移民先ごとの出身県の特徴

Relação entre a província de origem e o destino dos emigrantes

Outstanding features of each emigration destination in terms of emigrants’prefectures of origin

有磯逸郎は、ルポルタージュ『日本之下層社会』などで知られるジャーナリスト 横山源之助(1871-1915)の筆名。横山の論説「移民界の活動者」からここでは移民先と出身県との関係について紹介されている部分を抜粋した。全文は『横山源之助全集 第7巻 殖民(一)』立花雄一編 法政大学出版局 2005 でも読むことができる。
なお、沖縄県の移民が多くなるのは、ブラジル移民以降のことでここには挙げられていない。

◎移民の散布地図


 移民業界には、如何たる人物が働いてゐる乎、余は之に答ふる前に、今日何れの地方に移民多く、且つ営業者多きかを語らう。

 初めて我国に移民取扱業者―移民会社が起つたのは、今より十四年前、即ち帝国議会の開かれて二年目―明治二十四年の事で、彼の労働問題の鼓吹者として知らるる秀英舎々長佐久間貞一氏が、日本郵船会社々長吉川泰次郎氏と組合つて出来た京橋区新肴町の吉佐移民会社は、その権輿はじめである。次いで日清戦役の起つた明治二十七年に、神戸と、横浜と、広島と、東京の四ヶ所に起つた。今日布哇ハワイ移民の貯金を基本金として、移民間に勢力あり、且つ移民業界一方の重鎮たる京浜銀行頭取森岡真氏の森岡商会の起つたのも、此年である。即ち二十四年に端緒を開いた移民業界は、爰に日清戦役の起つた二十七年に至りて、初めて事業界の呼び物と為つたのである。

 之より、続々と、神戸、広島、岡山、和歌山、熊本の各地方に起り、特に星亨の門下として知られた日向角次郎(後に輝武)、井上敬二郎、渡辺勘十郎、菅原伝等の諸氏が米国の空気を呼吸して新運の鋭気を注いで、布哇移民に努めたるより、雨後の筍の如く起り、三十四年より三十五年の二年間に、十六七の移民会社を見るの盛況に至つた。その地方を挙ぐれば、熊本県、広島県、山口県、高知県、関東には、東京、及び千葉県、それに東北では福島県と仙台市の二ヶ処に出来たが、最も多いのは、広島県と熊本県で、三十四年に熊本県に二ヶ処出来、三十五年には広島県に四会杜出来たのを見ても両県下に於ける移民業の模様やうすが判るであらう。即ち、今日移民業の盛んな土地を区分すると、東京を除けば、広島県と熊本県で、うして業界に勢力を収めてゐるのは、日向ひなた、井上、渡辺等の諸氏であるのだ。

 最も横浜、神戸の二市も、常に移民希望者の来往は頻繁で、移民会杜の数も二三ではないが、之は海外渡航の出口であるからで、今日移民の多く出るのは、矢張移民会杜の多い広島が第一で、次は熊本、長崎、福岡の九州地方と、それに岡山、山口、和歌山地方が、最も多いのであるが、其地方によりて、各々出稼地を異にしてゐるから妙である。今は戦争であるから、西比利亜方面には、我民族は居ないが、西比利亜に出てゐた我国民は、長崎地方の者、最も多く、朝鮮は長崎、山口、広島、熊本の者多く、濠州地方は和歌山県人多く、我移民の最も多き、殆ど第二の日本と称せらるる布哇は、広島人最も多く、次は熊本、長崎、福岡、山口、岡山、和歌山、否、此の布哇には静岡、山梨の東海道からも、仙台、福島等の東北人も、越後、越中の北国人も、否、国といふ国、県といふ県から県は出て居らぬ土地は有るまい。それも其の筈、布哇在住人民十二万人の中、七万人以上は我日本人だといふではないか。爾うして彼の森岡真氏が扱つてゐる伯露移民は、遥然ずつと違ふて、新潟県人が最も多いのである。