怪物を見ることがある。これはベツシボーイ(牛魚)と云つて、その大きさ四米に達する。肉は食用とするには、不適当であるが、油をしぼつて豚油の代用とすることが出来る。

 其他、アマゾンの魚類の豊富さは枚挙に暇がない。アマゾンの魚類の種類と其量は、全大西洋のそれに匹敵する』と或る西洋の学者のいつた言葉でも想像される程、実に、無尽蔵である。此意味に於てアマゾンの水産物の前途について吾々は、非常の期待をもつてゐる。

 此際、私は一言つけ加へておきたいことは、アマゾンの鰐についてである。アマゾンには勿論鰐はゐる。本流にはあまり見受けないが、殊に支流へ行くとアチコチで二間、三間といふ大きいのに出逢ふことがある。

 然し、アマゾンの鰐は従順だ、私はアマゾンの鰐を見て、日本人は、鰐についてもつてゐる、従来の考へ方をかへねばならぬと思つた程おとなしい。人間に対して決して積極的攻撃の態度をとらない。船が進んで行くと、みんな水中に沈んでしまふ。思ふにアマゾンには、ありあまる程、食物があるから、満腹の結果、人間にまで及ぼす必要がないではなからうか、蓋し、衣食足つて礼節を知るは、人間だけではないらしい。

 

  果物の天国

 有名な博物学者ベーツは『一平方キロメートル(約九町四方)のアマゾン森林中に分け入ると、どんな博物学者でも、一生涯の研究対象を得るであらう』

 と云つてゐる。それ程、植物は豊富で種類が多い。

 原生林といへば、到底人間の行き得ない所のやうに解釈されてきた。所が、聞くと見るとは大ちがひ、亭々二百尺に及ぶ大木は、決して密接して立つてゐるのではない。十五米乃至二十五米おき位に離れて立つて枝を張り、その大樹の下に直径七寸乃至一尺迄の木が並んでゐるに過ぎない。その木立の間には、自然の道が開けて、木の間を通して来る風は、いかにも涼しい、而も、地面は、苔蒸した日本の深山幽谷の冷たさ――ジメジメさとは全くことかはり、適当な湿度をもつてゐて頗る気持がよい。

 而もこれ等樹木の悉くは、木材用或は果樹用、食用等として私たち人間の来るのを歓迎してゐるのだから林産方面から見たアマゾンだけでも大したものである。

 中にも建築材料としてのセーズロー、アンヂユロバーなどは、調査隊中の大工が驚いた程の良材で我国の檜の如きは到底及ばぬ立派なものである。

 殊にアマゾン森林の大王といはれるサブカイヤーは、直径六尺、高さ二百尺にも及び、其の上には、直径一尺位の、梨形の実が、枝もたわわに結んでゐる。実の中には無数のソラ豆形のブラジル納豆が入つてゐる。これは菓子をつくるにも使ふが、ただ食べても栗よりもはるかに美味い。

 それから又日本に来ると、果物の王様としていばつてゐる、マンゴーの如きは、アマゾンでは問題にならぬ程、沢山あつて、土人の子供でさへ平常食べてゐる位だ。百尺以上にものびた樹は、常緑の葉を茂らし、殆ど年中実を絶やさない。

 其他椰子類の果物は無数に多い。殊に、ババスーといふ葡萄の如きものは、其一房を採れば、十四五人のものが、充分に食べられるだけの量がある。竹のざるに入れて汁だけを搾り出し、生のままコツプに汲んで飲む時の味の爽快さは譬へやうもない。私たちは、これを食べることによつて、沁々しみじみアマゾンに来たことを味ふことが出来る。

 殊に、私が乳木と名づけた樹は珍らしい樹で直径三四尺から一間に及ぶ。それに斧で切形をつけて行くと、幹の上の方から、スーツと白いミルクの如きものが流れて来る。

 二百尺以上もある高い幹の上から押して来るその水をコツプで受けて飲む時の美味さ。これ又アマゾンでなくては、味へぬ特権である。

 其他、薬用樹としては、下剤に必要なピンニオン、茶の代用をするアルバレデラー、それから咳止め薬のエンビーラ等々実に沢山の種類がある。他日研究所の調査が進むにつれて世界に貢献する所も、蓋しすくなくないことと信じてゐる。

 近代産業に必須なる繊維用樹木に至つてはこれ又非常なもので、殊に製紙材料としてはアマゾン大江に沿つて何十マイルとも知れず無限に続くエンバウバーと云ふ樹がある。其他エンビーラ、メルメラーアニンガー等、殆ど枚挙に暇のない程で、一方に於て果物の天国たるアマゾンは、他方に於て、近代産業の母たる資格を持つてゐるものと云はなければならない。

 

  魅惑的なアマゾンの夜

 次ぎに私は、アマゾンの気候風土について一言しておかう。今までアマゾンの気候は、随分誤解されてゐた。

 恐らく、これは大アマゾンがその源泉より海に入るまで、殆ど赤道と並行し、赤道直下にあるといふ事が、その誤解の主なる原因ではあるまいか? 殊に私たち日本人には、赤道といふ言葉が如何にも酷熱堪へ難き炎暑を想像させてゐる。併しながら赤道は決して地球上の最高熱線を示すものでないことは、世界の学者の観測によつて明からな所である。

私の経験によれば、アマゾンに於ける一番暑い季節――九月から十一月の一日中最も暑い午後一時から三時迄でさへ、漸く摂氏三十四度(華氏九十三度、二分)を越えることは極めてまれである。

 十二月の雨季に入ると、日中でも摂氏三十度を越すことは少く、夜は二十一、二度(約六十八度)華氏の凉しさである。

 要するに、アマゾンは、香港、シンガポールに比べれば比較にならぬ程凉しく、台湾や東京の夏よりもしのぎよいといふことになるわけ、論より証拠最近アマゾン旅行をされたパステル画の大家矢崎千代二氏が、マナオスを写生した絵につけ加へた言葉を引用してみよう。

 マナオスの画に就て
         矢崎千代二

 今度のアマゾン旅行には、平常非常に病身な一人の娘を伴つた。自分も先年巴里で大病をしてから、腎臓病が出て未だなほらない虚弱な体であるが、二人共アマゾンの二個月間一度も病気をしなかつた。
 この図はマナオスの劇場で、通りは此の画にある様な、四角や円形に刈り込んだ美しい並木の連続で、此の町の特徴をなしてゐる。
 写生旅行は到る所容易に、其の地の人気の善悪を、知ることが出来るものであるが、今度の経験で、此の地程善良な所はないと思つた。生活のらくなことも、その原因の一つであらう。

 

  厳粛な入植祭

 前に述べたやうに植民地の地域は確定したが、今度はアマゾニヤ産業研究所及び実業練習所を設置する根拠地を選定する必要がある。これには非常の苦心をしたが、結局、前に云つた七大支流がアマゾン大江に合流するヴヰラ・バチスタといふパレンチンス近くの土地に一マイル半、奥行三マイルの所を買取つて十月二十一日午前十一時から立柱式、斧下し式を兼ねた入植祭を行ふこととなつた。此式につらなおつたのは、前日案内状を出しておいたパレンチンス市長、裁判長、其他三十余名のブラジル人、日本人としては山越、鳥海両拓務事務官、稲垣技師で、団員一同、小人数ながらも厳重な式をあげることが出来た。

これとき昭和五年十一ママ月二十一日、ここにアマゾニヤ州ヴヰラ・バチスタの地に於て、新日本植民地入植の祭を行ふ……』

 と云ふ祭文を、故国同胞に響けよと許りに緊張して読んだ其時の気持は、未だに私は忘れることは出来ない。

 十月二十四日から、団員の活動は開始され原生林の伐採は始まつた。

 其間に私は州政府と談判の必要上、首府マナオスに引返したが、明日、地域確定の承認を州統領にもとめると云ふ其前夜から、ブラジル全体に革命が突発、其為、交渉がだんだんとおくれたが、漸くにして十一月二十一日、革命政府の任命した新州統領と会見してその確認を得、二十二日の官報によつて一般に公布されてここにアマゾニヤ新植民地百万町歩といふものは、完全にきまつたのである。

 

  産業研究所の生活

 さて、政府との交渉をすませ、約一ヶ月ぶりで再び産業研究所に帰つて見ると、既に団員の手で附近の原生林五十町歩は伐採され、従前からあつた三十町歩、尚牧場地の五十町歩、三十七頭の乳牛は、私の帰りを心から歓迎してくれるやうであつた。

 私は、これから産業研究所の生活について物語つてみよう。

 朝は大抵、日の出る前、午前五時頃に起床する。アマゾンの朝は爽かだ。ベツドを離れて研究所の外に出て見ると、緑の大空が高く遠く広がつて、南の果原生林に続いてゐる。森の上に金色の光明が照り映えるかと思ふうちに、朝の世間は開けて行く。

 産業研究所第一の仕事は、農作物の試作だ。米の試作は何より大切だ。又、大豆、もろこし、ごま、煙草、綿、斯うした一年生の作物の試作と同時に、ゴム、ココア、カスタニヤ等の永年生作物をも植ゑてゐる。

 研究所を中心としての庭園には、数百種の植物がある、これを以て植物園をつくると同時に、東側の傾斜地を利用して、蔬菜園を造り、菜、人参、大根、蕪青かぶら等、各種の野菜を栽培した。

 是等、植物の生長力の旺盛なことは、実に驚くばかりで、野菜類の如きは、今夕種をまけば明夕は既に芽を出す、モロコシの如きは一ヶ月半で実を結ぶといふ有様だ。

 成程、これでは怠け者の土人では、この旺盛な生長力をコントロールして行く事は到底出来ない。仕事に追はれて捨ばちになる筈だとつくづく思はせる。

 単に、農産だけではない。水産、林産、牧畜、悉くが無尽蔵の宝庫を持つてゐる。一度、勤勉にして智力ある我大和民族が、此豊沃の地に移住したならば、此の大宝庫はどんなに拓けて行くことだらう。思うてここに至れば私の胸はおのづから高鳴つて来る。

 鍬や斧は肩にして仕事に出て行く私たちの髪を、そよそよと凉しい風が吹き渡つて行く時の快さ。或時は、奥深く進んで千古の原生林を焼いて巨大な木材を倒し、一歩々々と開拓の手を拡げて行く。その時の豪快さ。

 斯うした愉快は、到底内地のせまくるしい天地では味はれない。

 午後六時のサイレンと共に、研究所へ帰つて来る。岸を下つて板のやうになつた水成岩の上に真裸となつて、ほこりにまみれた身体を、アマゾン大江の水で拭ふ。

 夕方の食卓の上には、新鮮な果物あり、食肉あり、香の高い牛乳がある。一日の疲れも忽ちに忘れて満腹の腹をなで下ろす。

 夕飯がすむと、きまつたやうにバンコ(長い腰掛)を持ち出し、団員一同車座になつて、今日の出来事や将来の計画を語り合ふ。

 夜のアマゾンは全く魅惑的だ。

 アマゾン大江の彼方には、北斗七星と北極星がひらめき、東の方原生林の上には、日本の冬の夜中に見えるオリオン星座がハツキリと三ツ星を現はしてゐる。

 この星が、一夜明ければ故国の夜、天高く現はれるかと思へば、自分の身体が遥か一万七千マイルを隔てて、地球の裏と表、正反対の位置にあるなどの感は起らない。

 十二時を過ぎると、南の方四十五度のあたりには、若人の血ををどらすサウザンクロース(南十字星)が、その麗はしい姿を現はす。ここに至つて私たちは始めて自分で南半球にあることに心づく。

 

  白人の顧みなかつた理由

 諸君、
 諸君の多くは、恐らく従来世に紹介されたアマゾンと、私の述べたことと余りにその距離の隔つてゐるのに驚いたことと思ふ。

 それと同時に、此の天恵の沃土が、何故に今日まで欧米人の手によつて開拓されずに残されたかといふことについて疑問を起された事と思ふ。私は他日、この問題について評論する機会があると思ふから今日は、その結論だけ申述べておく。

 他にいろいろの原因もあるが、結局『白人は熱帯国内にあつては、自ら労務に服するだけの自信と体力がない』といふことになる。

 日本の六倍、欧羅巴洲と殆ど同じ広さをもつアマゾニヤの住民は三十七万人にしか過ぎないのだ。彼等白人が、アフリカ、インド、濠洲等に於て駆使する程の多くの先住民族がゐないのだ。アマゾンの富源を開拓しようとするならば彼等自身が働かねばならない。それは彼等にとつては非常に苦痛とする所なのだ。

 かく観じ来ると、世界に残された唯一の大自然、無限の宝庫を開拓すべき使命は我大和民族の上に懸つてゐると云つて差支ない。私は斯うして楽しい希望を満ちた生活を約一ヶ月間続けたのち、一先、研究所員と訣別をつげ、帝国政府へ調査報告旁々かたがた将来の計画を具体化すべく帰つて来た。

 今や百万町歩の地域は確定し、その根拠地も定まつた。そこには、産業研究所と実業練習所といふ基礎的機関も出来上つた。残された仕事は、大衆移民を送るべき会社の設立だけだ。私は我が大和民族の発展を啓示するが如き、彼のアマゾン原生林の中に、我等が同胞の打下ろす槌の音がだまする日の一日も早からん事を切望すると共に、諸君の奮起を望んで止まないものである。

(アマゾン植民地に関し更に、詳細を知りたい方は直接上塚氏へ御照会を願ひます。同氏の御住所は東京市小石川区大塚仲町四一)